童話作者
謎の言葉を呟きながら、ふたたび眠りに入ったジルトの頭を撫でながら、チェルシーは、向かいの席に座るラテラに目を向けた。
「ねえ、どうして貴方は、そんなに急いでいるの?」
眠っているチェルシーを起こし、レトネア行きを決行したのは、まさしくラテラなのである。たしかにジルトとは海に行きたいと思っていたが、それは夏休みが始まってからにしようと思っていた。そんな矢先だ。
ラテラは、ちょっと困ったように笑った。スピレード内務大臣の元にいたという、誉れ高きルシウス家の少女は、何を考えているのかわからない。
ーーどうして、私みたいな人間に、忠義を尽くしてくれるんだろう。
ダグラス外務大臣の葬儀の時もそうだった。
ラテラは、スピレードの元から離れた後、そっと、荒んでいるチェルシーを見守ってくれていた。英雄への憧憬に囚われるチェルシーを、心配そうに見てくれた。
「ねえ、ラテラ」
あの時、チェルシーはラテラにこんなことを訊いた。
珊瑚色の目を細める。
「貴方の願い事は何?」
「……!」
ラテラが、なぜか、ひゅっと息を呑んだ。亜麻色の髪を逆立てて、黄水晶の瞳を大きく見開いた。
ジルトを起こさないように、チェルシーは、そっと前屈みになって、ラテラの小さな手を取った。
ラテラの手は、柔らかくて温かい。けれど、見た目ではわからないほどの、細かな傷を負っていた。まだ十にも満たない少女が、こんな手をしている世界は、やはり間違っている。チェルシーの中の厭世観は、それでも消えることはないだろう。
「ね、アントニーは良いお兄ちゃんしてる?」
ラテラが固まったままだったので、チェルシーは答えやすいだろう話題に変えた。ラテラが、すぐに、こくりと頷いた。
「そういえば、アントニーとマルクス財務大臣には、海に行くこと言ってきた? ラテラが突然いなくなったら、二人とも悲しんじゃうよ」
チェルシーは、おろおろする二人を思い浮かべて、少しだけかわいそうに思った。まあ、それもハルバが言えば良いだけの話だから、気にすることなんてないんだけど。
一向に、縦にも横にも振られない首。どうやら、ラテラは迷っているらしい。
「今度は言ってから出かけようね、って、それを言わなかった私も悪いんだけど」
チェルシーが苦笑すると、ラテラは、ややあって、こくりと頷いた。
馬車が止まる。セントアノアの西端、遮るものがなにもない場所は、うら寂しい光景だ。実は栄えているのは、“海の入り口”であるセントアノアで、そのセントアノアも、戦後の復興のどさくさで、小さな町が大きくなったのだと、先程馬車で読んだパンフレットに書いてあった。
「海……おわぁ!?」
寝ぼけ眼のジルトが、直後に聞こえた甲高い鳥の声に、素っ頓狂な声を出す。それがおかしくて、チェルシーは笑った。ジルトは、バツの悪そうな顔をする。
ここからは徒歩だ。華やかなセントアノアを抜ければ、戦前の頃から何も変わっていない、手付かずの道と、集落が見えてくるはずだ。
「そういえば、馬車で読んでたのって、パンフレットか?」
「そうそう、これがなかなか面白いんだ」
チェルシーは、カバンの中から三つ折りのパンフレットと、もう一つ、旅で手にした一枚の紙を取り出した。
「それは?」
「この地方に伝わる伝承なんだって。“海に消えた男の話”」
緩やかな坂を降りながら、チェルシーは、ジルトとラテラにそれを話してあげた。
……むかしむかし、セントアノアがセントアノアでなかった頃の話。海以外何もない町に、とある一人の旅人がやってきた。
その旅人は、若い男で、病的な目をしていた。
せっかく海の見える町に来たというのに、日がな一日中宿に引きこもって、何かを紙に書きつけている。それはどうやら原稿のようだ。話しかけてくる宿の者にも応えることなく、時には高級な紙をくしゃくしゃに丸めて、黒髪をガリガリと掻いて、何かをぶつぶつと呟いていた。
ーーある日のことだ。
『皆さんのおかげで、やっと完成しました。読んでみてください』
憑き物がとれたかのように、晴れやかな笑顔の男は、宿の者に原稿を差し出した。それは、ひとつの御伽噺だった。各地に伝わる伝説をひとまとめにして、子供向けに書かれたもの。その物語は、とても優しく、温かかった。
後年の研究では、実はその童話には、伝説とは真反対のエピソードが盛り込まれているらしい。
「たとえば、聖剣。“彼”は聖剣を使って“彼女”を倒したというのがおきまりなんだけど、その童話では、“彼”は聖剣を使っていない」
「聖剣、って、もしかして」
「うん、そうだよ」
目を見開くジルトに、チェルシーは頷き、続きを話し始める。
……宿の者の反応をみて、満足したらしい男は、こう呟いた。
『これでようやく、海に行ける』
次の日。男は、荷物と置き手紙を遺して、それきり帰ってこなかった。
宿の者は、男の死を悼んで、町の小さな出版社に原稿を持ち込んだ。それは瞬く間にベストセラーになった。
その童話『英雄アルバート物語』の売り上げは、身寄りのない子供たちのために寄付されているのだという。
「……セントアノアは、あの童話の発祥の地なんだよ」
たぶん男が通った道を辿る。
男は、どんな気分で海へと向かっていたんだろう。どうして、そんな童話を書いたのだろう。どうして、死んでしまったのだろう。
ラテラを見る。彼女の瞳は澄んでいた。チェルシーの語った伝承を噛み締めるように、まっすぐ海の方を見ていた。
ざくっ、ざくっ。
耳元で、肉を穿ち、地を穿つ音が、こだましていた。
『頼む、頼む、頼むから死んでくれッ、俺にその力をくれッ、あの時に、十二時間前に全部わかってれば、みんなうまくいったはずなんだ』
阿呆な男は、どうして神が、予知能力を右目に、千里眼を左目に宿しているのかを考えないらしかった。ただひたすらに、それを振り上げて、ペルセの体を滅多刺しにしていったのだ。
「さて」
ジルトを乗せて消えた馬車。その行方を議論するガウナとクライスを見ながら、ペルセはソファに沈み込んだ。
目を閉じれば、広がるのは群青。
暗くて深いそこで眠っていたペルセに、男の言葉が投げかけられた。
『だから、あれを読んだら、みんな、君を思い出すよ……あの時は、悪かったな』
「結果は、わかりきってるはずなのになぁ」
呟いた言葉は、誰にも聞かれるはずもなかった。




