聖女の愛した騎士
私にはある前世で人を深く愛した記憶があります。
その人と添い遂げるために駆け落ちをしようとして権力の前に屈した記憶です。
前世の私は聖女として生を受けました。
聖女とは国の象徴にして人柱のようなものです。
今だからこそそう思えますが何も知らず国の道具であったあの頃の私には考えるということすら思いつきませんでした。
聖女は国の象徴であれ。聖女とは国民の幸せを願うものとして育てられましたから、一概に私が無知であったことが罪だとは言えないと思うのです。
そんな言い訳はおいておきまして彼のことをほんの少しお話しましょうか。
彼は私の専属護衛騎士でした。
出会った頃の彼は何も知らずのほほんと暮らす私を塵くずのように見てきました。
それに私はとても驚いたのを今でも鮮明に覚えています。
どんなに無力な小娘であっても、聖女という肩書のあった私に周囲の大人たちは、表面上は、それはとてもとても丁寧に接したものです。
まあ、裏で何を言われていたかは後に彼に教えてもらいましたが。
彼自身、私が無知でいることしか許されなかったと知っていても、その立場を疑問にも思わず甘んじていた姿はさぞや滑稽だったのでしょう。
今、そう思えるのは彼のおかけげです。
そんな彼と私は紆余曲折はありましたが、想いを通じ合わせた恋人になりました。
きっと情の深い彼のことです。傍にいるうちに流されてしまったのでしょうね。
私はそれでも良かった。
ただ国民の幸せを祈り、先代の聖女のように老いて死ぬことが自分の使命だと思っていた私にとっては手の届かない夜空の星を掴めるほどの奇跡だったのですから。人生の幸福はそのときにすべてあったと言えます。
しかし、それは大きな過ちでした。
恋人になった彼は次第に思い詰めた表情をするようになりました。
きっと私との未来を憂いていたのでしょうね。
聖女は結婚が許されていません。家庭を持つことは叶わないのです。また、純潔を失ったら聖女の力を失うとも言われていました。特別な力なんて何ひとつないのにも関わらずです。
過去、聖女にも結婚が許された時がありました。
国の王子が聖女に一目ぼれし、自身が王になったときに法律を変えてまで聖女を妻にしました。すると、今までになかった大災害に見舞われ国民の三割が亡くなったといいます。神の怒りを表したかのように地面が揺れ、山は崩れ、海は龍のように襲い掛かってきたと伝えられています。
これが本当に神の逆鱗に触れたからなのか、偶然が重なったからなのかは知る由もありません。しかし、そのことで聖女を娶った王は王位を追われ、その弟であった王子が王位につきました。
廃位させられた王は極刑をうけ国民の前でその命を散らせ償ったとされています。血生臭い話になってしまいましたがこの時から聖女を妻にしようと考える人はいなくなり。
さらに、何か聖女に不届きな態度をとった場合には重罪に問われることになりました。
はからずとも歴史や法律とはこういった過去を得て作られているのです。
このとき渦中にいた聖女が何を想いどう過ごしていたのか。この話で語られるのは斬首された王のみで聖女のことには一切触れられていません。ですが、実は聖女には秘密の日記が代々受け継がれていますので、私は真実に近い真実を知っております。
聖女も王を愛していたのです。
自分の立場と王への想いで板挟みになった彼女の苦悩が、愛する人を失った彼女の嘆きが綴られていました。きっと同じ聖女しか見ることのできない日記が私たち聖女だった者の唯一の拠り所だったのかもしれません。
そんな彼女に感化されてしまった私は愚かにも彼と添い遂げる夢をみました。
そんなことを望んで罰せられるのは彼の方だと知っていましたから、彼にその想いを口にしたことはありませんでした。
ですが、彼は私の想いに気づいていたのでしょうか、二人きりになったある日神殿から逃げようと抱きしめられたのです。心の底から嬉しさと愛おしさが込み上げてきました。
私という禁忌を求めてくれたことが至上の喜びでした。
彼の言葉に舞い上がった私は逃げた後のことなど何も考えてはいませんでした。ただ、彼と一緒であれば幸せになれると思ったのです。
愚かな私は彼に言われるがまま神殿を抜け出し、王都から遠く離れた森の中で彼と暮らすようになりました。その幸せな生活が一年ほど経った頃でしょうか、食糧を買いに行った彼が夜遅くなっても帰ってこなかったのです。
