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レーラズの樹に関わる物語

巡る十年の歳月

作者: 桐谷瑞香

「これを筆写し、本にして欲しいのですが、できますか?」

 ミリーの目の前に置かれているのは、指四本くらいの厚さの紙の束たち。そこには大量の文字がびっしりと書かれていた。

 これを持ってきた金髪の女性は深々と頭を下げている。

「すみません、無理を言ってしまい。これだけの量です、時間はどれだけかかっても構いません。お金も相応のものを支払わせていただきます」

「はあ……」

 個人的に大切な文章を冊子として残したいという依頼は受けたことがある。筆写師としての収入源の一つであるため、たいてい受けることが多い。だが今回は量を見て、まず怯んでしまったのだ。

「ミリーさんは丁寧に素早く仕事をされていると聞いて、是非ともと思い、お頼みにきました」

「ありがとうございます。どんな仕事でもできる限り早くを目標としていますので」

 左右や中央に本棚が置かれている部屋の奥にて、椅子に座ったミリーは机を挟んで女性と話をしていた。

 ミリーより年上であり、既に子持ちだそうだが、お淑やかで、とても綺麗な女性だった。この女性の旦那さんもさぞ素敵な人なのだろうと、勝手に想像してしまう。

 紙の束を見ながら黙りこくっていると、女性は首を軽く傾げた。

「やはり難しいですか?」

「あ、いえ、そういうわけでは……」

 できなくはないが、即答するのが躊躇われる量だ。視線を下げて返事を考えあぐねていると、女性がゆっくり椅子を引いた。

「受けていただけるかどうか、すぐに返事を出して頂かなくても大丈夫です。これだけの量ですから、時間も相当かかります。三日後にまたお伺いしますので、そのときに返事をしてください」

 そう言い終えた女性は踵を返そうとするので、ミリーは慌てて立ち上がった。

「あの、この紙たちは!」

 女性はちらりと振り返る。そして微笑を浮かべた。

「検討材料になるかもしれませんので、置かせてもらってもいいですか?」

「それはつまり、中身を読んで判断してもいいということですか?」

 優雅に頷かれた。筆写師としては、大変有り難い申し出だった。

 ミリーは丁寧に礼を言いながら、女性を見送った。金色の髪は日の光に照らされると、さらに輝いてみえた。

 椅子に座って、再び視線を紙の束に向ける。それを机の端に一度ゆっくり移動し、昨日受けた手持ちの仕事にまず手を付けることにした。



 印刷技術が少しずつ発展している国において、ミリーは城下町の一角で筆者師として仕事をしていた。

 印刷の技術は近年確立されたものであり、まだ普及には時間がかかるため、使用者はほぼ城の関係者と限られていた。結果として、国民たちは何かを清書する際や大量に同じ内容を書き写す場合は、依然として筆写師の力を借りることが多かった。

 筆写師とは字のごとく、書き写すことを仕事としている人間である。二十代半ばのミリーがこの職についてから、早五年が経過していた。いつもは師匠と一緒に仕事をしているが、師匠は数日前から他の町に出張しているため、今は一人で店の留守を任されていた。

 旅立つ師匠より、難しい内容であれば、無理して受ける必要はないと言付けられている。複雑であったり、筆記体の文字、そして細かな図や数字などが書かれた資料などは、ミリーにとってはまだ苦戦する内容だった。だが今回の案件は量があるだけで、中身自体は綺麗な文字が並べられているため、難しいという筆写対象ではない。

 ミリーは一仕事を終え、筆写で使用した羽根ペンを机の上に置いた。両手を体の上にあげて、大きく天井に向かって伸びをした。そして軽く肩をもんで凝りをほぐす。座りっぱなしの作業のため、肩が凝りやすいのが難点の仕事だった。

 肩をならし、残りの仕事に手を付けようとすると、ドアベルが軽快な音を鳴らした。顔を伸ばしてドアの方に顔を向ける。すると見慣れた眼鏡をかけた男性が垣間見得た。

「こんにちは、ミリーさん」

 微笑みながら歩いてくるのは、製本業界で働いているロードだった。彼は袋を抱えており、それをミリーが座っている机の前に置いた。

「ご注文を受けていた冊子の製本版です。これでよろしいですか?」

「お忙しい中、ありがとうございます。確認させていただきますね」

 椅子から立ち上がり、薄いものから分厚いものまで五冊の冊子を袋から取り出す。筆写した紙を中綴じでまとめてもらったものだ。筆写した紙が大量にある場合、追加注文として冊子にしてもらうことが多かった。

