許していないから
ファニタがにっこりと言った言葉が、伯爵にはいちばん堪えたようだ。
「な……ファニタ、お前、馬鹿なのか!? いや、馬鹿ではあるまい。だが……!」
「父の研究に、価値があると思いたかったんですよね? 正直、嬉しかったです。ジルト、論文を頂戴」
「……」
「ね?」
「あーもう、わかったよ」
どんな魂胆があるかわからないが、論文はファニタのものだ。ジルトは従わざるを得ない。ジルトは論文をファニタに渡した。
「これが、父の遺した『アッカディヤの魔術儀式』の完成稿です」
ファニタが伯爵に論文を差し出す。伯爵はとびついてその論文を受け取ろうとし。
その手が止まる。
「〜〜っ!! 馬鹿にするな!!」
だんっ! と机を両拳で叩く。
「そんな風に施されるものを甘受しろと!?」
「はい。貴方がいくら頑張っても辿り着けない答えが、ここには書いてあります。有効に使ってくださいね?」
「『薔薇の魔女』を蘇らせる秘術、なんだぞ? ハルバを犠牲にするだけでは済まないだろう」
「勘がいいんですね。そうです。でも、燃やされるよりマシかなと思いました。父の遺稿ですし」
ジルトとクライスを見て言うファニタ。確かに、燃やす燃やす言い過ぎたとジルトは反省した。だが、それが原因ではなさそうだ。ファニタの声は、不自然に落ち着いていた。
「この論文を完成させた時、私は、結論の悍ましさがわかりました。きっと父も、その悍ましさに辿り着いていたんだと思います。
だけど、論文は燃やされずに、こうして私の手元に残った。なぜかわかりますか?」
「天才の考えることなんぞ、わからないさ」
諦めの表情になった伯爵が、首を横に振る。「簡単なことです」。ファニタは言う。
「貴方と同じです。本当は、論文を完成させたかったんです」
伯爵の目が、見開かれる。
「でも、本当に論文を完成させたら自分が罪に問われる。何より罪悪感と後味の悪さが自分を襲うだろう。そんなものを味わいたくない。
だから、娘の私にヒントを吹き込んで、いつの日か論文が完成するのを夢見ていたんです」
「待て、それなら、なぜ私に研究を辞めると言ってきたんだ? 黙っていればわからないだろうに……そうすれば、私が、ガイアスを手にかけることは」
「その点は、父が“いつの日か”を待てなくなったと言いますか……」
何故か申し訳なさそうに、ファニタは言う。
「今まではそう見えませんでしたが、貴方は相当父に劣等感を持っているみたいですね。たぶん、父は貴方の劣等感を利用したんです」
「……は?」
気の抜けたような声を出す伯爵。
「父は、貴方を焚きつけたんです。自分で死ぬのは嫌だったから、貴方に自分を殺させた。自分の死を早めることにした。遺った私が遺志を継いで、論文を完成させて、それが日の目を見るのを夢見ながら。
私が遺体を見たときは、顔もなにもわからなかったけど、貴方ならわかりますよね。父は、どんな表情をしていましたか?」
ファニタが静かに問いかける。伯爵に、先ほどまでの苛烈さはない。目を閉じて、開く。
「笑って、いた……笑っていたんだ。だから、私はそれが不気味で」
「馬車に轢かせた。もちろん、貴方が犯人だということを隠す意図もあったでしょうが」
伯爵はガタガタと震え始める。その時のことを、思い出したかのように。そんな伯爵に視線を合わせ、ファニタは続けた。
「その笑顔は、これでやっと論文が完成するという笑みです」
「なら、私は、はじめから、ガイアスの手のひらの上で……?」
「そうです。貴方は劣等感を利用され、父を殺すように仕向けられた。この論文は、そのお詫びでもあります」
ファニタの言葉に、伯爵は沈黙した。
「……親友だと思っていたのは、私だけか」
ぽつりと呟かれた言葉。鳶色の瞳が潤んでいた。
ファニタは何も言わなかった。
「人質を解放するよう、使者に早馬を走らせる。すまなかった」
頭を下げて、伯爵は言う。次いで、論文に視線を落とす。
「これはもう、要らないな」
「いいんですか? 『魔女の信徒』にとって、大事なんじゃ……」
「“私”にとっては不要なんだよ」
いたずらっぽく笑った伯爵は、幾分か若返って見えた。
「私が、アイツに勝つ方法がわかったからね。ありがとうファニタ。そしてすまなかった。だが、一つだけ言わせてくれ。
あの時、ハンカチを差し出した時の私の感情は、嘘じゃなかったんだ」
「……はい」
ファニタの声は震えていた。
クライスと別れた(表面上)ジルト達は、もうすっかり暗くなった道を歩いていた。
「ジルト、私、嘘をついたわ」
唐突に、ファニタが呟いた。
「父が、伯爵を選んだ理由は、劣等感だけじゃないの」
何かを思い浮かべるようにして、ファニタは言う。
「父は、いつの日か、彼がその論文を読むことを夢見て殺されたのよ」
そう。ガイアス・アドレナ男爵は、アゼラ伯爵にだけ、『アッカディヤの魔術儀式』について話していた。アゼラはこれ幸いと、他の同僚には秘匿したようだが。
「なぜだと思う?」
「男爵も、伯爵を親友だと思っていたから」
「正解」
ファニタは寂しそうに微笑んだ。
『親友だと思っていたのは、私だけか』
その笑みは、彼の笑みとも似ていて。つい、声に出していた。
「なんだか、可哀想な話だな。知らぬは本人ばかりなり、か」
「可哀想でいいのよ。だって、私は許していないから」
ファニタがくるりと回る。高いところで括った金髪が、ふわりと流れる。
「人を一人殺しておいて、晴れやかな気持ちになられたら困るもの。親友に裏切られたと思って、解けない謎を延々と追い続けるがいいわ! ざまあみろ、よ!」
その表情は、実に晴れやかだった。小さな復讐は、伯爵へ向けられたものだけではないのだと、ジルトは思った。
だから、ジルトは「そうだな」と頷くだけにしておいた。
ひとつの復讐を見せられて、ジルトは思う。
いつしか言った、ファニタへの言葉。それは撤回しよう。彼女は立派に戦える人間だった。
ーーむしろ、ヘタレなのは。
目を閉じれば浮かび上がってくる、あの夜の色。
脳裏に、赤と銀が閃いた。
伯爵戦終わり。今回は、ファニタの復讐を見るジルトという構図ですが……。




