大切なものが、見えなかったから
増えてしまった…
……次の日。
きっと山の草木がまだ眠っている時間。クライスは、木の上にいるトアヒを見つけた。
「……トアヒ様」
「……まだ、そう呼んでくれるわけ?」
意外そうに言ったトアヒに、クライスは悟る。この方は、全てわかっているのだと。
「麓の村の婆さんに聞いただろ? 俺の本当の名前」
「はい、聞きました」
「なら、そっちで呼べよ。トアヒ……トアヒェルは本当はアイツの名前だからさ」
「名前を交換したのですか?」
クライスの問いに、トアヒは頷く。
「一体なぜ?」
「俺が忘れられてたから。あと、嫌われてたから」
「……」
神というのは、そんなに子供っぽいものなのだろうか。
クライスはどう反応するべきか迷う。そんなクライスを見て、トアヒは言い直してくれる。
「……名前はアイデンディティだよ、クライス。姓がなくとも、誰と被っていようとも、他者から呼ばれる名前は自己を認識させてくれる。自分という存在を形作るのに必要な要素だ」
「では、アイデンディティを得るために?」
「いや」
ゆるりと首を横に振り、トアヒは明け始めた空を見ていた。
「俺を馬鹿にしてきた、アイツのアイデンディティを崩壊させるために。ただの、嫌がらせ」
そうトアヒは宣った。
「なあクライス。アイツにはな、名前が二つあるんだ」
「二つですか?」
「そうそう。だから、二つを二人に、一つずつやった。これは良い実験になるよ」
南西の方向を見ながら、トアヒは笑っていた。
父の名前を教えたのは、ただの気まぐれだ。たぶん、目の前のこの子も覚えられないだろうから。
いつだったか……父が、ラーナ・ナーヤに行ってからだ、誰も父のことを認識できないようになっていた。小さな女の子になって戻ってきた館長ですら、父のことを“ネーベラ・シューエル”だと認識している。
シューエルだけが、トアヒェル・テラーゼの名前を覚えていた。
嬉しそうに「アイツの名前を取り戻したんだ」とはしゃぐ館長に、違うとは言えなかった。歪んだ世界の中で、シューエルは一人、取り残されていた。
助けを求めていたのかもしれない。ネーベラ・シューエルの名前を知らなさそうな、ただの普通の少年に。
果たして、英雄と同じ瞳の色の少年は、苦笑しながらこう言った。
「幻滅なんてされませんよ。むしろアイツは、トアヒェルさんと同類だと思います」
「……父の名前を、言えるの?」
頷いた少年に、シューエルの胸はいっぱいになった。唇を引き結んで、潤みそうになる目を捩じ伏せて、シューエルは、少年を見た。
「ありがとう。父の名前を言ってくれて。ありがとう……」
声は震えてしまった。突然泣きそうになったシューエルに、少年はどう思ったのだろうか。
「大丈夫ですよ、シューエルさん」
不思議な抑揚で、少年はシューエルに言ってくれた。
「大丈夫。今度は違う……そんな気がするから」
彼の瞳には、何かが宿っていた。
父の影響でアルバート信者に片足を突っ込んでいるシューエルは、唾を呑んだ。
彼の瞳は安心できる。彼に全てを任せていれば大丈夫……そんな気がするのだ。
同時に、不安も覚えてしまう。まだ大人になっていない少年に、そんなふうに思ってしまうことを。
欠如している自覚があるのだと、彼女は語った。
「私の名前はね、ミィリエ・ミケルセンっていうんだ。シューエルと、同郷だった。いわゆる幼馴染だったんだ」
神を侮辱しようとしたというシューエル先生の話をした後に、館長の少女……ミィリエは、ファニタに語り始めた。
「シューエルのことが好きだった。だけど、ずーっとそれを伝えられなくて、ここまできてしまった。アイツが他の人と結婚した後も諦めきれなくて、未練がましく資料提供という名目で、アイツの前に姿を現したんだ」
ぺらり、ぺらりと辞典を捲る。
“魔法”の項だ。
“神との契約。人の望みを叶える手段”と書いてある。
「神の前に、嘘はつけない。私はたぶん、そこで間違ったんだよ。あさましい望みを見透かされた」