今までであれば買い物には一緒に行っていたのですが、この頃、私のお腹の中には新しい命が授かっていたのです。体調が優れない私を心配しながら彼は一人で出かけたのでした。
夜が明けて直ぐに私は近隣の村へ降りて彼のことを聞いて回りました。しかし、誰一人として彼の行方を知る人はいませんでした。不安で胸が張り裂けそうになりながら一旦家に戻った私は息が止まるような光景を目にすることになります。
まず初めの違和感はいつも穏やかな森が騒めいていたことでした。そこで気づけていればよかったのに、妊娠という初めての経験と彼の安否が心配で情緒不安定な私は何も考えずに家へ続く小道を進んでいきました。
家に彼が帰ってきていることを願いながら、お腹を庇いながらも小走りになっていたかもしれません。
そんな私を待っていたのは、愛する彼ではなく、神殿時代に見知った神官や騎士たちでした。私を道具として見る冷たい目と甲冑の軋む音が幸せの終わりを告げたのでした。
大人しく神殿に連れ戻されれば彼との間の子供を殺されてしまう。
その考えが浮かんで、本能的に彼から絶対に近づくなと言われた崖へ向かって走り出しました。
神殿時代の私しか知らない騎士たちは私が走り出すなんて思ってもみなかったのでしょう。
虚を突けた私は何とか崖までたどり着き、下へ流れる川へと飛び込んだのでした。
助かるか殺されるか、とても勝率の低い賭けがどうなったのかは、今の前世を語る私を見れば想像に難くないでしょうからご想像にお任せします。
このような記憶を持っている可笑しな女はまたしても聖女として生を受けてしまいました。ですが、前世の戒めとでもいいましょうか。人は信じてはいけないものだと学びました。
本当に心の底から信じられるのは今はもう逢うことも叶わない彼だけです。
「なあ、サラ嬢よ。そろそろ食事の一回でも行ってくれていいだろ?」
書類を記入している私に冒険者の彼はカウンターに肘を預けながら覗きこんできました。
「何度お誘い頂いても応えは一緒ですよ。私には大切な人がいるのでお断りしますね」
前世で培った聖女の笑みもひきつってきたような気がします。今はギルドの受付嬢として働く私は常連さんの相手に辟易していました。悪い人でも泣く実力もまあまあある方なのですが、しつこいところが難点とも言えます。
「みんなにそう言って断ってるけどよお。本当はそんな人いないんだろ?」
「何を根拠にそういわれるのかわかりませんが、私は嘘はつきませんよ」
もうこの世に存在していなくても、私の唯一は彼と決まっている。
面白くなさそうな顔をしながらも常連の男性は、私の隣に座っている先輩の女性ギルド職員に軽く睨まれるとすごすごと退散していきます。
「ミチルさん、ありがとうございます」
「いいのよ!サラちゃんが可愛いのはわかるけどこれだから冒険者は!スマートじゃないから嫌よねえ」
しっかりと仕事をこなす彼女は女性職員の目標です。恩着せがましくないのも彼女の美点の一つでしょうし、何より旦那様との仲睦まじい様子に憧れを抱く女性も少なくありません。
「でもミチルさんの旦那さんも冒険者ですよね」
「それは言わないのがお約束っていうものなのよお」
大して気にした様子もないように笑っている彼女に何回助けられたかわかりません。
「さっきの人も少し粗暴なところもあるかもしれないけど食事ぐらいしてみたら?サラちゃんだって花盛りの年なんだから少しぐらい遊んだほうがいいわよ」
押しつけがましさなどは全くなく、浮いた話一つでない私を本当に心配している表情に良心が痛むのですが、前世で亡くした恋人を想っているので無理ですとは、彼女にだって言うことはできません。
「今は仕事が楽しいので、そういった出会いは当分遠慮したいと思っているんです」
いつもの定型文を返せばそれ以上追及されることもないので有難く思っています。
こういった話題に私が積極的でないことは職場の皆さんの暗黙の了解になっています。
「もう!いつでも良い人紹介してあげるから言うのよ?」
「ありがとございます」
「いいのよ。サラちゃんみたいに一生懸命に頑張っている子おばちゃん応援するから!」
「おばちゃんって年ではないではないですか」
「もう子供が2人もいるんだから立派な可愛いおばちゃんだわ。それはそうと、あの噂って本当かしらね」
「…魔王復活のお話ですか?」
