第一話 日記~あの日の追憶 a
初めましての方は初めまして。そうでない方はいつもありがとうございます。
新連載、「例えこの剣が、憎しみに塗れていたとしても。」始まります。どうぞよろしくお願いします。
その日、私の日常は確かに壊された。
私は長女で、他人からよく、「しっかりしているね」などと言われた。当時の私は、周りからそう言われるものだから、確かにそうだと思っていた。
学校では学級委員を推薦されて務めていた。クラスの皆で協力して、規律ある生活を送る。それが良い集団の理想像であったのは、昔から同じだったみたいだ。
あの日も、私は学校へ行く支度をしていた。その日の朝ご飯はこんがり焼いた食パンに、ベーコンと半熟の目玉焼き。そして、付け合わせのレタス。きっと、いつまでも忘れないと思う。
そして、私はお母さんの優しい笑顔に見送られ、学校へ行こうとした時。人生の歯車は壊れた。
サイレンが大きく響いた。不協和音を幾度となく重ねた、聞いた瞬間耳を塞ぎたくなるような音だった。
お母さんに止められ、学校に行くことは中断された。何事かと、お母さんは居間のテレビへと駆けた。私も、お母さんが慌てて駆け込んだのが気になり、後を走った。
お母さんはテレビのリモコンで電源を入れ、テレビを点けようとした。けれど、テレビはピクリとも返事をしなかった。停電だった。
勿論、今になってだから、直ぐにわかったことで、当時は焦りと緊張で、私もお母さんも頭が真っ白になっていて、必死にテレビの電源を入れようとしていた。
「外のサイレンも、おかーさんも、おねーさんも──。なんだか、こわいよ」と、まだ歳が二桁にも行っていない隼也(注:「私」の弟)に言われたのを覚えている。きっと、酷い顔をしていただろう。その言葉に強く当たってしまったのも、今は謝りたいと思っている。
数分経って、家が停電状況にあることを、私とお母さんは知った。お母さんは押し入れの奥から、丸っこい手回し充電型のラジオを取り出した。
けれど、砂嵐の中に居るような音しか聞こえなかった。
何も情報が得られないまま、私とお母さんと隼也は、玄関を出た。そして、非現実的な現実に、仰天した。
最初に、トンボのような羽と、白く硬そうな甲羅。そして一つの目を持つ飛翔体が目に映った。
”トンボ”は二匹一組で飛んでいて、北から南へと向かっていた。住宅街の通りを見回すと、周りの家に住んでいる人々も、その”トンボ”に目を取られていた。
皆、目を泳がせながら、直立していた。
次に、”トンボ”が飛来した方向から、何かが崩れる大きな音がした。周囲の人も、その大きな音の方へと目を向ける。
その音が聞こえてから間もない頃、住宅街の十字路、トンボが飛来した方向から、去っていった方向へ続く道に、恐怖の文字が顔から飛び出そうな顔をした人の群れが現れた。
着の身着のまま出てきた人、大事な物だろうか、大荷物を背負ったまま逃げる人。私達があの人達と同じ立場になるのは、すぐだった。
隣の家の屋根から、白い甲羅で一つの目をした、サソリのような自立生体が私達を覗いた。ザリガニみたいなハサミと、鋭利な尻尾からは銀を反射していた。
私も含め、人々は悲鳴を上げ、一目散に逃げ出した。人は不思議なことに、咄嗟になると冷静を失う。もっと早く遠くへ逃げられる手段。例えば自転車に乗るだとかは、頭の片隅にも思い浮かばなかった。
でも、残念な事に、”サソリ”は、人の足よりも遥かに早かった。逃げている中、後ろを振り向くと、追いつかれた人が次から次へと、ハサミや尻尾で体を二つにされていた。”サソリ”は虐殺をしながら、確実に私達へと迫っていた。
逃げきれないと判断したお母さんは私の手を引き、路地裏へと向かい、回収されるゴミが置かれる、小屋のような場所に隠れた。私は祈った。「どうか見逃して下さい」と。
幸運なことに、数十分後、何かが崩落する音、人間の悲鳴は聞こえなくなり、静寂が訪れた。
低い塀とフェンスに囲まれ、プラスチックの屋根を持つ小屋から空を覗くと、時より”トンボ”が飛んでいったのが見えた。周囲の住宅街は、崩れた屋根が少し見えるものの、「人だけを抜いた住宅街」という方が相応しいと思った。
お母さんはおんぶしていた隼也を降ろし、座り込んで、荒い息を整えていた。私も、疲れていたからか、座り込んだ。
これからどうするか、私とお母さんはそれを頭の端に浮かべていた。私は、避難所で救援物資を手に入れ、生き延びるのが最もだと思っていた。
しかし、絵空事を描く時間は、すぐに没収された。
