最後の一押し
近々、ソフィア・アルネルト殺害事件の再審が行なわれるらしい。
らしい、というのは、あくまでも噂に過ぎないからだ。情報源は、青い顔をしてそれを聞きにきた例の陪審員。ガウナのことを死刑にしても良いとさえ言っていた、厄介な男である。
「どういう事ですかな、アヴェイル判事」
だが、貴族は貴族。内心不安でたまらないだろうに、いや、裁判を軽んじる男の心情としては、自分のプライドが傷つけられることが不満なのだろう……トラスを詰るように言う。
「ガウナ・アウグストは、王立裁判所にて死刑になるはずでは? どうして再審などという噂が立ち上っているのですかな?」
再審となれば、この男の名誉失墜は免れない。実は無実の相手を裁いた、長い刑期を主張した、間抜けな貴族の烙印が押されてしまうのである。
それは、トラスも同じこと。
「私の判決は絶対です。覆りなどしません」
トラス・アヴェイルが名判事と呼ばれる理由は、判決の絶対さにある。たまに耳にする、貴族に脅されて判決を覆す地方裁判官などは、同族の恥だと常々考えている。
「何者かが、再審を企てて動いているようです。そのためにまず、噂を流した……貴方は、私よりもその噂とやらを信じるのですか?」
「あっ、いや、そうではない。決して、判事を疑っているわけでは」
だが、どうにも歯切れが悪い。噂の確度がよっぽど高いのだろうか。
「じ、実は、そのことを教えてくれたのは……ノーチラス侯爵なのです」
「ノーチラス侯爵が……!?」
これには、さしものトラスも目を剥いた。老人のような見た目の彼は、貴族間でもどこか浮いていたが、このような噂を流す人物ではないことはわかる。彼は、トラス以上に“保身”を重んじている。
「そのノーチラス侯爵は、誰から聞いたのですか」
「それが、話していただけず」
トラスは、内心舌打ちした。噂を流すからには、何か意図があるのだろうが……こんなところで保身を発揮するとは。
「わかりました。侯爵にも仰っておいてください。私が判決を覆すことはありません。ソフィア・アルネルト殺害事件は、王立裁判所まで持って行かせると」
「そ、そうか! わかった」
「それから、ひとつ頼みたいことがあります。噂の出どころを探っていただいてもよろしいでしょうか。一体誰がこのようなくだらない噂を流しているのか、私は知りたいのです」
そんなことを言った、翌日。
トラスの元に、とある訪いがあった。
「君は……」
扉越しに聞こえてくる声でもしやと思ったが、玄関ポーチに立っていたのは、ジルト・バルフィン。今日は、セント・アルバートの制服を着た二人を背後に連れている。
「よく、ここがわかったね」
トラスの邸は、公には明らかにされていない。判決結果に不満を持つ者が、トラスを刺しに来ないとも限らないからである。
貴族は、王城へと続く貴族街に軒を連ねるのが通例だが、トラスの邸はその反対にあるのだ。
だから、ここをセント・アルバートとはいえ、一般の生徒が訪れることはできないはずなのだが。
「それは、コイツに教えてもらいました」
右後ろにいる少年の顔を向ける。黒髪黒目、確かこの少年は、ダグラス本家の次男か。現外務大臣、レオン・ダグラスの弟。
「で、特定したのがこの子」
今度は、左後ろにいる少女を指さす。淡い金髪に、青色の目。どこにでもありふれている色彩だが、トラスのことを見つめる瞳の強さは、あの異端スレスレのことをしていた学者に酷似している。
ーーなかなかの組み合わせだな。
強いて言うなら、あの人と瞳の色が同じ以外は特徴のない少年が、逆に異質な存在になっている。
「それで? 私のところに来て、いったい何をするつもりなのかな。まさか、無策ということはあるまいね?」
「はい。最後の一押しをしに来ました」
「最後の一押し?」
「そうです。判事の考えを変える、最後の一押しを」
この前、学園で会った時とは打って変わって、少年は堂々としていた。堂々と、というよりは。
「この菓子美味しいですね〜」
ソファの両脇に座る二人に白目で見られながら、呑気に菓子を摘んでいる。まったくもってふてぶてしい態度である。
「気に入ってくれたようで何よりだよ」
「この菓子って、手作りですか?」
「よくわかったね」
「えっ、本当に手作りなんですか!?」
どうやら、適当なことを言っていたらしい少年は目を丸くした。
「ジルト君。私は、君とくだらない話をしようと思ったわけじゃない」
「名前、覚えててくれたんですね」
『私の名前を知ってるの?』
「……」
トラスは、彼には珍しく眉間を指で揉んだ。いま、何かが聞こえたような。
「アヴェイル判事?」
「いや、何でもない……事件関係者の名前は覚えている。目撃者なら尚更だ」
「それなら話は早いですね。アイツ……アウグスト公爵の再審の噂を流してるのは俺です」
最後の一押しという言葉からして、嫌な予感はしていたが。
「アウグスト公爵は無実です。だから、噂を流してます」
「最終審で証言をすれば良い話だろう。わざわざ噂を流す必要がない」
「未成年だから証言能力に乏しいって言ったのは判事ですよ」
半眼で返された。たしかに、それを言ってしまったのは自分である。
だがまさか、ただの目撃者が再審に向かって動くとは。
「だから、再審してもらおうと思って。王立裁判所だと一発で死刑になってしまうでしょ。せめて第二審じゃないと」
「第二審でもなんでも、君の証言能力の乏しさは変わらない」
いくらあの学校の生徒だからといっても、所詮は子供だ。何人集まったところで、法廷では無力。
「わかったら、くだらない噂を流すのをやめるんだね。私の判決は絶対に覆らないんだから」
「『魔女の信徒』」
「……今、なんと?」
「あの宗教組織の教祖が、まだ生きてるって言ったらどうします?」
ジルトがぱちん、と指を鳴らす。
燭台の火が消えて部屋が暗くなり、そして、また点いた。明るくなった部屋で、トラスは燭台を見つめた。そこには、誰もいない。
「アヴェイル判事」
ジルトと他の二人は、まったく、その現象に驚いていないようだった。
「この事件には、異端が関わっているんですよ」




