考えなしの返上
警邏官が去っていった後、ブランは息を吐いた。
疲れる。ラフト・バリエスタを演じるのも、あの男のことを話さないでいるのも。
鉄格子から離れて、牢の奥へ行こうと向きを変える。藍色の瞳と目があった。
「……今度は、目を合わせてくれるんだね」
「何ですか、宰相」
『アッカディヤの魔術儀式』は不完全。術者に演技は無駄だと判断し、ブランは気怠げに応じた。
叫んでやりたい気持ちもある。だが、それは意味がないのだ。
突然現れた宰相は、やはり化け物か何かなのだろう。殺害現場の運河から、忽然と消え失せたのだから、“抜け穴”ぐらい使っても不思議ではない。だから、ブランが叫んだ瞬間に、姿は消える。ブランは今度こそ狂人の仲間入りだ。
「新しいゲームの駒でも見つかって……私を、殺しに来たんですか」
「残念ながら、マティスのことを知っているのは君だけだよ。だからまだ殺さないでいてあげよう、というか……」
ーー偉そうに。
傲岸不遜な言い方に、ブランは内心で溜め息を吐いた。この男に、罪悪感や良心といったものは、存在しないのだろう。
この男は化け物だ……行為だけでない、その内面すらも。
「僕、人を殺すことに躊躇いがあるんだよね」
「……は?」
考えていたことと真逆のことを言われて、ブランは間抜けな声を出した。躊躇い? ユリズの腹を、躊躇なく石突きで抉ったこの男に?
「ずっと思っていたんだ。僕には、良心というものがないんだって。家族が村人を殺すのを見ている時も、トウェル王が家族を殺して感想を聞いてきた時も。僕の心は動かなかった。暗い地下で、畜生以下の生活を強いられていた時も、僕の心は動かなかったんだ」
語られる壮絶な過去に、ブランは息を呑む。その過去が、このような怪物を作り上げてしまったのだ。
「それはきっと、僕にかけられた呪いのせいなのかもしれない。でも、そんな呪いを解いてくれたのが、“彼女”なんだ」
ブランは知っているーーその“彼女”の正体を。
そらすことができない藍色の瞳は、爛々と輝いていた。狂気、いや、狂喜の色に。
「あの日、僕は“良心”を知った。正確には、本当は僕の中にあった良心を自覚したんだ。彼女がいる限り、僕には良心が存在する」
わかりたくもない。けれど、ユリズを殺した時の冷たい目は、彼女のことを語る時だけは、温度を取り戻していた。
「だから、僕は、人を殺すことに躊躇いがある」
「意味がわかりません」
つい口に出してしまった。ガウナが口を尖らせる。
「ちゃんと聞いてたのかい? 良心を知ってしまったからこそ、人を殺すことがダメだと分かっているという話なんだけど」
「……じゃあ、なんで殺したんですか!」
声を荒げてしまい、ブランは口を手で覆った。周囲を見渡し、警邏官がいないことに安心する。
その様子をおかしそうに見守っていたガウナが、ゆっくりと口を開く。
「僕は殺してない。殺したのは、君だ」
「でも、あんたがトドメを刺した」
「放っておいても死んださ。話を戻すけど、僕は君を殺すことに躊躇いがあるんだ。だから、その躊躇いがあるうちに聞いておきたいんだけど」
一呼吸置く。
「恩人を殺したのって、どんな気分?」
「殺させられた、ですよ。最悪です、胸糞が悪いです。きっと、養父は失望の中で死んでいったと思います」
「なるほど、そんな気分なんだ。やっぱり君は考えなしだね」
ブランは、思いっきりガウナを睨みつけた。だが、その怒りが彼に届くことはない。
「リルウが言うにはね、これも、副大臣との話し合い通りなんだってさ。副大臣は、君の善性を計算して、愚かな君を生き残らせる方法を考えた。それは、君の価値を高めることだ」
ブランは顔を青ざめさせた。手足が急速に冷たくなっていく気がした。
「自分が死ぬことで、僕にとっての君の価値を高めたんだ。だから、あの時、彼と君が養父養子の関係であると暴露したんだろうね。それくらいの仲なら、彼が知っていることを君が知っていると匂わせた」
結果、ユリズの思い通り。
マティス・ウィリアムがすでに死んでいることと、“彼女”の正体を知っているブランだけが、生き残らせられた。
「だから、副大臣は、君に失望なんてしてないよ。もしかしたら、彼も僕と同じ、君の中に良心を見ていたのかもしれないし」
「義父さんと貴方を一緒にしないでください。反吐が出る」
「せっかく阿ってやろうと思ったのに」
つまらない、とでも言いたそうに、ガウナはあぐらをかき、頬杖をついた。
「遺体を運河に投げ込んで、見るも堪えない姿にした人並みの良心を持つブランくんが、大切に育ててくれた義父を殺して意気消沈しているだろうから、慰めてあげようと思ったのに」
「そもそも、最初に私を殺そうとしたのは、オリヴァー監察官ですよ」
罪悪感からの逃走なのかもしれない。だが、ブランは、一人きりになってずっと考えていたことを言った。
「あの葬儀の二日後、グランテで殺されていたのは、私だったかもしれないのに」
「あ、気付いちゃったんだ。もう考えなしは返上ですね、ブラン・ルージュ秘書官」
それまでの舐め腐った態度が嘘かのように、ガウナはブランのことをそう呼んだ。
「そうです。貴方が気に病む必要はありません。貴方と彼の関係は、殺されそうになった側と、殺そうとした側なんですから。最初に仕掛けてきたのはあちらです」
「それは、そうですけど……」
だが、起こってもない出来事を盾にして、実際に起こしてしまった出来事を正当化するのは……なんだか、負けたようで悔しい。
「ここを出たら、ネリア夫人とお子さんたちに、謝りに行きます」
「非常に良い心がけだと思いますよ」
ガウナは柔らかく笑って、頷いた。
「これで貴方を殺さなくて済みます。よかった」
「貴方の計画からは外れると思いますけど」
「たとえ他人のものであろうと、良心を認めることができるのは、とても素晴らしいものです」
この“良心”信者が。ブランは心の中で毒づいた。
「貴方も早く、貴方の良心と出会えるといいですね」
「ありがとうございます。僕の行ない全てを赦してくれる彼女のことを、貴方が教えてくれる日を楽しみにしていますよ」
途端、ブランは理解した。ああ、この男にとって良心は、この男を、人間たらしめるもので、咎めるもので、そして……生きることを赦してくれる存在なのだ。
そして、ブランは心から喜んだ。この男の良心は偽物だ。なぜなら、“良心”は、この男の死を望んでいるからだ。
「なんだか嬉しそうですね」
「そうですか?」
口元が緩むブランを、不思議そうに見た後……鈍感な青年は、呟いた。
「まあそれはそれとして、屑は殺していいっていうのが、人並みの良心だよね」
道徳を覚えた「だけ」




