零れ落ちなかった名前
ちなみにマティスは、アンリ・マティスとウィリアム・ターナーがモデルです。
灰色の海の底の底。軍服を着ていない死体が、一つ、三つ、四つ増えていた。
「それでも、魔女を愛せって言うんですか」
ジルトはもう隠さなかった。ぼろぼろと溢れる涙を地面に落とし、同じ瞳の色の男に問う。男は静かに頷いた。
「魔女を愛せよ」
「どうして、俺に愛させようとするんだ。俺もあいつも、違う人間なのに」
「俺たちはもう、死んでるからだよ」
男は……アルバートは、儚く笑う。
「だから、生きてる者、生き残る者に仮託する。背中は押されたけれど、それじゃ足りない。わるい心をとりのぞかないと……なあ、ジルト」
男の姿が揺らぐ。海の死体が一つ消えた。
「ごめんな」
ジルトを気絶させたハルバは正解だ。ジルトが黙らなければ、ガウナはきっと、彼を殺していた。
「どうしてジルト君は、“彼女”のことを“無価値”と言ったんだろう」
そんなことを言う子ではないはずなのに。
ぽつりと呟くと、ジルトを壁にもたれかけさせたハルバが、瞳を向けてきた。深淵のような瞳を。
「わからないんですか」
ガウナは頷いた。
「こいつに“あんなこと”を言わせたのはあんたなのに、わからないんですか!?」
ハルバが激昂する。なぜ激昂しているのかわからない。また、わからないことが増えた。
ルクレールが、ジルトと自分を見て謝ったわけも。ジルトが彼女を否定したわけも。ハルバが怒っているわけも。
「僕には、わからない」
『私にはわからない』
ガウナは目を見開いた。懐かしくて忌々しい声が聞こえた。
ーー嘘だろ。こんな時に。
頭ががんがん痛む。
『どうしてアルバートは私のことを好きになってくれないの。どうして私のことを憎むの。どうして、どうして。アッカディヤの魔術儀式で、幸せになろうと思ったのに。来世こそは幸せになろうって、憎い女の胎の子に、アルバートの魂を移したのに』
奔流のような思念が流れてくる。ガウナは額を押さえた。硬い床の感触。どうやら自分は倒れたらしい。
「トウェル王!?」
長官の声が聞こえた。僕はトウェル王じゃないんだけどな。そんなことを思った。
『どうして、アルバートは私のものになってくれないの? 愛してるって言ったのに、愛し合ったのに、なんで殺し合うことになってるの?』
知るか。悪いことをしたら、自分に返ってくるんだ。そんなことも知らないのかこの魔女は。
「どーする? 今なら殺せるけど」
「殺せるように見えるだけです。今はーー」
『私は幸せになりたいだけなのに。地位も名誉もいらない、あの人の愛が欲しいだけなのに。どうして、たった一つだけが手に入らないの?』
ーーどうして、たった一つだけが手に入らないんだろう。
ガウナはむくりと起き上がった。荒屋に雨が叩きつけられる音が耳に入る。
「トウェル王」
「……ああ」
荒屋には長官以外誰もいない。死体も二つ消えていた。
彼が退廃的な瞳をしているのは、きっと、そういうわけがあったのだ。
「もうすぐ、俺は死ぬ。なんでかわかるか?」
「わからない」
「ちょっとは自分で考えろよな。あんたに殺されるよりマシだからだよ」
ぱりん。ワインボトルを机に叩きつけて、アルドは床に落ちた破片を拾った。自分の喉元に突きつける。
「そう、あんたに殺されるよりマシだから死ぬんだ。そういう理由なんだ。決して、運命だからというわけではない」
「強がりに聞こえるけど」
「強がりじゃねーよ。あと、覚悟を決めるため。自殺をする勇気がありゃなんでもできる」
「後ろ向きな勇気だね」
「言ってろ」
瞳を半眼にして、アルドが溜め息を吐く。
「清流に毒を混ぜるがごとし。魔女のやったことは、人の運命を捻じ曲げることだ。王弟の血には、呪いが混じっている。魔女の魂と結びつき、巡り会う呪いが」
「気付いてたんだ」
「それを知ったから、俺は自殺したんだ。お姫さんと術を実行した時に気付いたよ……アルバートの魂は、もう固定されてるんだってさ。俺は、お姫さんとの約束を守れなかった」
破片を持つ手が震えていた。強く握り締められた拳から、手首を伝って、血が床に落ちる。魔法陣に血を落とさずともわかる。彼は。
「俺が、なんでアルバートを蘇らせようとしたか知ってるか」
「さあ? 約束とやらじゃないの」
「そうだ。俺は、約束したんだ。お姫さんに……“死んだ後のアルバートを自由にしていいから、生きてるうちは、あいつに、魔女のことを愛させてくれ”って」
馬鹿みたいだよな。アルドは自嘲した。
「誰も彼も幸せにならない道を選んだ。だから、だから、あいつが俺に、剣を返しにきた時に、十二時間前に、戻れたらって。その時に、何もかもがわかったらって思ったのに。神様脅して手に入れた予知能力は、何もかもが遅過ぎたことを教えてくれただけだった」
許さない。
魔女がそう言っている。ガウナは頭を押さえた。
「だから、お前には、幸せになってもらう」
「は?」
どうしてそうなる? ガウナが胡乱な目で見れば、アルドはいつものように、人を小馬鹿にした目になっていた。
「お前が勝手に不幸の沼にズブズブ浸かってったのが悪い。お前が勝手に悲観して、アルバートに愛されてないってことを嘆いたのが悪い。欲出したのが悪い。よって、ローズ。全部お前が悪いんだよ」
清々しいほどの責任転嫁。魔女も固まっている。
「ワインの主は死んだ。だから俺は、女王に味方する必要はない。お前に味方するのが、アルバートへの一番の償いな気がする」
「は、はあ……」
「でも、お姫様に償いをする必要もある。だから俺は、伝言を残して来た」
「ちょっと待て。伝言って誰に!?」
右手をじゃらじゃら。
「冗談だ。捕まってる俺がそんなことできるわけないだろ? ……そういうことだ、ローズ。よおく聞けよ。大切な時に、名前を呼ぶんだ。じゃあな」
鮮血が飛び散った。手錠がじゃらりと音を立て、アルドは死んだ。
ーーわかる?
ガウナはローズに聞いてみた。彼女は得心したのか、沈黙を貫いた。
「まったく、みんな勝手なんだから」
その夜、ガウナは夢を見た。
灰色の海。左隣には、草色の瞳の少年が立っていた。少年は、ひたすら涙を流し続けていた。
剥き出しの海底には、同心円状に広がった死体と、四体の見覚えのある死体。
ああ、まだ、ゲームは続いていたんだっけ。
不思議と痛む胸と、込み上げてくる歓び。きっと少年は、四体目の死体の名前を知らない。
そう、あの死体の名前はーー。
「マティスは死んでる」
ハルバの言葉に、ジルトは笑った。人相の悪い男の写真の上に、ぽたぽたと雫が落ちた。
「よかった、これで、クレイを救える……」
よかった、よかった、とジルトは繰り返した。
「よかった、知ることができて」
意図はわかっていた。それはきっと、ジルトのことを、小さな英雄と呼ぶ彼からのメッセージだ。
「本当に、よかった」
アイツが殺して、俺が死なせたマティス・ウィリアムの名前が、零れ落ちることがなくて。




