ざあざあ、ごうごう
…。
……。
「やっぱりこれは、不完全だな」
最初に聞こえたのは、失望した声。徐々に開けていく視界。死んでいた感覚が蘇り、生々しい感触が、右手を伝わってくる。
……気付けば、ブランの目の前には、血を流すユリズがいた。
ブランは、これ以上開きようがないほどに、褐色の目を見開いた。震える声で言う。
「違う、私が刺したんじゃない」
「いいや、刺したのは君だよ」
雨の音がいやに大きく聞こえた。これは拒絶だ。彼の言葉を聞くのを、体が拒んでいる。
ガウナは傘を一振り。先程刺したユリズの血が、地面に飛び散り、滲んだ。
「『アッカディヤの魔術儀式』って、知ってるかい?」
ブランは、首を振る。肯定する気力はなかった。
「知らない、そんな術……」
「まあそうだろうね。先代トウェル王が手にしていたであろう、忌避すべき手段。要は、死者を蘇らせる術なんだ」
ざあざあ、ごうごう。この音はなんだ? 今自分は、どこにいる?
「二百年を待たずとも、他の魂に乗り換えれば良い。魔女の祝福は、それを可能にさせる……君が目を覚ましてしまった以上、それは不完全だけどね」
祝福? こんな、怪物が、化け物が与えるものが、祝福であるはずがない。
「大好きなお義父さんを刺したのは、紛れもなく君の体だ。魂はラフトでも、器は君。これから君は、世間に殺人犯として認知されることになる……そして、事件は“解決”する」
ステップを踏みながら、くるりくるりと。凍てつくような瞳から一変、彼は優しげな光を瞳に灯した。地面に這いつくばるブランの喉元に、石突きを突きつける。
「……し」
「何?」
「殺してください、お願いします。お願い、お願いだから殺して」
「僕と話すなら、目を合わせろよ」
す、と傘が下げられる。
「殺してやるくらいは言って欲しかったな。どうしてこんな腑抜けを拾ったんだか」
脇腹に衝撃を感じ、ブランは泥の中に倒れ伏した。ガウナが、ユリズの死体の襟首を掴んで引き摺るのが、霞む視界で見えた。手を伸ばす。やっと、ごうごうという音の正体がわかった。
「待って、待ってくださ」
「……考えなしのブランくん。君は、ネリア夫人とその子供たちが、どんなに後悔して、悲しんだかわかるかい? 夫が、父親が、ただでさえ豚のような体があんなに膨れて、一歩間違えば誰かわからない死体になっていたんだ。君がしたことを、身を以って知るがいいよ」
ごう、ごう。
なにかを投げ込む音。雨の音が、今だけは聞こえなくなった。
ごう、ごう。
運河の水が、荒れ狂っている。
ーー義父さんを、取り戻さなきゃ。
そう思うのに、体は動かない。はやく、はやくしなければ、義父さんの遺体は、監察官のように……監察官のように?
「ああああああああッ!!」
あさましい思いを自覚して、ブランは泣き叫んだ。雨が音を取り戻す。
ざあざあ、ごうごう。ざあざあ、ごうごう。
打ちつける雨と濁流の音。それらが交互に混じり合い、ブランの精神を削り取っていく。ざあざあ、ごうごう、ざあざあ、ごうごう。ざあざあ、ごうごう……
気付けば、雨は止んでいた。
ブランは一人きり。立ち上がり、ふらりと歩き出す。
「ここ、どこだ」
重い頭を振る。運河は並々と水を湛えていた。ユリズの死体はどこにもない。そして、彼もまた、忽然といなくなっていた。
「は、はは……」
乾いた笑いが止まらない。泥に足を取られながら、ブランは死ぬこともできずに歩いた。
ここには、どうやって来たんだっけ。記憶がない。当然か。『アッカディヤの魔術儀式』で、ブランはラフトになっていたんだから。
「殺してない、殺してない、でも、殺したんだ」
右手を見るのを、やめることができない。左手で、震える右手を押さえた。
ずぶ濡れのブランを見て、跳ね橋の操作員は驚いた顔をした。
「ひどい顔色ですよ、どうしたんですか!?」
力が抜けて、ブランは座り込んだ。操作員の脚に縋りつく。
「お願いです、養父を……ユリズ・クリードを、探してください、もう、手遅れかもしれないけど……弔いたいんです」
懇願することしかできない自分を、どこか冷笑する自分がいた。
「お願いです、お願いします……」
そんな、もう一人の自分は、銀髪の青年の姿を象った。
『オリヴァー監察官の時は、そんなことしなかったのにね』
紛れもなくそれは真実で、だからこそブランは、いちばん早く捜索してもらえる方法を選んだ。
「私が、殺しました……」
濁流の音は消えない。
温かさにつられて、ブランは目を覚ました。
「あ、目が覚められましたか!?」
「……あん?」
駆け寄って来た警邏官に、ブランは怪訝な声を出した。かけられていた毛布をばさりと取り去る。
「ここ、どこだ?」
「ここは、警邏局です。ルージュ秘書官、大丈夫ですか?」
「ルージュ秘書官? あー、こいつの名前か」
ばりばりと頭を掻く。湿っていた髪は乾かされていた。
「え、あれ? ルージュ秘書官?」
目を瞬く警邏官に、ブランは「うんにゃ」と首を振る。右手を開いて閉じながら。
警邏官は、曖昧な笑みを浮かべた。
「そ、それで、橋の操作員の方から聞いたんですけど、貴方がクリード副大臣を殺して運河に投げ入れた……なんて、嘘ですよね?」
「死体は?」
「上がりました……」
「じゃ、間違いねえや。俺が殺した」
ブランは、警邏官を見下すように笑った。「まあ、正しくは」
心臓を親指で指す。
「この俺、ラフト・バリエスタが、だけどな?」