周囲から爆発音が突然響く。私は再び空を覗いた。すると、次は黒いグライダーのような飛翔体が、”トンボ”と同じ方向へ飛んでいた。
”黒いグライダー”が過ぎ去ると、周りから爆発音が響き、地面が縦に強く揺れる。私とお母さんと隼也は、ガタガタと揺れる小屋に恐怖を覚え、少し道幅のある道路へと逃げ出した。
爆発音が爆発音を呼び、辺りは白煙に覆われ、地面は縦に揺れる。私達は立ちすくんだ。今思い出すだけでも、体が勝手に揺れるような感覚を覚え、足が震える。
再び、四方から爆発音が鳴り響く。私の本能が震えた足を動かし、後退りをさせる。
隼也は、咄嗟に私の手を握る。今にも泣き出しそうな顔だった。それでも、隼也は強い男の子だった。だって、私とお母さんは恐怖で既に涙を浮かべていたのだから。
私達は白い爆煙に囲まれていた。そして、爆煙の中から、突然”サソリ”が姿を表す。私は狼狽した。そして、冷や汗がどっと出た。
”サソリ”は、事務処理をするかのように淡々と、躊躇い無くお母さんを、尻尾の刃で貫いた。お母さんの死を目の当たりにして、私の体が「逃げろ」と命令した。
私は、隼也の手を引き、”サソリ”と反対方向へ逃げた。何も見えない白煙の中を、ただただ必死に逃げた。
もう随分と逃げた。私は立ち止まった。息を整えようと足を止め、少し冷静になってから、異常に気がつく。弟を握っていた手が軽く、人間の手にしては冷たくなっていた。
私は、その手をよく見えるところまで持ち上げた。その後、残っていたのは手だけと知り、感情のままに、その手を地面に叩きつけた。手は、人形のように、動かなかった。
私はショックのあまりに吐いた。けど、吐き捨てられるものは多くなく、途中から酸だけが、喉を逆流した。次第に動悸も激しくなって、苦しかった。今、こうやって書き記すだけでも心が締め付けられる。
私は再び走り出した。何も考えず、がむしゃらに走り続けた。不安定な足場を、何度も体のバランスを崩し、擦り傷を負いながらも、何度も立ち上がって、走り続けた。
死にたくない。死にたくない。と思いながら。
走り続けると、白煙が晴れ、辺りがよく見えるようになった。その時見た光景は、今でも鮮明に思い出せる。
デコボコとして、醜い地平線がどこまでも続き、辺り一面、瓦礫、瓦礫、瓦礫。山の大きさが、建物の大きさを物語っていた。
私は、もともと幹線だったであろう道を走った。まだ、瓦礫の層が薄く、走りやすかった。けれども、私がどこを走っているのかは、サッパリ検討がつかなかった。
それでも、走って、走って、走り続けた。瓦礫の地平線はどこまでも続く。幹線は、途中から車の瓦礫のせいで進めなくなっていた。私は瓦礫の高さが低そうな場所を選び、醜い地平線の向こうへと走った。
かなり走ったところで、私は膝に手を当てて、息を整えていた。すると、溜まった疲労感が、全身を圧迫するように、私を襲った。辺りには瓦礫しか無い。
言い換えれば、脅威は近くには無い。後ろを振り返って、少し休もうと思い、瓦礫に座ろうとした。
その時だった。
辺りから、禍々しい黒い球体のような、渦のような物が、多数目に入った。
私は、辺りを急いで見渡した。私は既に囲まれていた。私は、禍々しいその渦のような黒い球体が発生する、敵地の中だった。
その中からは、さっきお母さんや、隼也を殺したであろう”サソリ”が大多数、また、人の形をした、両腕に刃を持つ人形が少数現れた。
近くに居た”サソリ”と”人形”は、私を視界に入れて、距離を詰める。
私は恐怖のあまり、腰を抜かして座り込んだ。自動車ぐらいの大きさの”サソリ”が五、六体、私を囲んだ。
そうすぐ”サソリ”の刃が私に届く。私は死を悟り、覚悟し、強く目を瞑った。どれだけ絶望的であろうとも、死ぬことは怖かった。私の心は、その直前まで、生に縋った。
死は覚悟し、目を瞑ること、‥‥‥あの時は数秒だったのかもしれないけれど、私の感覚では、三分ぐらい目を閉じていた気がした。
目の前に斬撃音が響く。私は目を開いた。
目にした光景は、単刀直入に言うなら、美しかった。
黒髪の小さな女の子が、
不釣り合いにも流線的な美しい剣の軌跡を描きながら、
それは滑らかに、そして芸術的に”サソリ”の目を斬っていた。
振り返る時の、蒼く真っ直ぐと澄んだ目、揺れ動く長い髪が印象的だった。
その少女は振り返る。その姿は冷静で、慈愛深く、美しく見えた。
私は彼女に縋り、抱きついた。私と同じぐらいの歳の少女に。
「もう大丈夫。だから──」
彼女は優しく私の頭を撫でた。そっと伝わる熱に、私は感情を抑えきれず、泣きじゃくっていた。お母さん以外の人前で、こんなにも涙を流したのは、この時ぐらいだ。
