暗闇の淵とその反対
握った手を離すことをできずに、夕日が空を赤く染めるのを見ながら、チェルシーはぷりぷりと怒るお姫様を見た。
「暗殺者? 偽物? そんなの、誘き出して捕らえれば良いのです」
リルウは、ジルトと一緒にいられないことに大変お怒りだった。行き場のない感情を紛らすように、チェルシーと握った手をぶんぶん振る。
チェルシーたちを見事にだましてくれたトランを探していたのが、四時間前。残念ながらトランは見つからず、それに痺れを切らして、姿を現そうとしたリルウを止めようと格闘したのが二時間前。
「だいたい、あの男は何を考えているのですか。たかがギャング、たかが裏社会。それであの男を斃せると思っているのですか?」
「私にそれを聞かれても……と、言いたいところなんだけど、思ってるんじゃないかなぁ」
チェルシーは、頬を掻いた。実は、チェルシーは、トランのことを同類と思っている。
トランは、自分が暗闇の淵に立っていることを自覚している。相手が暗闇の奥深くにいるのなら、淵に立っている自分が、もっと奥深くまで潜れば、きっと敵うはずだという考えを持っている。
それはある意味正解。カルキ・ダグラスの葬式で、暗殺者を金で買収したフラウ・アルネルトを、暗殺者自身の命で買収したエリオット・ノーワンが上回ったことを踏まえれば、誰よりも深淵に潜ることで、相手に勝つことができると考えるのは正しい。
もう一つ例を挙げるならばーーできればもう会いたくはないが、あの男。“魔女の棲家”で、ガウナが召喚したトウェル王が、その証左である。
彼は、あの場の誰よりも魔術と魔法に長けていた。悠然と物理攻撃を躱し(なぜジルトのナイフは凍らせなかったのかはわからない)、魔法を無効化した。転移魔法の教授さえした。
知識も、それを使う知力もある。近距離にいたら凍らせられる。そんな誤認をチェルシーたちに植え付けて、実際は、遠距離で二人の心臓を仕留めた。そんな悪意のある人物。
たしか、あの男は、王位継承権のある人物全てが死んだ後に、王になったはず。全てを欺く必要があった彼が、誰よりも深淵に潜ったからこそ、王位を手にすることができたと考えるとしっくりくる。
血で血を洗う継承権争いの勝者に勝つには、もっと血を被る必要がある、というのも道理だろう。
だから、チェルシーは、トランの気持ちがわかるのである。
相手よりも悪意を持つこと、深淵に潜ること。毒をもって毒を制す。
チェルシーがトウェルを殺すとしたらそんなことを考えるから、気持ちはわかるのだが……。
ーーアイツ、やり方を間違ってるんだよなぁ。
チェルシーがトウェルを殺すとして、それは魔力を持つ者同士の戦いだ。格が落ちるが、ガウナを相手にした時も同様。
トランは、魔力という概念を知らない。異端を知らない。そういう意味では、淵にすら立っていないのだ。足りないものを自覚せずに戦いに挑むのは、愚の骨頂。大人しく、操り人形になっていればよかったものを。
チェルシーとトランは同類だが、決定的な違いがある。それは、異端を知っているかどうかだ。
だから、トランに協力を申し出た時、チェルシーは、この暗殺計画を、あくまでも実験だと結論づけた。異端を知らない、深淵に潜ったつもりの優等生が、どこまでやれるのか。
ガウナの喉元に手が届いて殺されるのか、届かなくて殺されるのか。それを見極めるつもりだった。
ーーこの子も、それをわかった上で言ってるんだろうな。
チェルシーは、リルウを見た。彼女は、“たかが裏社会”と言った。チェルシーと同じく、トランに足りないものを理解しているのだろう。リルウは、相変わらず頬を膨らませていた。
「トラン・ネラルが馬鹿なことをする前に、私が進み出て、彼の計画を台無しにしてしまえばいいのです。そうしたら、あの男は死なずに済む。お兄様もクラスメートの兄を救うためだから、私のことを責めないはずです。まあ、お兄様が私を責めるはずはありませんけどね! 『リーちゃんえらいね、ご褒美に結婚しよう』と言ってくれるはずです」
「……」
「どうしました?」
「……いや」
飛躍しすぎなんじゃない? とか、ジルトと結婚するのは私だけど、とか、言いたいことは色々あるけれど、チェルシーがまず思ったのは、「君、本当にあの男の娘?」だった。
あの男ならば、きっと、チェルシーと同じように、トランを使い捨てる道を選ぶ。だが、リルウが姿を現してまでしようとしていることは、トランを助けることだ。
リルウと繋いでいない方の手で、チェルシーは額を覆った。自分が嫌になった。
「嘘だろ……なんでそんなに」
自分が切り捨てようとした人間を救おうとするリルウに、チェルシーは、驚きを隠せない。そんなチェルシーを見て、リルウは嘆息。
「……たしかに、トラン・ネラルと、エリサ・モルトーの偽物、そしてその者と繋がっている共和国の刺客が、宰相にどれだけ刃を届かせることができるか。それを検証するのは、とても有効な手です」
チェルシーの心を読んだかのように、リルウが静かに言う。紅色の瞳は、さきほどの激情なんてなかったかのように、凪いでいた。
「ですが、トランが殺された時のお兄様の心情を考えると、私には、そんなこと、とてもできないのです……ディーチェル公爵」
「……はい!」
びしっ、とチェルシーは、背筋をただした。四歳年下の少女は、ひとつ頷き、蠱惑の笑みを浮かべた。
「貴女のその考えは、私が無くしてしまったものです。大切になさい」
「へ?」
「恋は盲目ですから。私が甘いと思った時は、貴女のその厳しさで、連れ戻してください」
「女王陛下……」
無くしてしまったものもある。けれど、得たものもあるのだろうとチェルシーは思う。
敵わない相手を倒そうとした時、相手と同じ暗闇に身を落とすのも一つの手。だが……。
「敵わないな」
脳裏に灰色の髪の少年を思い浮かべて、チェルシーは笑った。繋いだ手を離す。
「行っておいでよ。トランを助けて、ジルトを喜ばせるためにさ」
ーー私には、まだできそうもないから。
だが。
「何を言ってるんですか」
離した手を、リルウが掴み直す。
「あの男の悪意に対抗できるのは、貴女しかいないんですよ」
「……え?」
その、時だ。
「それでは! 表彰式を執り行ないたいと思います! なんと、トロフィーを手渡してくださるのは、このお方たち! ガウナ・アウグスト宰相と……リルウ・ソレイユ女王陛下です!!」
響き渡る声に、チェルシーは驚愕の表情を浮かべ、リルウは半眼になった。
「……はあ!?」
「……そう来ましたか」
学園祭終了まで、あと一時間。
すべての悪意と、そして善意を飲み込んで、表彰式が始まろうとしている。




