まちがったことを
目を閉じれば、思い浮かぶのは、凄惨な光景。
一度目は違った。二度目は……あれは、たしかに本物だった。本物の、血だった。
血塗れのフレッドは、呆然として、ソフィアはゆっくりと倒れて。学園長室は、血の海になって。
自分の代わりにソフィアは死んで。殺したのは、いつもジルトを王都に送り出してくれたフレッドで、殺させたのは、瓦礫の海からジルトを助けてくれたセブンスで。セブンスは、ジルトを殺したくなかったからソフィアを殺して。
『自分を理由にされるのは、疲れるよな』
心が折れた時、ジルトは、海にいた。チェルシーと、ラテラと見た海ではない。灰色の海。実際には存在しない海である。
本物の海を見たのに、なおもこのような海があることに、ジルトは驚いている。
傍らにいるのは、ジルトと同じ瞳の色の英雄。彼は、砂の上に座って、遠くを見ている。
『いや、疲れるんじゃない。悲しくなるんだ。そういう風にしか使われない自分が』
「使われる……?」
彼は、こくりと頷いた。
『ローズは、俺を愛してるから、人々を殺した。俺を理由に殺したんだ。俺は、ローズがまちがったことをする理由になったんだ』
まちがったこと。
海が割れる。あの男が殺した人間だけが、死体になれる海。死体の数は変わらない。そこに、ソフィアの死体はない。それが、ジルトには、無性に悲しかった。
殺したのは、あいつじゃない。
『俺の存在は、ローズにとって、よくないものだったんだ。だが……』
狂おしいほどの愛を持つ青年は、そっと立ち上がり、右手を伸ばして、空を薙ぎ払った。
灰色の水が、ふたたび海の底の死体を覆い隠した。
『俺はそんなの、どうでもよかった。なぜなら、俺の方が、たくさん殺したからだ』
百万人。かの英雄が殺した数だ。ひと一人が、そんなに殺せるものだろうか?
『殺せるよ。“愛”があれば』
ジルトの疑問に応えるように、英雄は微笑った。
『たいせつな人がまちがったことをしたら、自分はそれ以上に、まちがったことをすればいいんだ。たいせつな人が暗闇に堕ちたら、自分はそれ以上の暗闇に堕ちればいいんだ。そうすれば、たいせつな人のしたことは、ちょっとはマシになるから』
「それは……」
ひとつ、思い当たったことがある。灰色の海に、真っ赤な血が滲んだ。
「それは、化け物を倒すやり方です」
殺すために殺す。セブンスがしたことと同じ。
英雄はーー目を見開いた後、震え始めた。笑っているのだ。砂浜に、ぽたりと雫が落ちた。
『そうか、そうかもしれない。ははは、ローズはもう、化け物だったのかもしれない。だから俺は』
ころしたのかもしれない。
海面に滲んでいた血は、一気に海を赤色に染めあげた。
けれど、血液のような海は、空さえも真っ赤に染めた。それは、優しい優しい、夕焼けだった。誰かが見ていた夕焼けだった。
凪いでいた海から、風がやってきて、ジルトと、彼の髪を揺らす。
『君は、どうする?』
「貴方の経験談を踏まえて、もうちょっと、頑張ってみようと思います」
『……そうか。頑張れ』
そう言って、彼は消えた。
取り残されたジルトは、しばらく、夕焼けの海を見ていた。
「でも、少しわかる気がするんです。同じところに行きたい気持ちは」
ぽつりと、零して。
ジルトは、瞳を見開いた。
「……よしっ!」
拳を握る。まだ握る力のあることに、安堵する。
そのまま、隣の部屋の前に行き、ドアをドンドン叩く。
ちょっと憔悴した様子の、寝ぼけ眼のハルバが出てきたので、急いで決意を表明。
「師匠を殴る!」
「もう殴ったじゃないか」
「もう一回殴ろう」
「……」
ハルバは、珍しく呆れたような目をした。
「……お前の師匠は、最適解を選んだんだと思うよ。現に、公爵は着々と、退任の外堀を埋められてる」
「さすがは俺の師匠だよな」
うんうん、と頷くジルト。「大っ嫌いって言ったくせに」とハルバが苦笑しながら言ってくる。
「結局、嫌いにはなれないんだよ。間違ったことをしてたとしても」
「人を殺しても?」
ジルトは、迷いなく頷いた。
「たとえ師匠が、自分のことを良く思ってくれていたソフィアさんを、散々利用した挙句殺したとしても、嫌いにはなれない。庇うつもりはない。本当に、性格悪くてどうしようもない師匠だなって思ってるよ」
「お前の師匠は天才だ。性格悪くてどうしようもなくたって、それが最適解で、正しいんじゃないか?」
「いいや、まちがってる」
ジルトは、迷いなく、言い切った。
脳裏に浮かぶのは、夕焼けの海だ。
「だから、それを正したいんだ……俺は、師匠を、助けたい」
「……お前の師匠も、お前を助けたいからあんなことをしたんじゃねーの」
「そうだ。だから俺は、師匠を理由にして、まちがったことを正すんだ。ハルバ」
ジルトは、手を差し出した。ハルバの視線が、ついと下を向く。
「うちの師匠が悪かった。煮るなり焼くなり好きにしていいから……力を貸してくれないか?」
「俺の力なんて、たかが知れてるぞ」
ぶすくれて言うハルバ。
「予知能力をたかがって言うか?」
「お前の師匠にバカにされた力だ」
根に持っているらしい、悪いことをした。
「だから」
差し出した手が、力強く握られる。ハルバは、ジルトのことを真っ直ぐに見た。
「今度は、目を逸らさない! お前の師匠、タコ殴りにするけど許せよ!」
「おう! ぼっこぼこにしてやろうぜ! 落とし穴に落として上から蛇とか降らせてやろうぜ!」
「いや、それはしないけど……」
引き気味のハルバに、ジルトは首を傾げた。これ、師匠と暮らしていた時にやられたことなんだけど。
なんてことを考えて、ジルトは「なんだ」と心の中で微笑んだ。
ーーやっぱりどうあっても、俺は。




