良心の行方
夫人のターン。
震える唇は、ただただ謝罪の言葉を紡いでいた。
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい貴方……」
かわいそうに、紙のような色の顔で、机に置かれたナイフを凝視していた。運河で遺体が見つかったその日……雨に降られる前に回収されたために、赤黒い血がべっとりと付いたままのナイフを。
それは彼女の罪の象徴。彼女はこのナイフで、夫の命を奪ったのだ。
これをキース・グレイ……彼女の元婚約者で、ライケットが殺害したとされている彼、の墓に置いたのは、おそらく罪悪感からだろう。彼女は、血濡れたナイフを見つけてもらう可能性を残しておいたのだ。
しかし、一週間経ってもナイフは見つからず、夫を殺した犯人(自分)は逮捕されないまま。どころか夫の遺体はなぜか運河に投げ入れられていた。
とっとと自首すればよかったと思っているのだろう。自分の迷いが夫の遺体を辱め、運河の水をたらふく吸った水死体になってしまったこと。皮膚がふやけきった白いなにかになってしまったことに、もともとあった罪悪感は膨れ上がっていることだろう。
…………だからこそ、漬け込む隙がある。
ナイフから目を離さない彼女に、ガウナは諭すように言う。
「顔を上げてください、夫人。せっかくの美しい顔が台無しです」
「……恐れ多くも、宰相様の前で。失礼いたしました」
ガウナの褒め言葉に頬を赤らめることなく、ネリア夫人は取りなすように言う。
流石、曲がりなりにも監察官の妻だった女性だ。まだ目元は赤いが、涙を止めることはできたようだ。
「貴女を責めるつもりはありませんでした。ただ、私は真実を知りたかっただけなんです」
「ええ、ええ……承知しています。むしろ、ナイフを見つけていただいて、ほっとしています。私の唯一の“良心”が、葬り去られずに、こうして目の前にあること……私自ら警邏に申し出る機会を作っていただいたことに、感謝申し上げます」
深々と頭を下げられ、そして自らに最も関連深い言葉を出され、ガウナは藍色の瞳を細めた。罪悪感に囚われた人間は、こうも謙虚になるものなのか。
“良心”。彼女にとってそれは、罪悪感に置き換えられるのだ。もっといえば、墓場に置いてきたナイフ。外付けの“良心”は存在すると証明されたようで、ガウナは口元をわずかに吊り上げた。
とはいえ、今ここで警邏に出頭されたら、ガウナの計画が台無しである。それなので、ガウナは彼女の“良心”を掘ってみることにする。
「これは、純粋な質問なのですが……なぜ貴女は、墓地に血のついたナイフを置いてきたんですか? 隠蔽をしようとは?」
ネリア夫人は首を力なく振った。
「……そんなこと、できませんでした。私は、夫の最期の言葉を聞いてしまったのですから」
「最期の言葉?」
「『あの時と同じ、もう、助からないな』。続いて夫は、こう呟きました。『なあ、キース』」
「キース……キース・グレイのことですか?」
墓に刻んであった名前である。ライケット・オリヴァーの親友で、彼女の元婚約者の名前でもある。
ネリア夫人は、こくりと頷いた。
「はい、私の元婚約者の名前です。彼の骨は、実はあの地面の下には埋まっていません。今も、帝国との国境に埋まっているはずです……なぜか、彼の遺体は、帰ってきませんでした。いえ、なぜかではありませんね」
私は、ずっと、理解することを拒んでいたのかもしれません。
ネリア夫人は、静かにそう言った。そして、薄い菫色の瞳を開いた。
「彼の死について言及したのは、夫ただ一人……他の軍人の方々は、口を堅く閉ざしていました。その時点で、怪しむべきだったのです」
「“自殺”ですね?」
そう、これこそが、性悪説しか信じることのできなかったエリオット・ノーワンが見落としていたこと。
ライケットは、自殺した親友の名誉を守るためにわざわざ、敵兵にやられたと、ネリア夫人に嘘を吐いたのだ。
そもそも、本当にライケットがキースをそのナイフで殺したのだとしたら、わざわざナイフを持ち帰るなんて愚の骨頂でしかない。
墓場で古びたナイフを見つけた時からの確信は、これまでの夫人の話でさらに強まった。
「おそらく、二人きりという環境からして、軍部には筒抜けだったんでしょうが、貴女にだけは、名誉ある戦死だと思わせたかったんでしょう」
つまり、彼にも最低限の“良心”はあったということだ。エリオットが挙げた他の十一名が、どうかはわからないが。
「オリヴァー監察官は、貴女を本当に愛していたんですよ」
「……真実を隠蔽することが、愛していることに繋がるのですか?」
「男は背中で語りたがるものです」
「宰相様も、ですか?」
「ええ。愛する人に殺される最期は、とても理想的です」
「……私にとっては、理想的ではありませんでした」
また涙を浮かべそうなネリア夫人を見て、ガウナは「オリヴァー監察官は、よくやったな」と思った。
こうして彼女に一生忘れられない傷を付けたのだから、彼にとっては理想的なのである。
今は亡きライケットが、夫人を庇ってわざわざ遠回りをしたとわかったガウナは、運河に死体が浮いていたあの日、墓場へと赴いた。戦死者の墓だ、弔う者も四年前の火事でほとんど絶えた。だから、足跡は二つだけ。
キース・グレイの墓は、すぐに見つかった。そして、年数を経たであろうナイフも。遺体を遺棄した人物は、ナイフに気付いていたんだろうか。
それはわからないが、使えると思った。
ナイフを以って、ガウナは夫人の“良心”を知り、そして、この不可解な事件を利用する術を思いついた。
さあ、本題だ。
「……それならば、彼の最期を理想的なものにしてはいかがでしょうか?」
「夫の最期を、ですか?」
怪訝な顔をするネリア夫人に、ガウナは詐欺師の笑顔でもって答える。
「ええ、そうです。オリヴァー監察官への餞として、『ユーフィット医院』を、検挙するんです」
夫人は目を丸くした。
「そんなこと、可能なのですか?」
ガウナは鷹揚に頷いた。
「ええ、可能です。貴女が出頭するのを、少しだけ待っていてくだされば。私は貴女の罪悪感を、軽くすることができるかもしれません」
ガウナは、机の上の古びたナイフを取り上げた。錆びたナイフ、明らかに、今の時代には作れない粗悪品。だからこそ、価値がある。
「これを使って、ね」