 綺麗に糊付けされた背表紙、そして紙が綺麗に整えられて挟まっているかを確認してから、中を開いた。ミリーが筆写した紙が整然と綴じられている。それを一枚一枚めくって、糊付けがきちんとされているかを確かめた。

 じっくり見て、すべての冊子を確認し終えると、ミリーはにっこり微笑んだ。

「さすがですね。特に問題はありません。こんなに早く終えてくれるとは驚きです」

「ありがとうございます。ちょうど他の仕事がなかったので、早めに手を付けることができました。何か他の仕事はありますか? 量のある筆写を頼まれたとか」

 ミリーはふと机の端に置いてある紙の束に視線を向けていた。だがすぐに視線を戻して、首を横に振った。

「いえ、特には……」

「その紙の束はいずれ製本するものですか?」

 ミリーの視線の先を目ざとく察したロード。

 問いかけられたが曖昧な返事しかできなかった。

「今のところ未定です。私自身、受けるかどうか決めかねていますので……」

「どうしてですか?」

「量が多すぎるんです……」

「内容はどういうのですか? 聞いても差し支えなければ、教えていただきたいのですが」

 活字が好きなロードは目を輝かせて聞いてきた。ミリーはうっと返答に窮する。

「すみません、まだ中身を見ていないので、答えられません……」

「では一緒に見てみませんか?」

 分厚い書物をよく読んでいるロードは、誰かが書いた世に出ていない文章を気になっているようだ。

 請け負っていない仕事内容を第三者に見せるのは気が引けた。いくら信用している人間とはいえ、これでミリーが受けなかったら、あの女性に後ろめたさを感じてしまう。

 断る理由はいくらでもあるが、なぜか彼にも中身を読んで判断してほしかった。

 紙の束を移動し、表紙を開いて、文字で埋められた紙をロードに見せるように広げた。

「これは……物語?」

「え、物語ですか? 自伝とかではなく」

 ミリーもつられてじっくり紙を見た。丁寧な字で綴られた冒頭は、物語のようにも読めた。女性が何かを願っている様子が書かれている。

 しかし読み進めるにつれて、創世の時代から存在し人々に恩恵を与えている、この半島で広く伝わっている大樹に関する記述になっていた。内容としては、十年前の天変地異より前のものだった。それより後は一人の少女がモンスターに向かって果敢に戦う描写へと続いている。

「創作小説?」

 この半島を土台とした架空の物語だろうか。魅力的な二人の騎士たちが登場し、話はゆっくり動き出す。

 この先はどうなるのかと思いながら、目で必死に文章を追った。ロードもミリーに追いつくような勢いで読み進めていた。

 気がつけば紙を十枚ほどめくっていた。そこで一度顔を上げる。

「面白い……」

「本当ですね。冒険物語というのでしょうか。主人公たちが見る世界がどんどん広がっていくようです」

 二人で思ったことを言い合うと、くすりと笑いあった。同じ感想を持てて、とても心強い。

 物語というのは、ある人によっては面白いが、別のある人にはつまらないと感じることがある。それは人々の好みの違いがあるから起こりえることだった。言い換えれば、売れている物語とは幅広い人の好みにあう内容でもあった。

 ロードとは普段雑談をしている時からも好みなどが似ていると感じることはあった。読んでいる本、食べる食材、そして互いに読書を趣味としている点など、話すうちに知ることができた。だから今回も同じような感想を抱くのは、ある意味当然だったかもしれない。

 ミリーは紙の束を整えて、じっと見つめた。自分の力量でこなせるかどうかを判断するために。書きたいという想いがわき出るが、冷静な己が今一度考えろと言いたげだった。

「……一晩考えてみようと思います。ロードさん、もし筆写することを決めたら、これを製本してくれますか?」

 ロードははっきり頷いた。

「もちろんお引き受けしますよ。分厚くても背割れのしない、立派な本を作り上げてみせます」

 力強い言葉を受けると、ミリーはほっとした気持ちになった。



 * * *



 あれから十年がたった。

 出会い、この道を歩み出してから、あっという間の歳月だった。

 歩いてきた道を振り返れば、苦しいことも、逃げ出したいこともたくさんあった。

 それでも歩み続けられたのは、支えてくれた人がいたからだと思う。

 感謝してもしきれない想いがいっぱいだ。

 だから改めて声に出して言いたい。


 私のことを見守り続けてくれて、ありがとう。

 無茶しそうになった私を支えてくれて、ありがとう。

 そして――――



 * * *



 散々悩んだ結果、ミリーは女性の依頼を受けることにした。彼女が提示した完成期日が余裕を持った日程だったというのも理由としては大きかった。約半年という期間でミリーは筆写することになった。

