蟻と象
華やかなセントアノアを、馬車が行く。
行く時とは逆で、泣き疲れて、目の縁を赤くしたラテラと、ラテラを慰めていたチェルシーが、並んで眠っている。仲睦まじい光景に、頬が緩んだ。
ジルトは少し、安堵していた。なぜなら、海は、夢の通りに恐ろしいところではなかったからだ。チェルシーと、ラテラと見た海は、とても綺麗だった。
ーーアイツは、あそこで育ったんだな。
“知ること”ができて良かったと思う。ガウナ・アウグストの世界には、くらやみだけではなくて、眩しく光る海もあったのだ。トウェル王に殺された家族と共に、過ごした海……。
ジルトは、自分の右手を見た。握った手は、ほのかに温かかった。それは、たしかに生きている者の手で、他の人間の手と、何ら変わりはなかったのである。
……認めねばなるまい。
それは、学園祭の前の夜に考えていたことだ。
家族が殺された。気が狂いそうな暗闇に閉じ込められて、およそ人間的とは思えない生活を強いられた。その結果、あんな人間が生まれてしまったのだ。
“知ること”ができて良かった。それと共に、知りたくなかったとも思ってしまう。
ーー俺が、海が綺麗で安心したのは。
アイツの散々な人生においての救いを見出してしまったからだ。アイツの人生で、少しでもマシな時があったらな、と、そう思ってしまったからだ。
……同情。
ジルトは、ガウナに同情していた。魔女の生まれ変わりというだけで、辛い人生を歩まされるガウナへの。
それはきっと、ガウナを逃したルクレールにも言えることだ。結果として、ガウナはたくさんの人を殺し、今も殺し続けて、たくさんの人の恨みを買ってしまっているけれど、その“良心”は、間違っていなかったとジルトは思う。
願わくば、自分の選択も間違っていませんように。あの時手を引いたことを、せめて後悔することのないように。
そんなことを思いながら、ジルトは右手を座席に投げ出した。そう。
ーーその時が、来ても。
……優しい揺れが、体に残っている。
「うう、起こすのがしのびないけど、起きろジルト!」
「うん?」
ゆさゆさ、体を揺さぶられて、ジルトは目を覚ました。目の前には、ハルバの顔。切羽詰まった様子が、暗闇でもよくわかった。
「ハルバ? どうした?」
「どうしたもなにも、お前、なんでわかったんだ!? ていうか、これって俺が視る必要あったのか?」
「は? 何言ってんだお前」
さっぱり把握できない。
「何を視たんだ、お前?」
「なにって、共和国の副大統領だよ! お前の手紙に書いてあったろ?」
「手紙ぃ?」
寝起きの頭がすっきりしてきたが、ハルバが言っていることは、相変わらずわからなかった。ハルバがもどかしそうに、懐から紙切れを出す。
「ほら、これ! シュルツさんから預かったんだ! お前からの伝言って」
「……いや、お前」
正直、これをジルトが書いたと思われているのにショックを受けた。
「俺の字はこんなに汚くねえよ! 反省文のプロ舐めてんじゃねえぞ」
「いや、舐めてはないけどさ……え? じゃあ、俺のことを頼ってくれたジルトは幻覚だった?」
「それは知らないけど……共和国の副大統領を視て、何かわかったのか?」
「そ、それがさ」
こつ、こつ。
共和国議事堂。磨き抜かれた大理石の廊下は、繊細な照明の光をよく反射していた。
レデンは先ほどから、自分の周りを飛ぶ蠅が、うるさくて仕方なかった。
「副大統領、その、本当に、する気なのかね?」
「くどいですよ、スェル大統領。王国の資金協力が成った以上、帝国からは潔く手を引くべきです」
「し、しかしだね」
「大局を見るべきです。我々共和国は所詮小国。利権だの既得権益だのは、帝国から与えられるものにしかすぎません」
大統領室の扉を躊躇いもなく開く。がらんとしている部屋は、一国の主の部屋としては物足りないように思える。それもそうだ、この部屋は、所詮はお飾りなのだから。
レデンは、スェル大統領を見た。
「覚悟をお決めください、大統領。帝国か、王国かの段階は過ぎ去りました」
それが、先ほど大統領に言い渡したこと。レデンは、にこやかに笑った。
「我々が生き延びる術は、ただ一つ。狡猾に、悪意を持って生きることです」
「君は」
「はい、なんでしょう」
「君は、どうして、そう割り切れる? まるで、帝国でも王国でも、どちらでも良かったかのような……」
「そう見えますか?」
おくびにも出さなかったが、この時レデンは感心していた。金に目が眩んでいるかと思っていたが、さすが大統領になっただけのことはある。存外、彼は賢いようだ。
だから、彼はほんの少しだけ、本心を話すことにした。
「ええ、貴方は正しいですよ大統領。私は、どちらでも良かったんです。所詮これは、死ぬまでの暇つぶしですから」
「暇つぶし?」
「はい。死ぬまでの道程に、どれだけ華を添えられるか、私はそれが知りたいのです」
「だから、祖国を裏切ったのか。失礼、祖国を出たのかね」
「共和国の方々には、理解しかねますか?」
「そうだな。我々は、愛国の徒だ」
お飾り大統領がよく言う。だが、それは大統領の、本心からの言葉である。共和国民の愛国は、少し歪んでいると、レデンはたびたび思うのだ。
「私は、自分の生まれた国で、成り上がりたいんだ」
壁にかけられた大陸の地図。それを背に、大統領は野心を湛えた瞳で言う。こういう野心を隠そうとしないところは、ついこの間に死んだ、シリウス・スピレードによく似ている。
太陽のそばにいてもなお、目を灼かれることのなかった男に。
「だから」
大統領は、くるりと椅子の向きを変え、手に持ったペンで、地図の帝国に、
「示してやろうじゃないか」
大きく、ばつ印を入れた。
「我々のような蟻が、象を倒す可能性を」
「当たりです、セブンス様ぁ。ゆーしゅーな本家サマが言うには『共和国は、帝国と戦争をしようとしている』らしいですよ〜」




