初秋の陽炎
この小説は完全なフィクションです。
東京を出てきたときには、庭に咲いている金木犀が風にオレンジ色の匂いをつけていたのに、デッキの外に見える木々はすでに赤く、黄色くなりかかっていた。重なり合う木の葉は、絵画のように微動だにしない。ちょうど凪の時間なのか。
昨日の夜からもう何度、愛し合ったかわからない彼女の身体が腕の中にある。薄いブランケットに包まる身体には、夏が終わったとは思えないほどの日差しが落ちている。背中を向けている彼女がロックグラスの中の氷をかき混ぜる音を聞いていた。そのリズムは、小さな音で流れる、息苦しいほど重厚なジャズに重なっていく。二つが交じり合い、すべてのやる気を削ぎ落としているようだった。
彼女の身体にぴったりと自分の身体を沿わせた。絹のように細い髪が頬をくすぐるのにも構わず、顔を埋める。深呼吸すると、幾分汗を含んでも甘い香りが肺から血液に溶け込んでいくのを感じた。胸に当たる、少し汗ばんだ彼女の背中が言葉に合わせて響く。
「私たち、安物のスプーンみたいですね」
重ねられて何本か束ねられ、無造作に売り場に置かれているスプーンを思い浮かべて、くすくすいいながら、彼女の首の辺りに腕を巻きつけ、その様子を表現した。彼女もくすぐったそうに笑った。目を向けた、デッキに続くガラス戸にはテーブルが写っていて、小さく盛り上がった白い布が乗っていた。その下にあるのはわずかな食料。
僕たちは、ピクニックと称して東京からエスケープした。持ち物はワイン一本と十八年物のスコッチ、フランスパンとチーズとハムだけ。ルールは簡単。食べること、飲むこと、話すこと、眠ること、そして愛し合うこと以外には何もしない――食料はもう三分の一くらいになっていた。ワインはとっくに開いている。『小春日和とはいつなのか』というようなたわいのない話を繰り返した。いつ眠ったかはわからない。僕たちの洋服は、到着直後から、脱衣所に脱ぎ捨てられたままになっている。
彼女の手からロックグラスを奪い、ぐいと一口あおった。時を重ねた樽の香りが喉に広がる。
「そろそろお酒やめないと。帰り運転ですよ」
彼女は首だけこちらに向けてそういう。
「明日の朝帰ればいいよ」
僕の指に、顔にかかった髪をよけられながら微笑む彼女に聞いた。
「それとも予定がある?」
「予定なんて……もう忘れちゃいました」
そういって身体をこちらに向ける。抱きしめると、彼女の腕も僕の身体を包む。
僕たちはいつからこうしているんだろう。確かに昨日の夜出てきたはずなのに、もう何日も、何ヶ月も何年も、こんなふうにしている気がする。これは夢なのだろうか。忙しい現実が見せている陽炎なのか。それとも陽炎が映し出している現実なのか。いつまでこうしていられるのだろう。地面が熱を失うまでか。それとも時が来るたび永遠に続くのだろうか――
急に胸が苦しくなって、抱きしめた腕に力を入れた。その強さに漏れた息が、絞り出すような声に続く。
「もう、これ以上、何も欲しくない」
頭の中に浮かんだ言葉を彼女の唇から聞いた。
髪の合間に露わになった首筋にキスをした。