ページを戻る。今度は、“犠牲”の項。
「犠牲にするのは、人の一番大切なもの。言い換えれば、持っているのに見えてないものなんだ」
それは、アイツにとっては何だったんだろうね。そんなことを、ミィリエは言う。
「私は神と契約して、自分のこれまでの成長と、これからの成長を犠牲にした。最初は、若い体に戻れて嬉しかったけど、気づいた。年が経てば経つほど、私とアイツには大きな溝ができていくんだ」
十歳くらいの女の子は、自分の小さな手を握っては開き、握っては開く。何も変わらないのを確かめるように。
「私は、アイツの隣に立つことができない。こんな小さな体では、幼馴染だった時みたいに、隣に並べないんだよ」
そうか、だから。
ファニタは彼女が言った「私みたいになっちゃう」の意味を悟った気がした。
「そう、気がついた時にはもう遅い。私は図書館でアイツの役に立って、アイツの笑顔を見る喜びすら、捨てちゃったんだよ。だから、ファニタちゃん。ジルト君は、失ったらダメだよ」
ファニタは頷かなかった。まだ、肝心なことを聞いていないからだ。
「心が読めるのも、契約の結果なんですか?」
「痛いところをついてくるね。そうだよ、私のあさましい部分だ」
自重気味に言うミィリエに、ファニタは笑った。
「シューエルさんの心が知りたかったんですよね?」
「私の心を読んだの?」
目を丸くするミィリエに、ファニタは首を横に振る。
「私も同じだから……たぶん贔屓が入ってしまうけれど、ミィリエさんの願いは、全然あさましくなんてないです。だって、好きな人の心は皆知りたいと思うから」
ファニタは自分の恋心を信じていた。だから、ミィリエの恋心だって信じることが出来た。
日が差し始めてきた。
木から降りてきたトアヒは、クライスのことを値踏みするようにじろじろと見てきた。
「お前はよくわからないな。そんな出自なのに、魔女の生まれ変わりに仕えてるの?」
「ええ。ガウナ様は私の恩人ですから」
「ふーん。ま、自信があることは良いことだよ」
さして興味もなさそうな返事をして、トアヒは森の一点にできている陽だまりを、満足そうに見た。
「太陽はダメだ。このくらいじゃないと」
「神の力でなんとかならないのですか?」
「ならない。ていうか、太陽をどうにかしたら人間滅ぶわ。そんなクソゲー俺はやらねえ」
面倒くさそうに、トアヒは言った。
「太陽をどうにかしようなんて、まともな奴の考えることじゃねーよ」
暗闇。暗闇。暗闇。
「つ、ん、だ!!」
ジルト、リルウ、クライスの順だ。
「いや、勝手に修行に出た烏くんは視る必要なくね?」
珍しく外出していたセブンスが、ばりぼりビスケットを食べながら言う。ソフィアは涙目でセブンスを見た。
「あの従者なら見れるかもって思ったんですよ! なのに、三連続ですよ! 涙出ますよ!」
ジルトとリルウはあの同族最低男が接触してるとして、なぜクライスを見ることができないのか。
「嫌ですよ新勢力とかぁ! 私より強いの確定してるし!」
「だーいじょうぶだって、お前は伸び代がある。な、そう思うだろ? ラミー」
なんとはなしにセブンスが放った単語に、ソフィアは固まる。おそるおそる部屋の入り口を見た。その、愛称は。
綺麗な白金の髪を雑に結んだ少女は、自信満々に仁王立ちしていた。セブンスがこの国で特別待遇をされている所以は、この少女にある。
「はい! 安心めされ、ソフィア殿! いざとなったら私が、魔術師なるものをぶち殺す故に!!」
物騒なことを言う少女は、正真正銘のアレである。ソフィアは窓の外に一瞬現実逃避をして、それが失敗したことに気づいた。
城砦の尖塔に飜るそれのデザインは、たしかに少女の身につけている鎧に刻まれているものと同じ。
そろそろ現実に戻るか。向き直ったソフィアに、待ってましたとばかりに薄い胸を張って、少女は朗々と名乗ってしまう。
「この帝国第三皇女兼帝国軍大将! ラミュエル=レグナム・リオーネが!!」