 女性は城下町に住まいがあるのではなく、数ヶ月に一度知人を訪ねためにこちらに来ているらしい。それならば筆写を自身が住まう町で頼んだらどうかと尋ねたりもしたが、彼女は曖昧な笑みを浮かべて首を横に振っていた。あまりその町では頼みたくないようだった。

 城下町に来た際は顔を出すという約束をかわし、ミリーと女性は別れた。次に会うのは三ヶ月後、それまでに半分くらいは終わらせなければならない。

 昼間は請け負った短い文章を中心に筆写をし、夕方から夜にかけて女性の文章を筆写することにした。女性の文章はできる限り静かな環境で書き写し、中身を楽しみたいのだ。

 今日も他の仕事をし終えると、分厚い紙の束を取り出して、机の隅で筆写を始めた。出張から戻ってきた師匠に、「物好きな仕事引き受けたものだな」とぼやかれたのを聞き流しつつ、羽根ペンを手にとって、筆写を進める。

 今は一束目が終わり、二束目に突入していた。少女と騎士との関係に少し不和が感じている展開だった。騎士の青年が必要以上に自分のことを隠しているためにそのような空気になっている。信用しているのなら彼女にも話せばいいのにと思いながら、羽根ペンを走らせた。

「――ミリーさん、ちょっといいですか?」

 声をかけられて、慌てて顔を上げる。前には申し訳なさそうな表情をしたロードが立っていた。店にでているのにも関わらず、すぐに人に気づかないのは失態だった。これが客だったら、師匠に小言を出されてしまう。

「すみません、ずっといましたか?」

「来たのはさっきですよ。近づいても気づかなかったので、声をかけさせてもらいました。……例のですか」

 ミリーは軽く頷く。

「一束目が終わり、今は二束目です」

「一束目は筆写を終えたのなら、製本しましょうか?」

 ロードの提案を聞き、その場で思案をする。

 背幅を確定させて厚紙に糊付けをし、整えた紙をそこに張り付けるという工程が必要だ。手作業で行われるため、まとめて渡すよりも個々に渡した方がロードとしても都合がいいのだろう。

 女性からの指示では背幅が割れないようにきりのいいところで製本してほしいとのことだった。少なくとも六冊になるのではないかと、呟いている。

「……そうですね。お時間があるようならば、お願いしてもいいですか?」

「はい、もちろん。ではお預かりしますね」

 ロードは紙袋にミリーが筆写した紙の束を詰め込んでいく。それをぼんやり眺めていると、ロードに顔をじっと見つめられた。

「な、何ですか?」

「ええっとですね……」

 彼は部屋の中を一通り見渡してから、再び顔を近づけた。

「今晩、食事でも行きませんか? しばらく夜遅くまで作業していると聞きました。そんな中で、ご飯はきちんととっていますか?」

 事実を言われて、ミリーは固まった。たしかにここ最近は師匠よりも遅く店を出て、鍵を閉めている。その後、適当に出来合いのものを買って、部屋で食べていた。お腹が満たせればいいと思っていたため、量も味もそこまで追求しなかった。

「頑張るのもいいですが、倒れてしまったらもともこうもありません。たまには気分転換でもしましょう」

 そしてロードは一枚の紙を差し出した。場所と時間が明記されている。大通りから少し離れた路地裏にある店だった。

「こちらで待っています。まさか……この時間以上に仕事はしていませんよね?」

 紙には多くの人間が夕飯をとっている時間が書かれている。しかもミリーを考慮してか、時間帯としては遅い方だった。この時間まで仕事に没頭した場合、仕事のやりすぎと言われてしまうだろう。

 もっと遅い時間まで書き写しているなど言えず、ミリーは黙ったまま頷いた。



 多数の種類の野菜を使った色とりどりのサラダ、ジャガイモをベースとしたポタージュ、そして柔らかで味がしっかりとした肉料理を食べ終え、ミリーとロードはコーヒーを飲んでいた。最後に出てきた果物の盛り合わせとシャーベットが乗った皿を見ると、ミリーは目を輝かせた。

 二人分の皿が置かれると、早速シャーベットから手を付けた。柑橘系が原料なのか、口に入れると酸味と爽やかさが広がっていく。その余韻に浸りながら果物を頬張るなり、それに負けないくらい甘みも広がっていった。

