手を引くこと
久しぶりに会った恩師は、不器用な笑みを浮かべていて、そして少しやつれたようだった。
何を隠そう、トランたちのクラスが、学園祭で優秀賞を獲ったときの担任教師が、今目の前にいるエベックなのである。
思ったよりも早いエベックとの邂逅に、トランが最初に口にしたのは悪態だった。
「何であんたがいる? 俺たちが何も言わないように、監視しにきたのか? それとも、そこのダグラスの坊ちゃんに唆されて?」
騙し打ちされたような気分だった。せっかく、エリサのことを話さないで済むと思ったのに、向き合わなくて済むと思ったのに、これでは……。
ーーこれでは、なんなんだよ。
エベックが現れたから、なんだというのだろう。どうして自分は、こんなにも焦燥に襲われているのだろう。
ーーそうさ、焦るこたァない。
「まあどっちでも良いけどよ、せんせーの言う通り、告発なんてしないから、黙って俺たちのやることを見ててくれよ。なに、悪いようにはしないからさ」
ようやく余裕を取り戻せたのに、エベックは「それはできないな」と穏やかな声で言って、首を振った。
「私は自分に約束したんだ、君たちを死なせない、と」
でも、現実には一人死んでいるじゃないか。ハドソンとケイヴがいる手前、そんな言葉を口に出せず、トランは歯噛みする。
正確には、ガウナ・アウグストではなく、トウェル・ソレイユの遺臣の手によってだが。
「死なせないってのは結構だが、抑圧された俺たち生徒がどう動くかっていうのは、考えておくべきだったんじゃねェのか?」
「……あの男を追い詰める前に、私を欺かなければならなくなった。大いに枷になったでしょう?」
そんなことを飄々と言ってのける。飄々と、というか、これは。
「開き直ってますよね、クレア先生」
ケイヴが苦笑いしながらそう指摘すると、エベックは、「わかってしまったか」と金髪を掻く。
とてもセント・アルバートの冷酷学園長には見えないその仕草は、まさに四年前、トランたちを鼓舞して暗闇を先導したクレア先生である。
頼りない仕草とは反対に、動揺する生き残りの生徒たちをまとめ上げ、十二人全員を生還させた男。どんな時も声を荒げず、敬語を貫き、無様なところなんて見せなかった、トランの憧れた、クレア先生なのである。
ーーだから何だってんだよ。
認めよう、トランはエベックに憧れていた。だけれど、それはあの日に霧散した。ギャングの家系に生まれた少年の、清廉な生き方は、あの日に否定されたのだ。
理想を押し付けすぎたことはわかっている。エベックだって、一介の教師だった。人間だった。いつでも正しいことを貫けるのは、きっと神様ぐらいしかいないんだろう。
けれど。
『全員。これから先、何があっても、ここで見たことは絶対に喋るな、誓え』
憧れていた大人が、簡単に膝をついたことは、幼いトランにとって、あまりにも衝撃的なことだったのだ。
……人一人を殺すことは、簡単なことなのに。
奇しくも、ギャングの家系に生まれていたトランはそんな認識を抱いていた。弟のトリーなら、顔面真っ青で小便ちびるだろうから、地下での出来事は話さない。けれど、トラン自身は、死体の数に思うことはあっても、死体それ自体には何も感じなかった。
あの時のトランを打ちのめしたのは、他ならぬ、エベックの態度である。
「開き直っても、あんたが臆病者であることに変わりは無ェ。必要以上に怖がって、正しいことを貫けないあんたには」
「私は、正しいことを貫いているつもりですよ」
「はっ、正しいこと?」
だんまり決め込むのが正しいことなら、そんな正しさはいらない。結局、アイツとおんなじところに降りていかないと、正しいことは為せないんだ。
「君たちを死なせないこと。それが、正しいことだ」
「そんな後ろ向きすぎる正しさなんてーー」
「アドレナ君。今まで、あの男の手によって死んだ者の名を挙げてごらん」
トランの言葉を遮って、エベックは、地下に降りてきた少女、確かファニタといったか、の方に視線を向けた。彼女はエベックの意図を計りかねているようだったが、やがておずおずと前に進み出て、指折り数え始める。
「私の知ってる範囲で良いのなら。まず、ゴート・アゼラ伯爵、王都通信のマッジ・ホープ社長、おそらくソフィア・アルネルト記者、施療院放火事件の被害者たち、ノーデン・ヒュラム陸軍参謀、マティス・ウィリアム死刑囚、シリウス・スピレード内務大臣に……」
「ちょっと違うけど、俺の父親のカルキ・ダグラスも含まれるかな」
言いにくそうにしたファニタの後を引き継いだのは、ダグラス本家の少年だ。
「ユリズ・クリード内務副大臣に……ミュール・フランベルク会頭と、ルクレール・ヘッジ子爵、それに、アイツの両親含む、トウェル王誕生パーティーの出席者」
錚々たる顔ぶれである。どれも、あの宰相よりも武勇に優れて賢明で、とても殺されそうにない面々だ。
「その通りだ。ネラル君、君が殺そうとしているのは、規格外の化け物なんだよ」
「人を殺したくらいで化け物って言いますかね?」
「たった一人で、一晩で、何百人という人間を殺した男を、化け物と言わずに何と言う? 君は、君たちはどうして、あの夥しい死体の山を見ても、あの男に立ち向かおうとするんだ?」
エベックの声は、必死さに溢れていた。
「恐れは防衛本能だよネラル君。自らが死体の山を築いておきながら、なに食わぬ顔で希望を説いていたあの男を、私は恐ろしく思ったんだ」
「ほら、結局アイツにビビってるだけじゃないですか。化け物が何だ、アンタはもう敗北したんだから、俺たちの足引っ張るのはやめろ」
「……敗北なんかしてませんよ。だってまだ、君たちは生きている」
「……生きてねェよ!! 先生は知らないんだろうけどーー」
「あれをあげたのは、君が彼女を助けたかったから、ですよね」
「……」
すぐに、わかった。エベックが何を言っているのか、どうして、“死なせない”ことと、“生きている”ことを強調してくるのか。
暗闇の中、生徒の手を引く力強い手。その感触を思い出し、トランははじめて、エベックを真っ直ぐに見た。
ーー全部、知ってたんだ。
「もうこれ以上、君たちを死なせたくないんだ。ネラル君、それは、君も同じはずだよ?」
臆病で、恐怖の前に膝をついた男は、もう目の前にはいなかった。というか、そんな男、きっと最初から存在なんてしてなかったのだ。
「正直、俺一人だったら、あの時みたいに立ち尽くすことしかできなかったと思います」
不思議だ、なんだか、力強い。
「でも、クレア先生と、こいつらと一緒なら、きっと……卒業式の日のアイツみたいに、アイツの手を引っ張って、立たせることができると思います」
「買い被りすぎだよ」
トランは、二人の方を見た。
「てことだ、目的が一個増えちまった。巻き込んですまねえが、これが最善策だからよ、俺らに付き合ってくれや」
「たぶん、その方がアイツも喜ぶと思います」
確信しているような笑みだった。
自分の手のひらを見る。今度こそ、誰かの手を引いて、助けられる存在になる。
トランは、地上にいる彼女に、先に謝っておいた。
ーーごめんな、眼鏡、取り上げることになりそうだよ。
手を引くことは助けること




