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ショタパパ ミハエルくん  作者: 京衛武百十
第二幕
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エンディミオンの日常 その6

エンディミオンは、今でも、自身の行ったことを後悔も反省もしていない。


彼にとってそれは<正当な復讐>と、<復讐の過程で出る当然の犠牲>でしかないからだ。


彼が今、復讐を思いとどまれているのは、単に、今のこの時間を壊したくないと思っているからである。


<人間の感性>の下で育てられて『他者を敬う』ことができるようになった悠里(ユーリ)安和(アンナ)とは全く違う、<実験動物>として生み出され、<心>を育ててもらえず、ただただこの世に生まれ出でたことを呪い続けるだけの日々を過ごしてきた彼に、悠里や安和のようなメンタリティは存在しない。


それでも、そんな彼にも、少なくとも、


<自分にとって失いたくないもの>


はできた。それによって彼は自分を律することができている。


吸血鬼や人間の命にはゴミほどの価値も見い出せなくても、さくらと子供達のことは失くしたくなかった。


本当ならそこで、


『他人にも失いたくない大切なものはある』


と連想できるようになってくれれば、自身の行為の非道さも実感でき、それを基に後悔や反省を想起するに至れば、より確実に自分を抑えられるようになるはずではあるものの、彼の根幹部分に<他者への共感性>というものが育まれていないので、およそ望むべくもないだろう。


そんな彼の姿そのものが、ミハエルとアオが悠里や安和を育てる上での大きなヒントとなっている。


彼の事例を<他山の石>として役立て、いったい何が彼にそこまでの行為に走らせたのかを客観的に精査して、同じ悲劇を繰り返さないようにしたのだ。


そしてその<効果>ははっきりと出ている。


起こってしまったことは決して消せないものの、失われた命は決して取り戻せないものの、そこから教訓を得て新たな犠牲者を出さないようにすることこそが必要なはずである。


そこから何も得ることなくただ漫然と怠惰であり続けて同じようなことを防げないでは、それこそ誰も浮かばれない。


ミハエルもアオも、同じ悲劇を繰り返すまいと努力を続けているから、ダンピールにまつわる<俗説>も否定された。


『ダンピールは吸血鬼を憎んで生まれてくる』


という俗説が正しくないことが立証された。


これは、吸血鬼にとってはもちろん、当のダンピール自身にとっても、そして人間にとっても重要なことだった。人間と吸血鬼の間で生まれるダンピールという存在の危険性が劇的に低下したことに他ならないから。


今はまだ無理でも、いつの日か吸血鬼の存在が公に認められるようになり、人間と吸血鬼が愛し合う事例が増えた時、そこに生じる懸念材料の一つが解消されたのだから。


いわば、数百年後の未来に向けての<贈り物>であろう。



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