“ごめんな”
なぜか自分はジルトの頭を撫でていて、そしてなぜか背中が痛かった。なんとなく左手で触れば、どろりとした血がついてくる。近くには、確かに葬儀の時に見たナイフが落ちていた。
あの最低最悪の性悪王め。
ガウナは心の中で毒づいた。僕の体だからお構いなしっていうことか。
だが、自分を瀕死に追い込んでまで召喚した彼は、やはり格別だったらしい。
舞踏会の時の剣技も、先程の転移魔法も、ガウナが敵わないはずのルクレール・ヘッジ。そして、クライスが自分より強いと言っていたミュール・フランベルク。
その二名が、なぜか床に倒れ伏しているのだから。
訂正。
戦場に放り込んでも、彼ほどの実力者なら、五分で何人もの人物を殺せるだろう。
まあ、彼ほどの人物を蘇らせるには、『殺して結びついた運命』と、『膨大な魔力量』が必要なわけだから、コストが高すぎるわけだけれど。
なんにせよ、リルウの伏兵である二人が、床に倒れ伏しているのは僥倖、僥倖。能天気な頭で、ガウナはジルトの頭を撫でた。
かわいそうに、彼の吐瀉物であろうものが床に飛び散っている。そして、ガウナはその感覚をなんとなく覚えていた……ブランが親殺しまたは恩人殺しの後、右手を開いては閉じるように、ジルトの腹に膝をめり込ませた感覚だけが、ガウナの中に残っている。
あとは……なにか、不思議なものを修復した感覚? この感覚は、とって置かなくちゃな。
それにしても、なぜ目の前の少年は起き上がらないんだろう。別に意識はとんでないはずなのに。こころなしか、震えているような?
「あんたに、良心はあるか?」
なにかを考えていたらしい。またその言葉か。ガウナが答えずにいる中、ジルトは続けた。
「俺の言葉は届かなくても、“あの子”とやらの言葉は、届くのか?」
どうしてそんなことを確認するんだろう。ガウナは頷いた。
「君には悪いけれど、そうだよ。僕は君のことを気に入っていて、他の有象無象よりも気に入ってるけど、“あの子”には遠く及ばない。僕は愛しい“あの子”のためなら、どんな願いだって叶えてみせる。たとえ星を手に入れたいという願いだって」
「だったら」
「昔むかしのことでした」
ルクレールの声が割って入る。
その場の誰もが……誰よりも衰弱しているミュールでさえ、その子爵の方を見た。ルクレールは、もう座っているのも面倒だというように、壁に背を預けていた。なにも外傷はないのに、彼もまた、弱りきっている。
死にゆく者の言葉は、この小さな家屋にいやに響いた。
こういう時、たいていは「もうしゃべるな」「まだ助かる」というものだが、なぜかジルトはそれを言わない。まるで、結末がわかっているかのように。
だから、悲壮感に塗れた顔の彼が、その言葉を邪魔することはなかった。
「化け物を地下から解き放った男は、とある夫婦と出会いました。夫婦はなんにもしらなくて、能天気でよく笑う人たちでした」
口元が笑っている。手先が震えている。「夫婦は、いなくなった息子を探しに、パーティーから抜け出してきたのです」
「最初はその夫婦を煙たがっていた男ですが、夫が持ってきてくれた酒があんまりにも美味しくて、つい、自分の生い立ちを話してしまったのです。笑っていた夫婦は、たくさんたくさん悲しんで……俺みたいな人間に、謝ってくれた。“親友がごめん。君の葛藤を作ってしまった”」
ジルトを見ている。そう、これは、別れの言葉。
死にゆく者という“特権”を利用して、ジルトの口を封じさせるための。
「だから、その時に俺は出まかせを言ったんだ。ちょうどワインを飲んでたからかな。“別に葛藤してないし、これからは美味いワインでも作って、金持ちになって幸せになって、あんたらに振る舞ってやる”ってさ。妻の方は笑ってたよ。“それなら、商才に優れた従者がいるから、紹介しようか”って……“なんてね、喧嘩別れした従者と仲直りしたいだけなのだけれど”」
紫炎色の瞳が、見開かれ、とびきり嬉しそうに微笑んだ。それきり彼女は動かなくなった。美しい娘の姿のまま。
それを見て、ルクレールもまた微笑んだ。榛色の瞳が、今度はガウナを射抜く。
「お前、本当は迷ってるんだろ? なにせ、俺って、お前の恩人だからさ。お前を暗闇から解き放ったのは俺。だから、俺は始末をつけなきゃいけない」
情けないが、お前を殺すことは失敗した。
「だったらどうするか。次に託すことだ」
ジルトたちを指さした。座り込むジルトは、やはり何も言わない。
「背中を押してやることだ。なあ、ガウナ」
ーーお前の恋、一生叶わねえよ。
ガウナは指を鳴らした。
背中は押された。リルウの決意を見て、ブランにユリズを殺させて。次は自分だと思っていた。それは、案外呆気なくできた。
クズなら殺しても良いというのが人並みの良心。それなら、自分に一瞬とはいえ良くしてくれた人物は?
「正解だ」
なぜだかルクレールの言葉は、真反対に聞こえた。たぶんこれは、取り返しのつかないことなのだ。燃え上がる彼は、不思議なことに、少しの間だけ生きていた。
「ごめんな」
彼の視線は、二人に向いていた。