私は逃げてきた疲れで、立てなくなっていた。崩れる体勢を、少女が手で抑えてくれたことで、何とか体が崩れ落ちるのを防げた。
彼女は私を膝から持ち上げ、私を背負った。私は彼女の肩の上から腕を通し、全身を彼女に委ねた。
彼女は身を屈め、私の腕力だけでも背中に居残られるような体勢を取った。そして、赤い彫刻がされた剣を持ち、空中を素早く三回斬った。
すると、前方に三体居た”サソリ”の目が割れていて、その場で”サソリ”は崩れ落ちた。その”サソリ”は目の光を失っていた。
『──。×××××。────』
彼女の耳辺りからか、ラジオの砂嵐の音に近いものが流れる。
「ただの人助けだよ」
彼女は耳に手を当てて、その雑音に答えた。
また彼女の耳に少し雑音が流れた。それから間もなくしてから、
「しっかり捕まっててね」
と彼女は私に言った。私は体に力を入れ、彼女の背中で踏ん張る。
すぐに、彼女は強く地面を蹴り、非常に強い勢いで、跳躍した。瓦礫の山と山を素早く飛び移る。
景色は瞬く間に流れていった。どうしてこんなに早く動けるのか、今でも見当がつかない。
ふと横を見ると、"サソリ"が私の方向へと、追いかけてきているのが見えた。彼女は"サソリ"に目もくれずに、瓦礫の山と山を跳び移り続ける。
追いかけてくる"サソリ"の数は次第に増え、軽く十体ぐらいの"サソリ"が私達の後ろに居た。
「しっかり捕まっていて」
と、彼女は言ったのち、急に足を止め、"サソリ"の方向へと振り返った。彼女は剣を構え、宙に素早く軌跡を描いた。流線的な残像が、私にも見えた。
その軌跡は、"サソリ"に斬撃として投影された。正面に居る数体のサソリの目が、真っ二つに割れた。
左右から襲いかかる"サソリ"に対し、彼女は私を背に乗せたまま、大きく跳躍した。そして、左右の"サソリ"に向かって剣で軌跡を描き、"サソリ"を甲羅ごと真っ二つにした。
最後に左右五十メートル程離れた"サソリ"に斬撃を加え、追ってきた"サソリ"は皆、動きを止めた。
彼女は向かっていた方へと、体を向けて、再び瓦礫の山と山を跳び移り、人間離れした速度で瓦礫の荒野を走り抜けた。
少し経つと、背が高い建物が形を成している街にたどり着いた。街と言っても、人影は無かった。
ここに着くまでに、あれから三回程"サソリ"と戦闘を交えた。
彼女の刃が直接"サソリ"を斬ることは無かった。
彼女は建物の屋上伝いに進んでいく。落ちたら死ぬような高さを、あり得ない速さで跳び移っていた。
そして、ある建物を境界に、瓦礫の荒野がまた広がる。
目を凝らすと、プリンのような台形のシルエットが、遠くに見えた。私達は、そこへ向かっていた。
近付くにつれ、そのシルエットは抽象的なものから具体的な形を帯びていった。四つの塔と、それを繋ぐように建てられた外壁。姿は砦そのものだった。
瓦礫の山は、砦の付近まで広がっていた。彼女は速度を落とすこと無く、瓦礫を足場にして、風を切っていく。
砦に近づき、正面入口が見えた。そこには、白衣を着た医療従事者だと思われる人が数人居た。
医療従事者は、私を見て、目を見開いた。あらゆる所が擦り傷だらけだった。服も薄汚れている。
砦の入り口の床も、砦の外壁も、無機質な白色をしていた。
床に降ろされるも、私は二本足で立てず、よろけてしまった。地面に転げ落ちそうになった時、彼女は私の手を掴んで支えてくれた。そして、私の顔を覗いて、微笑んだ。逆光だったのもあるかもしれないけど、それはとても眩しかった。
彼女は「そういえば、自己紹介がまだだったね」と言って、彼女は名前を告げた。
私を助けてくれた人の名前は、藍原光。私も、彼女の自己紹介につられて、名前を告げた。私は足が再びよろけて、咄嗟に彼女の腕に抱きつき、体のバランスを取った。
その後、彼女に支えられながら数メートルの道のりを、ゆっくりと歩んだ。入り口の扉で、医療従事者に私は引き渡された。
彼女は私に手を振って、私が彷徨っていた方向へと、跳躍し、足早に去っていった。
私の体の容態は、過度の運動によるもので、少し安静にしていれば治ると言われた。言われた通り、数日経てば、体が思うように動くようになった。
けれど、私が彼女に合うのは二度と無かった。
きっと、忘れはしないだろう。あの日、あの時。
私の命の恩人、──藍原光。
忘れはしない。いきなり現れた奴らが私の世界を奪ったことも、絶対に、絶対に、絶対に‥‥‥。
未来の自分へ、どうかこの憎悪が薄れないように、決して奴らを許すことのないように。誓って欲しい。
新西暦十四年 七月二十六日
螢田茜