秋に隠れた嘘が届く
私たちが通う学校は門を入ってすぐイチョウ並木が迎える造りになっており、十月半ばになると落ちた銀杏で足の踏み場もないため歩くたびに靴の裏で銀杏を潰すことになる。つまり、どう足掻いてもひどい臭いを漂わせたイチョウ並木からは逃れられないというわけだ。私は散らばる銀杏の中に見える僅かなアスファルトにつま先の全神経を集中させる。そんな地獄みたいな学校の入り口だってあと一か月もすれば辺り一面黄金色に染まる。その景色はやっぱり綺麗で、銀杏の臭いに耐えるのも悪くはないな、とも思う。
初めて届いた手紙と一緒に入っていた写真に写っていたのもイチョウ並木だった。知らない場所のものだったが学校のイチョウ並木にとても良く似ていたのを思い出した。
銀杏並木を通り抜けようやく足の裏全体で硬いアスファルトを踏みしめる。日差しは暖かいが体に入った空気が冷たくて体が内側から冷える。少し前までまだ夏の匂いが残っていた朝も気温が急に下がり始め、もうすぐそこまで冬が近づいていると知らせていた。
クラスのほとんどがマスクをして過ごすようになった。私たち三年生は本格的に受験生モードというわけだ。授業間の休み時間にも机に向かっている人が多くなった。数人で集まって喋っている者もいたが、みんな受験の話題はなんとなく避けているようだった。受験の厳しさというものを実感している時期ということもあるのだろう。クラス全体に妙な緊張感が走っていた。そんなクラスの空気もあって、三通目の手紙が届いたことを私は咲と瀬川に言い出せないまま四日が過ぎようとしていた。こんな時期に誰が書いたのかわからない手紙のことに二人を巻き込むのは気が引けた。それに特に変わったことが書かれていたわけでもなったので手紙のことは言わないことにした。
あなたはいつも一人で考え込んでしまうし、一人で解決しようとするし、たいてい一人で解決できてしまう。一人で問題を解決できることはあなたの強さでもあるけれど、それは同時にあなたの弱さでもある。もっと周りを頼って。頼ることは逃げなんかじゃない。助けを求めることも、前へ進むための選択。誰かに頼る勇気を持って。
なんだろうか、この違和感。一通目とも、二通目とも、何かが違う。文章の距離感がまるで掴めない。手紙の中のナナシサンはどこか他人行儀で、まるで、いなくなる準備をしているような、変な胸騒ぎがした。タイプの異なる三つの手紙。そもそも手紙を書いている人物は、ナナシサンは、一人ではないのかもしれない。
ナナシサンが何者なのか、どこにいるのか、どこか遠い所へ行ってしまわないか、どうにかして確かめなければ。眉間にしわを寄せて頭のツボを指の第二関節で強く押した。何か方法はないか。何かできることがあるはずだ。何か、なにか。あ…。
手紙はいつもポストに入っている。切手や住所がないことを考慮するとナナシサンは家のポストに直接手紙を入れているということになる。あのポストを通じてなら——————
学校の帰りに便箋と茶封筒を買い、家に帰るや否や新品の便箋に筆を走らせた。私は初めてナナシサンに手紙を書いた。
はじめまして。茅野みことです。お手紙ありがとうございます。あなたからの手紙にはいつも助けられています。綺麗な写真も。よかったら、これからも手紙を書いてくれませんか。あなたの手紙が好きです。優しいあなたの字が好きです。あと、もうひとつだけ。どうか、一度だけでいい。あなたに会いたいです。
最後はダメもとの一文で締めくくって、家のポストに入れた。こうしておけば、次にナナシサンが封筒をポストに入れに来た時に気づいてくれるはずだ。幸い、家のポストを開けるのは毎朝新聞を取りに行く私だけだ。父や母に気づかれることもないし、ポストの中から移動される心配もない。手紙が消えたときは、ナナシサンが受け取った時だけだ。
今回のナナシサンからの手紙と一緒に入っていた写真はどこかの夜景だった。どこかで見たことあるような。だめだ、思い出せない。もちろん、例の甘い匂いだってついていた。また一瞬にして消えてしまったけれど。
