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ショタパパ ミハエルくん  作者: 京衛武百十
第五幕
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僕がそれを示さずに

自身の行いがどのような結果をもたらすのかを考えない人間の言説に、僕は耳を貸すつもりはないんだ。『言うな』と僕が言ったところでそういう人間は自身の言説を振りかざすことはやめないからそんな無駄なことはしないとはいえ、聞き入れる必要もない。


それに、そういう人間は自身に都合の悪い情報はそれこそ認めようとしないのが多いから、僕が何を言ったところで改めることもないだろうし。


だったら、僕も聞く必要はないよね。そして安和(アンナ)には、僕がしっかりと手本を示していかなくちゃ。


その点、悠里(ユーリ)は、自分の中に湧き上がる感情との折り合いの付け方をわきまえてくれてる。彼は元々、直情型の性格じゃなかったことも影響しているんだろう。


だけどそれは同時に、内に溜め込みやすい気性という見方もできるから、決して安心はしてられないんだ。そういうタイプは表からは分かりにくいままに怒りを溜め込み、ある時突然、爆発するということもある。そういう意味では自身の感情に正直な安和の方が掴みやすいという一面もある。悠里のようなタイプは、気遣わなくていい、労わらなくていい、そんなことをしなくても分かってくれていると思われがちだけど、むしろ逆なんだ。表に出さないからこそ丁寧に気遣わないといけないし労わらないといけないんだよ。本人が自ら自身の<表に出さない感情>との付き合い方を身に付けるまでは。


実際、『あんないい子が』と人間が口にするような事件だって無数にあったよね?


『あんないい子が』というのはあくまで周囲の人間が勝手にそう評価しているだけで、希望的観測でそう見ているだけで、本人の深いところは決してそうじゃなかったということのはずなんだ。だったら僕はそれを軽んじない。悠里も僕が勝手にこの世に送り出してしまった子だから。


僕は二人に、


『自分達を勝手にこの世に送り出した張本人がしっかりとその責任を果たそうとしてくれている』


という姿を見せなきゃいけないんだよ。椿(つばき)についてはアオがしっかりとそれを示してくれている。なら、僕は悠里と安和にだ。


僕がそれを示さずに、誰がそれを示してくれるの?


むしろ、自分以外の誰かをあてにして努力しない姿を見せることが何をもたらすのか想像できない人間がいるとしたら、その方が危険だと僕は思う。


自分をこの世に送り出した張本人である親がその事実から目を背けて逃げ回っていて、どう<責任>というものを子供に理解させるのか、本当に不思議なんだ。


謎だよね。



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