秋生の日常 その15
「おはよう、市川さん」
朝食の片付けを終えた秋生が鞄を持って玄関に行き、美織に挨拶をした。しかし、
「おはよう、秋生くん……」
美織はそう挨拶を返しながらも、困ったような表情になる。すると秋生はハッとなって、
「おはよう、美織」
言い直す。<正妻の日>には下の名前で呼ぶことが決まっていたからだ。ただし、それに拘っているのは美織と汐見美登菜の二人で、吉祥麗美阿はそこまで拘ってはいない。
実は美織も、
『<正妻の日>には下の名前で呼ぶことが決まっている』
から名字で呼ばれると強い違和感を感じるというだけだったりもする。それは彼女の<特徴>によるものだった。
秋生としても、別にその程度のことに合わせるのに抵抗はないので、基本的には素直に従っている。
『何でそんなのに合わせなきゃいけないんだ!!』
と憤る者も少なくないだろうが、秋生は家庭でしっかりと受け止めてもらえているので、そんなことでいちいち腹を立てたりしない。
なにしろ、幼い頃には散々、さくらやアオやミハエルに自分の都合に合わせてもらってきたのだから、今度は自分の番というだけのことだった。
さくらにとっては<我が子>であっても、アオやミハエルにとっては<余所の子>である。それでもアオもミハエルも、
『子供だから上手くできない時もある』
『子供だから感情を抑えるのが難しい時もある』
というのを受け止めてくれていた。自分はそうやって受け止めてきてもらったのに、ただ一方的に受け止めてもらうだけというのは道理に合わないだろう。
そう思うから、思えるから、思えるだけの余裕があるから、美織のことも受け止められる。
『自分が何より優先されたい』
これは人間なら誰しもが持つ欲求だと思われる。けれど、月城家では、秋生も恵莉花も赤ん坊の頃からしっかりと受け止めてもらえてきた。その実感があればこそ、もうすでに十分、優先してもらえたと思えればこそ、他人を優先することもできた。
気遣うこともできた。
美織の<特徴>に合わせることもできた。
そして、秋生が受け止めてくれるからこそ、美織も精神的に落ち着くこともできた。自らの自宅でさえ感じることのできない安らいだ気持ちを、秋生と一緒なら感じることができた。
もっともこれも、美織が麗美阿や美登菜と出逢って互いに支え合ってこれたから『間に合った』というのもある。そうでなければ、美織はもっと手の付けられない<承認欲求の怪物>になっていた可能性もある。
とにかく一方的に、誰かに依存したい、甘えたい、認めてほしいと要求するばかりの。
そこまで行ってしまうと、さすがに秋生でも受け止めきれなかったかもしれない。