楽しい雰囲気から一変して、冒険者を支えるギルド職員の顔をした彼女は周囲に声が聞こえないように囁いてきました。
それに倣って私も彼女との距離を詰めて会話をします。
「ええ、まだ公表はされていないけれど」
「本当かどうかの信憑性も怪しいところですけれどね」
「火のないところに煙は立たないっていうじゃない」
「でも、魔王なんて何百年も前に完全に封印されたはずでは…」
「その封印に綻びがあったって話なのよ」
「でもそれならもっと早く復活してたのではないですか?」
「それが今までは聖女様がいらっしゃったでしょう?神殿で祈りを捧げることによって抑え込まれていたって話よ。今の代の聖女さまはもう十年ほど見つかっていないからその力が弱まったせいじゃないかって」
聖女という言葉に咄嗟に気の利いた返事が出来ませんでした。
「…そうなんですね」
「だからこれから大規模な聖女探しが始まるっていうのだもの。嫌になっちゃうわ」
「聖女探しって以前にもして見つからなかったんですよね?」
「国の騎士団まで使って探したそうだけど、そうねえ。誰かが本気で隠さないか、本当に見つけづらいところに印があるのかはわからないけれど。今度は更に厳しく探すそうよ」
「仕事に支障がでるかもしれませんね」
「ほんと嫌になっちゃうわ。サラちゃんも丁度聖女世代に当てはまるんじゃない?」
聖女世代とは先代の聖女様が亡くなった日以降1年以内に生まれた子供を指す言葉である。
今までの傾向を考えると3か月前後に生まれた聖女が多く、その近辺で生まれた赤子は特に念入りに調査される。
「憂鬱です。ちょうど先代の聖女様が亡くなって2か月後ぐらいに生まれたので」
「そうしたら神殿に招集もかかるかもしれないわね」
あの嫌な場所の名前が出てきて平静を装えているかもわからない。
「なぜですか?」
「だって聖女様と言えば神殿よね。聖女選定のために神官たちが国中を回るよりも、対象になる人たちを順番に集めた方が効率がいいでしょ?」
「確かにそうですけど、皆なそんなに素直に従うんですか?仕事とかもあるでしょうし難しいのではないんですか?」
「そんな国のお偉いさんたちはそこまで下々のことなんて考えないわよ」
「確かに…そうかもしれません」
聖女を道具としか思っていなかった彼らですから平民のことなど虫けらも同然に思っているかもしれません。
「まあ、印がなければ直ぐに返してもらえるでしょうし、ちょっとした観光の気持ちで言ってこればいいのよ」
「ご迷惑おかけしますが万が一そんなことがあったらよろしくお願いします」
そして三日後、残酷なことに彼女の予想は現実のものとなってしまったのでした。
「何も変わらない」
久しぶりに神殿を前にした私の感想はそれでした。
神殿の権威というものを体現したかのような重厚な石造りの建物は端々に細やかな装飾が施されています。何よりも目を引くのが中央に位置する女神像でしょうか。何を模して造られたか未だに判明していませんが、見る者の心を浄化するという謳い文句もなるほどと納得する神秘性があります。
個人的には、神殿の裏庭にある小さな女神像の方が親近感があって好きでしたが、それは今は関係ないことです。今回の招集でもしかしたら見ることができるかもしれないという期待も実は少しだけあるのですが。
神殿を取り囲むような花壇にも周囲に住む信者の人々がご好意で植えてくれる花たちが綺麗に咲き誇っています。生前見ていたものよりその種類も規模も大きくなっている気がしますが、昔愛した花たちの美しさに変わりはありません。きっと熱心な人達が新しい聖女を迎えるためにと心を込めて育ててくれているのでしょう。
こういったものを見れば自分が聖女だと名乗り出ないことに罪悪感を覚えるだろうとわかっていたので来たくはなかったのです。
ですが、今はギルドで働く平凡な職員に過ぎない私に国からの招集を無視することはできませんでした。かえって目をつけられてしまっては本末転倒というものです。
唯一の救いというのは大げさですが、事情を知っているギルドの方々が嫌な顔もせずに見送ってくださったことでしょうか。しっかりとお土産を買って帰る約束をしましたので、面倒な検査など早く終わりにして街に帰りたいものです。
懐かしい場所に来たからでしょうか。視界が滲んできたので慌てて瞬きをします。
未だに昔のことを思い出すと胸が締め付けられて、泣きそうになってしまうことがあります。