手紙を出してから今日で一週間が経つが、ナナシサンからの返事は帰ってこなかった。私は居ても立っても居られなくなって、図書館で勉強をするという建前で学校が終わると夜の十時近くまでナナシサンを探しに出かけるようになっていた。もちろん場所のあてはなかったがじっと待っているよりはマシだった。そんな見え透いた嘘が長く通用するわけもなく遂に母にばれてしまった。
いつものように図書館で勉強を終えた、というていでただいま、と、玄関の扉を開けるとカンカンに怒った母が立っていた。その立ち姿とは裏腹に、口から漏れた声は恐ろしいほどに穏やかだった。
「みこと、今までどこに行っていたの。図書館に行っていたんじゃなかったの」
「行ってたよ、今日だって…」
「嘘、今日は休館日よ」
不覚だった。そこまで頭を回している余裕は今の私にはなかった。静かにこちらを見る目が身体中に突き刺さって目を合わせられなかった。目を逸らしたまま私は答えた。
「別に遊んでいたわけじゃない。勉強が大事じゃないってわけでもない。もちろん勉強はちゃんとする。でも、どうしてもやらなきゃいけないことがあるの」
「それは今じゃなくちゃダメなの? 受験が終わってからではダメなの? 今が大事な時期だって分かっているの?」
質問攻めだ。額の汗が頬を伝う。
「そんなことはよくわかってる、でも、今やらないといけないの、時間がないの。早くしないと」
ナナシサンが…そう言いかけて慌てて飲み込んだ。
「私もう高校生だよ。自分のことは自分で決めさせて」
「だったらもっと考えて行動して。お母さんはあなたのためを思って…」
「そんなの心配じゃない。自己満足だ」
「違う。…いいわ、もうわかったから」
「わかってない、何もわかってない。お母さんには関係ないんだからもうほっといて」
浮かんだ言葉をひたすら投げつけて、私は息が切れていた。全身が熱い、眼の奥が熱い。
「…そう、じゃあもう好きにしなさい」
はっと我に返って顔を上げると母はもう背中を向けて廊下の奥へと歩いていた。母の後ろ姿は傷付いているみたいに見えて痛ましかった。なんでお母さんがそんな傷付いたみたいに。傷ついているのは私の方じゃない。私が言ったことは間違っていない。だから謝るつもりもない。言ったことを訂正するつもりもない。
次の日の朝、母はいつものように朝ご飯を用意してくれていた。私は無言でご飯を食べた。そして、そのまた次の日には何事もなかったかのように普通に話せるようになっていた。母と喧嘩した時はいつもそうだった。
ナナシサンに手紙を出してから二週間が経ったころ、遂に返事が返ってきた。ナナシサンからの返事が届いたときには、もう学校のイチョウ並木は黄色一色に埋め尽くされていて、初めて届いた黄色い写真と同じ季節になっていた。
お手紙ありがとう。私の手紙を心待ちにしていてくれたこと、とても嬉しいです。でも、もう手紙は書けません。会うこともできません。次で最後になります。どこかに行ってしまうわけではないので安心してください。ずっと見守っています。だから、今は自分の将来を第一に考えてしっかり頑張ってください。応援しています。
読み終えると同時に全身の力が抜けるのを感じた。ほっとしたのだと思う。どこにも行かないと書いてあった。良かった。でも次で最後って、どうして。肝心のナナシサンの正体はまだわからない。謎は深まるばかりだったが、返事も来たことだしナナシサンが遠くへ行ってしまう心配もなくなったのでひとまず安心だ。ほっと息をついた。とりあえず今は受験に専念しよう。受験が終わったらナナシサンを探しに行こう。あの写真たちの場所も探しに行きたい。そこへ行けば何か分かるかもしれない。写真、そういえば今回の手紙には写真が入っていなかった。今までは必ず手紙と写真が入っていたのに。ナナシサンにとって私からの返事はイレギュラーだったのだろう。
それからは、ナナシサンの手紙のことは一旦心の奥にしまい、受験勉強に邁進した。一時落ち込んでいた模試の成績もなんとか軌道修正し平静を取り戻しつつあった。希望の大学の合格圏内にもあと少しで手が届きそうなところまできた。とにかく朝から晩まで勉強のことだけを考えた。ナナシサンからの手紙はあれっきり届かなくなった。甘い香りも、もう思い出せなくなっていた。