受け容れ
人間性の獲得
水は、穏やかだった。
ブラン・ルージュ秘書官は、もう誰の秘書でもなくなった。来たる辞職の日の前にやらなければいけないことは、だいぶ終わっていた。今は、余生を過ごす老人のように、ふらりと出掛けては、城に帰ってくる日々を過ごしている。
そう、あとは、ことが起きるのを待つだけだ。
この国は変わらなければならぬとは、革命家のお決まりの文句である。ブラン自身は、そんな文句を言う人物にはなりたくないと思っている。が、ことこれに至っては、そう言わざるを得ない。
「この国は、受け容れなければならない、か」
何も知らない人物が見たら、ブランの心情を勘違いしそうな光景だ。ブランはじっと、水面に映る自分の顔を見ていた。
……物事には、二面性がある。
たとえば、この水だ。ブランは運河と雨に嫌な思い出がある。義父を失った思い出、水は容赦なく、義父のかたちを変えてしまった。
だが、人間が水の恩恵を受けていることは事実。飲み水として、生活用水として。この世から水がなくなったら、人間は生きていけなくなるだろう。
では、魔術や魔法という、異端については? 水のように、二面性はあるのだろうか?
答えはきっと、是である。
あの公爵が使った魔法は、火打ち石も、マッチも使わずに、炎を出すものだった。おまけに、馬車も使わずに、忽然と消え失せた。『使わなければならないもの』を使わずして実現できるのは、なんとも魅力的である。
だが、そんなふうに魅力的でありながらも、異端は、この国の国民に恐れられ、嫌煙されている。
ブランは、自分の祖父の仕事柄、異端には近しいという自負があった。祖父が所長を務めていた『王立総学研究所』は、その名の通り、あるゆるものを学問に落とし込んでいたからだ。
たとえば、『アッカディヤの魔術儀式』。死人を生き返らせる冒涜的なその魔術は、いわゆる『死者学』という範疇に押し込められていた。理論上ではなすことができる。では、その儀式を成功させた暁には、どんな国益があるか? まるで絵に描いた餅だが、そんなことが、馬鹿真面目に議論されていたのである。
そんな議論が、あの日に、吹っ飛んだ。
ブランは、あの日ーーつまり、運河が荒れ狂っていた日、思い知ってしまったのである。
異端は、異端でしかない。学問にしようなどとは烏滸がましい。なぜなら、それは、『知ってはいけない』ことだからである。およそ、日向を歩いている人間を、いとも簡単に影の世界に陥れてしまう、最低最悪の事象。それが、異端だ。
あの銀髪の公爵の、冷え冷えとした藍色の目こそ、異端の象徴である。あの公爵が、自分にない良心を外に求め、人間らしくあろうとすることこそが、異端なのである。
人間から対極にあるもの。それは、理解を阻み、恐怖を生む。いくら便利であろうと、本能がそれを拒否してしまう。なぜなら、それは、人間を人間でなくしてしまうからだ。
ブランは、ふと立ち上がった。自分の右手を見る。これが、異端の名残り。犯罪者をこの身に下ろされて、義父を刺した感触が、今も残っているのである。
「死にたいなぁ」
ぽつりと、呟く。一生消えない感触を背負って生きていけるほど、ブランは強くない。人間でない部分を抱えていけるほど……。
だが、ブランには、やらなければならないことがあるのだ。だから、惰性で生き続けている。あの公爵を。恩人殺しの感触を知りたいがために、ブランに義父を殺させた公爵を、陽の下に引きずりださなければ、ブランの気は晴れないのである。
人はこれを、復讐という。そしてブランは、自分の復讐をするために、異端という大きなものを担ぎ上げ、公衆の面前に晒そうとしているのである。私情に公衆を巻き込むのは、公人としていかがなものだろうか。いやいや、ここで、革命家擬きの言葉が、ブランの大義名分を支えてくれるのである。
すなわち、この国は、異端を受け容れなければならない。学問という範疇に収められなかったそれを、あたかも安全だと詐称して、それから、
ーーガウナ・アウグストは、地に堕ちる。
自分が人間でいられるかどうか、ガウナには自信がなかった。
シンスがくれた答えは、ある程度は予想していたことだった。だが、方法は簡単でも、それを手に入れるまでが難しい。
ーーシンスは駄目だろうか。いや、アレが死んだところで、僕には何も響かない。
ガウナは、自分の欠点を理解していた。絵心がない、好きな人が近くにいるのに気づけなかった節穴、人望のなさ……人を理解する努力をするが、人に理解してもらう努力はしない、むしろ、良い方に誤解させようとする小狡さ。
思うに、アレには自分の心が影響する。好き嫌いがはっきりしているガウナには、とてもできない芸当だ。
ーー僕は臆病だな。
四年前は、こんなことは考えなかった。切り捨てて手に入るものなら迷いなく切り捨てたし、何かを失うことにこんなに恐怖を感じなかった。
けれど、けれど。
そんな、自分の臆病さを、ガウナは気に入っていた。愛してさえいた。なぜなら、それは、彼女からの、彼からの贈り物だからだ。“良心”だからだ。
ガウナは、人間らしい苦悩を手に入れ、それを持て余していた。持て余すのは、それまで、まったく所持していなかったからだ。だから、どうやってそれを使うのか、まだまだわからない。ガウナは、“良心”の初心者である。
“良心”を、完全に自分の中に受け容れることができたのなら。
ーー僕は、もう少し君に近づけるのかな。
異端から這い出た青年は、それはそれは、優しい笑みをこぼした。