彼の最後は一体どういったものだったのか知らないこと。
生まれてくるはずだった赤ちゃんを守ることができなかったこと。
赤ちゃんの名前をとうとう決められなかったこと。
彼が美味しいと言ってくれた夕飯をそのままにしてしまったこと。
優しく親切にしてくださった町の皆さんにも何か迷惑をかけてしまったかもしれないこと。
来年は一緒に見ようと約束した私の一番好きだった花の咲くところを見られなかったこと。
後悔ばかりが私の胸の中を重くします。
彼は将来有望な騎士でした。
私のお世話をしてくれていた侍女たちがどこかの貴族の跡取りなのだと噂していたのを聞いたことがあります。
私とさえ出会わなければきっと幸せな人生を歩めた人なのです。
今さら後悔しても遅いことはわかっていますし、彼を愛したことに後悔はありません。
ですが、どうしても考えずにはいられないのです。
もし、私と出会っていなかったら、と。
どんなに考えても答えのでない前世に想いを馳せていた私は、鐘の音によって意識を現実に戻されました。あと少しで集合時間になってしまうと気づいた私は慌てて神殿の中へと進みました。中も相変わらず埃一つ落ちておらず、床は鏡のように光を反射させています。
聖女が居ない期間が長いというのに、ここまで綺麗に手入れをされているのは流石の一言に尽きます。おそらく聖女世代として検査を受けに来ているであろう女性たちもうっとりとしています。赤子の頃ならまだしも、大きくなってから聖女という立場に憧れる女性がいることは知っています。
いくら国の象徴として真綿に包むように大切にされようとも制限が多い生活に魅力はないと思うのですが、人の考えはそれぞれですからね。
偶然そういった積極的に聖女になりたい女性が本当に選ばれてしまわないかと思う程度にはもうその立場は懲り懲りですが。
博愛主義の代名詞のような聖女の考えには些か似つかわしくはないことを考えていると、まだ若い青年が決して大きくはないのに良く響く声で女性たちに呼びかけました。
「お集まりの皆様。こちらに集合してください」
神殿の中に散らばっていた女性たちがその声に反応して真ん中あたりに集まります。
青年の服装から神官だということはわかりますがこの場に集まった女性たちとそんなに変わりない年齢に見えるためか、彼女たちには戸惑いが浮かんでいます。
「今回皆様の選定の儀を取り仕切っておりますヴィオと申します」
淡々と告げられた言葉に彼女たちから騒めきが広がります。
国の存続を左右する大切な選定ですから、言い方は悪いですがこんな若造が代表でいいのかという気持ちはわからなくありません。
私が知っている神官も年齢を重ねた人、まあ老人と呼ばれる人が多かったので意外に思いますが、この神殿に入ってからというもの若い神官ばかり見かけるのでそういった時代になったのかもしれません。
彼女らの反応にも慣れたもので彼は一気に今後の流れを説明していきます。
「今日はこれから神殿の歴史についての講話をお聞き頂きながら順番に身体に印がないかを確認させて頂きます。聖女様である証拠は身体にある薔薇の模様をした印だと言われておりますが、現在まで見つかっていないことからも丁寧に見させていただきます。勿論、女性が対応しますのでご安心ください」
遠まわしに聖女なんて見つからない、体裁のために選定の儀をやっていると言うように覇気のない説明でした。
見つからない場合お帰り頂いて結構です、と言われたことに喜びを隠せていなかったかもしれません。どうせ相手も乗り気ではないようなので問題ないでしょうし、早く順番がまわってくればいいのにと思いながら誘導されるまま奥の祈りの間へと移動しました。
そう願ったのがいけなかったのか全然順番がまわってきません。
ゆうに半刻は過ぎているはずですが、やっと八割ほどの人数が減ってきたところです。
初めは聞く必要もないと思っていた神殿の歴史についての講話に耳を傾けてしまうほどには暇でした。
聖女時代に嫌というほど聞いた話は新鮮みはありませんでしたが、先代、つまり私の代の話になってからは反応しないようにするのに神経を使うことになりました。
曰く、先代の聖女は生まれながらにして病弱でありながら歴代随一の慈愛の心を持っていた。
時間さえあれば神に祈りを捧げ、自らのことよりも周囲の幸せを願うことを自分の喜びとした。
まさに神殿に舞い降りた天使のような微笑みを以て平和を願い、そんな聖女を周囲は心から慕っていた。
