他者が用意してくれた社会システムに
社会性動物の場合、特に<人間>の場合、完全に自分一人で生きていくことは事実上ほぼ不可能である。裸で何の道具を持たず自然の中に放り出されればその場合生きていくことができないのが何よりの証拠であろう。
どれほど強がろうともイキがろうとも、
『自分は自分一人だけの力で生きている!』
などという大言壮語を吐こうとも、人間は所詮、他者が用意してくれた社会システムに便乗しなければ生きていくことはできないのだ。
ごくまれに例外的な存在がいるとしても、誰もがそうなれるのでなければそれは『できる』とは言わない。
例えば、大変なサバイバル技術を持ち、それこそ裸で何一つ道具さえ持たずに自然の中に放り出されても生き延びてみせる者もいるかもしれない。しかしその者が会得した<サバイバル技術>は、一体どのようにして編み出され、そして身に付けることができたというのか?
結局のところ、自分以外の誰かに頼って、自分以外の誰かからもたらされたものではないのか? それを、
『自分一人の力で』
などとは、よくも言えたものである。
一方、吸血鬼の場合は元々の能力の高さから自然の中で野生動物のように生きることさえ容易い。しかも、エドマンドやメアリーのように森の土に埋もれてそれこそ植物のように生きることすらできてしまうのだから、人間とは根本的に違っているのだ。
その吸血鬼でさえ、他の吸血鬼と関わって生きるのであれば、無用な衝突を回避するために有形無形の<ルール>を基にして互いを慮る形で折り合いをつけることを心掛ける。
野生動物の場合はたとえ衝突しようとも、賭けるのは互いの命であり、そしてその影響は極めて局所的限定的なものでしかない。対して吸血鬼は、非常に強大な力を有するがゆえに、場合によっては際限なく影響が広まってしまう。
そしてこれは人間の場合も同じであろう。その究極の形が<戦争>のはずである。
人間同士の争いであるにも拘わらず他の生き物や環境にまで多大な損害をもたらす愚かな行いそのものだ。そして人間は、そんな自らの行いを詭弁を並べて正当化しようとする。人間以外の存在にとっては、傍迷惑どころの騒ぎではない。
人間以外の存在が意見を述べることができるなら、
『お前らだけで勝手にやってろ! こっちを巻き込むな! 迷惑をかけるな!』
と、大ブーイングが起こるのではないだろうか。
吸血鬼はそれが分かっているので、自分達を律するようにしているのである。そして律することができている。
エイスネもそれを理解していく必要があるだろう。
今はまだそこまでは考えられないとしても。




