幸福の海
それは、か細い糸だった。
白波を遠くに見遣り、ラテラは、はしゃぐチェルシーとジルトを見た。
「はやくはやくっ、満潮になっちゃうよ〜!」
「満潮になるのは、あと六時間って、ラデイクさん達が言ってたろ」
スカートをたくし上げ、向こうに見える島めがけて勢いよく走るチェルシー。それに苦笑しながら、のろのろと歩くジルト。ラテラは、そんな二人を見ながら、幸せだなと感じていた。
お兄ちゃんがいると、チェルシー様はとっても良い表情をする。学園祭で、思うことがあったようだけれど、日向の世界にいてほしいラテラとしては、良い方向に向かっているように思えた。
「……」
ぱしゃり。
ラテラは、右足で生ぬるい水を蹴った。キラキラとした飛沫が飛んで、水の中に消えていく。
「ほら、あと半分! がんばれーっ」
ーーあと半分で、私は。
熱い砂浜に立ちながら、三人の様子を見ていたラデイクは、隣に立つ老人を見た。
「……良い光景ですなぁ」
「そうじゃの」
干潮の時にだけ現れる島を、あの少年たちに教えた老人は、まるで孫でも見るように、目を細めていた。
「あそこが一番、深海に近いところですね」
「第一次作戦は、干潮時、あの島から兵士に飛び込みをさせたらしい。帰ってきた者は、実質いなかったらしいがな」
老人が、笑いながら、親指で自らの首を描き切る仕草をした。ラデイクは、命からがら陸に上がった兵士の最期を思って、心の中で十字を切った。
渋い表情を浮かべる。
「やはり、海には悪意しかありません。干潮の時にだけ現れるあの島も、海軍兵士にとっては、死出の旅路に思われていたことでしょう」
「そうかもしれないな」
老人の瞳には、同胞を弔うような光が灯っていた。
「ワシも、この海には嫌な思い出しかない。だが、あの子達は、違うだろう?」
「大虐殺の話をしましたが、顔色ひとつ、変えませんでしたね」
「つまり、知っていて、この海に来た、ということだ」
「知り合いの出身地だと、言っていましたね。その、知り合いとは……」
「ああ、そうだろうな」
老人は頷く。大虐殺があった村の近隣では、このことは緘口令が敷かれている。わざわざ他の者に話す蛮勇を持つ者は、誰一人としていないはず。
「どういうわけかわからんが、あれは、あの子達に自分の過去を話したんだろう。自分の弱点を話すことと等しいだろうに……いや。どういうわけか、じゃない。知って欲しかったんだろうよ」
「知って、欲しかった……?」
だとしたら、どちらなのだろう。
魔女の一族か、それとも、トウェル王の残虐性なのか。
ラデイクが難しそうな顔をしていれば、老人は軽やかに笑った。
「そんなに考え込むことではあるまい。ただ、知って欲しかっただけだろうから。ワシらと同じ、あの子達に、海を見て欲しかったんじゃろうな」
はしゃいでいる三人の影は小さくなっていく。ラデイクは、手で庇を作った。その光景が、あまりにも眩しかったからだ。
「いつもの海とは違う気がします。気のせいでしょうか」
「気のせいではないだろうよ。だが、これもまた、ワシらがいつも見ている海なんだ。静かで、鳥が飛んでいて、美味い魚が釣れる。ただ、それだけなんだ」
ラデイクは、大いに同感だった。頷き……そして、気付いた。老人が、もう深海を見るような、遠い目をしていなかったことに。
海にぽっかりと浮かぶ島は、どこに隠れていたのかと思うほどに大きく、真ん中より上には、さまざまな緑を湛えていた。
だんだんと冷たくなってくる海水、深くなってくる海の色。
近くで見る島に、チェルシーが興奮したような声を出す。貧民街で暮らしていた時には、大声を出すことも、嬉しそうな顔をすることもしなかった主人は、今こうして、笑うことができている。
そうして、ラテラは、そんな主人の笑顔を見るのが好きだった。
ルシウス家に圧されて、英雄を裏切ったディーチェル家の生き残り。暗い復讐心を持っていた少女は、別の感情も持ちつつある。それがたまらなく喜ばしい。
ーー私は、幸せです。シリウス先生。
ラテラは、口元を綻ばせた。
亡き恩師が今の光景を見たら、きっと、渋面をつくって「失敗した」と嘆くことだろう。帝国に対抗できるだけの戦力を作るはずが、人の喜びに喜びを覚える軟弱な人間になってしまったと。
その光景を、ありありと想像できて、ラテラは笑みを深めた。シリウス先生のお説教も、甘んじて受ける覚悟だ。日向で死ねるなんて、あの頃の自分には、想像できなかったから。
「おーい、パフェちゃん。大丈夫かー?」
心配そうなジルトが、ばしゃばしゃと水音を立てて近づいてくる。どうやら、自分はいつの間にか、立ち止まっていたらしい。
「ほら、行こう」
手を繋がれる。そういえば、学園祭で、この手は魔女を助けたのだとか。
今までたくさんの人を死に追いやってきた魔女の手さえ引いて、そして今、ラテラの手を引いてくれている。だから、きっと。
ーー私がいなくなっても、チェルシー様の手を引いてくれるよね。
神様は、残酷だけど、信用できる。
私のこのくだらない命さえ差し出せば、なんでも願いを叶えてくれる。どうしようもなく幸せになれない女の子でも、笑顔にしてくれる!
きらきらとした海。惨劇のあった海。けれど、答えはもう出ていた。
チェルシー様の目は、海を……おんなじ景色を見ているお兄ちゃんの目を見て、優しく細められていた。それが答え、ああ、もうチェルシー様は大丈夫だ。
私と同じことをしたカルキ・ダグラスは、お兄ちゃんに会ってから死んだらしい。きっと、お兄ちゃんなら託せると、そう思ったからだ。
魔術の才能がなかった彼は、愛する妻のアップルパイをおいしいと思う味覚と、残りの寿命を犠牲にした。そうして、二人の息子の生を確約した。
私もそうだ。私は、カルキ・ダグラスは、満足して死んでいったと思う。
さわさわと、島の緑の葉が揺れる。
「しあわせだなぁ」
私の胸は、いっぱいになった。声さえ出れば、チェルシー様に伝えたい。「私も幸せです」と。それから、お兄ちゃんに、「チェルシー様を幸せにしてあげてください」って。
なんて、伝えたいことがたくさんあったから、私は声帯を犠牲にしたのだけれど。
だから、代わりに私は、めいっぱいの笑顔を浮かべた。これから先、これ以上に、チェルシー様が幸せになれますように。
満ち足りると同時に、欠ける感覚があった。それは、とても心地の良い感覚だ。
もうすぐ、もうすぐで、女の子は幸せになれる。
終わりが、
……ぷつん。
何かが、切れた音がした。
「……て」
私は、産声以来、聞いていない声を、確かに聞いたのだ。
震えに震えたその声は、たしかに自分の声だった。
「どうして、神様」