そんな彼女は若くして儚くなってしまいましたが、葬儀の際は神殿から溢れんばかりに人が押し寄せ多くの人が彼女の死を嘆き悲しんだ。
今も、人々に愛された聖女はこの神殿を見下ろせる丘の上に眠っており、今でも私たちを見守ってくださっている。
もっと様々な脚色がされていましたが、簡単にまとめるとこのような内容でした。
いったい誰の話をしているのか当事者である私が一番驚いています。
騎士と駆け落ちしたという醜聞はもみ消されているだろうとわかっていましたが、根本的に可笑しな話になっていることに呆れずにはいられませんでした。
私の性格などは嘘を塗り固めたものだとわかりますが、お墓があるというのは知りませんでした。何せ死後のことですし、わざわざ自分の遺体がどうなったかなんて知ろうとも思いませんでした。
きっと空っぽのお墓なのでしょうけれど、そのような話を聞いてしまっては気になってしまいます。近くの丘といえば、一つ心当たりがある場所があります。
本当に近くなので帰りに寄ってみるのもいいでしょう。
この時の私は小さな好奇心が今後の人生を大きく左右するとは微塵も思っていませんでした。
やっとまわってきた印の確認によって私は何の問題もなく帰ることができるようになりました。懐かしくも私にとっては後悔の象徴でもある神殿を尻目に、私のお墓があるという丘に向かいます。
お墓があるというその丘は聖女時代にこっそり彼と逢瀬を重ねた場所でした。
自由に外を出歩くことも許されておらずまさに籠の中の鳥のようでしたが、そんな私を夜になると彼が迎えに来てくれて手を引いて連れてきてくれました。
誰かに見つかってしまわないかと心臓が煩くて、でも彼と一緒に過ごせることがとても幸せで。人目を憚らず彼と手を繋いで歩く道のりはとても短く感じて、いつもあっという間に丘まで着いてしまいました。
手に温もりを感じながら見上げた夜空はとても広くて、このまま闇の中に消えてしまいたいと何度思ったかわかりません。
そんな私と彼の思い出の場所へと続く道を明るいときに通るのは初めてかもしれません。
いつもは暗くて見えなかったものが見えてまるで初めて通るように錯覚してしまいます。
野苺がひっそりと咲いた木も、恋人たちが仲睦まじく腰掛けるベンチも、私の大好きな花も、あの頃からあったのでしょうか。もう確かめる術はありませんが、できることならこの光景を彼と一緒に見たかった。
お墓を見ることが目的のはずだったのにいろんなところで寄り道をしていたら想像以上に着くまでに時間がかかってしまいました。
寒い夜に身体を寄せ合って過ごした丘でも特に大木の下が私たちの特等席でした。
そこに座って大木に背中を預け、彼に星の名前を教えてもらいました。
まるで建てた人が、私たちがそこでそうしていたことを知っていたかのように石碑はありました。近づいてよく見れば長方形の石碑には確かに前世の私の名前が彫ってありました。
『聖女マリアに健やかな眠りを』
この言葉を刻んだ人は何を考えてこの場所に石碑を建てたのでしょうか。
偶然というには広すぎる丘に、漠然とした疑問が残ります。
ですが、折角前世の私の死を偲んでこの石碑を建ててくれたのでしょうから、不思議な感覚もありますが私も祈りを捧げておきましょう。この石碑を建ててくれた人への感謝の気持ちを込めて。
今はもう信じていない神にではなく、愛するあの人と生まれてくるはずだった赤ちゃんの冥福を祈って。
「おい、そこで何をしている」
跪いて真剣に祈りを捧げていた私は突然声をかけられたことに驚いて軽く身体が跳ねてしまいました。驚きながらも、ゆっくり立ち上がって声の主の方へ振り返りました。
「…っ………」
そこに立っていたのは、いくら年を重ねていようとも見間違うはずがありません。
私は驚愕のあまり声をあげることもできませんでした。
前髪は邪魔だからと言って後ろに撫でつけていた黒髪も、夜明けよりも夜に近い空の色である藍色の瞳も変わっていない。
ただ、昔は優しさの見えた瞳は凍ってしまったように何の感情も映していなかった。
彼をそんな風にしてしまった理由は、私の大好きだと言ったヴァイオレットの花束を持っていることが何よりの答えで。
愛する人に再び会えた喜びよりも、彼に対する申し訳なさのあまり、頬に涙が伝っていることに気づくことができませんでした。
誤字報告ありがとうございます。