 あっという間に食べ終えると、ロードはにこにこしながらミリーのことを見ていた。食べ物に夢中になったことを思い出し、途端に恥ずかしくなった。

「す、すみません。誘っていただいたのに話もあまりしないで……」

「話は割としていたと思いますよ。ミリーさんとは本の趣味があうと再確認できましたし。今回は食べてもらうのが目的だから、完食してくれて本当に嬉しいです」

「こちらこそ、今日はこんなに素敵なお店に連れてきていただき、本当にありがとうございます! ご飯はどれも美味しかったです。また仕事を頑張ろうという気持ちになれました」

「良かったです。食を楽しむことも、息抜きには必要なことですよ」

 ロードはそこで言葉を切り、視線を下げて机の上で手を軽く握り直した。

「……ミリーさん」

「はい?」

 顔を上げて、視線をまっすぐ向けられる。

「また息抜きにご飯でも行きませんか?」

 思わぬ申し出に、ミリーは一瞬思考が固まった。

 同業者ということもあり、ある程度相手方の性格や素性は知っていたため、食事の最中もすんなりと話に入ることができた。そこまで気を使わずに、お互いの好きな本についても楽しく話すことができた。

 彼に紹介された本をまた読んで語り合いたいと思っていたため、その申し出は大変嬉しいことだった。

「……はい、是非ともよろしくお願いします!」

 ロードの表情が緩む。それを見て、ミリーも思わず微笑んだ。



 * * *



 私の人生が緩やかに、けれど確実に変わったのは、その出会いがあったからだ。

 ぼんやりとした目標しかなかった私の前に現れた、唐突な出会い。差し伸ばされた手を掴み、その世界に飛び込んだら、思ってもいない光景が広がっていた。

 毎日が新鮮で刺激的。世界を歩む度にまだ見ぬ世界が永遠と広がっていた。

 始めは広がる世界を見たいと思った。だがあまりの大きさに圧倒されて、徐々に考えを変えていった。

 そして自分の周りにいる人と共に見渡せる範囲で見られれば、それでも十分素晴らしい日々になるのではないだろうかとも思った。


 そう踏ん切りを付けようとしたが、世界は皮肉にも私を逃してはくれず、さらに苦しくも魅力的な世界を見せつけてきた。



 * * *



 女性の依頼を受けてから、既に四ヶ月が経過していた。一ヶ月前に経過報告を見に彼女はミリーの前に現れた。ミリーが四束目に手を付けているのを知り、たいそう驚き、嬉しそうな顔をしていた。

 筆写と製本を終えた本を見た彼女は、口元に笑みを浮かべて中を開いていた。満足そうな表情にも見えるし、どことなく哀愁が漂っているようにも見えた。ミリーは気になりつつも、問いかけることはしなかった。

 これらの紙の束は彼女にとってかけがえのないものであり、とても大切なものだろうと察したから、決して中身に関しては言葉をかけなかった。



 四ヶ月目が経過した頃、仕事が大量に舞い込んできた。城下町の一角で催しものがあるらしく、それに関連する筆写の依頼だった。期限が決まっているため、そちらの仕事が優先順位としては高くなる。必然的に女性からの依頼は滞りがちになった。

 しばらくの間、朝から晩まで師匠と共に絶え間なく筆写をし続けていた。二人で作業できるギリギリの量を引き受け、懸命に頑張ったため、何とか期日までに終えることができた。本当ならばもう少し引き受ける量を減らしたかったが、依頼主に押し切られた結果、時間的にも余裕のないものになってしまったのである。

 一仕事を終えると、師匠は少し休むと言い、店の立て札を臨時の言葉を付け加えた『休業中』に変えた。臨時休業は滅多にしないので、師匠もかなり疲れたようだと察した。ミリーも片づけを終えてから帰宅するために、店に残った。

 陽は空の真ん中に位置している。欠伸をかみ殺しながら、自分の机の前に座った。そして今まで横にどけていた女性から依頼された束を中央に戻した。二週間ほど手を付けられていない中、もうすぐ五ヶ月目に突入する。内容的には四束目に入ったところのため、予定よりもかなり遅くなっていた。あと数日で四束目を終わらせなければ、後々の筆写がきつくなってしまうだろう。

 眠いとはいえ、できる限り進めなければ。淹れたコーヒーを飲み、頬を軽く叩いて眠気を追い払ってから、羽根ペンを握りしめた。



 だがミリーも相当疲労が溜まっていたようで、気がつけば机の上に突っ伏して寝てしまっていた。頭をゆっくり上げたときには、窓から差し込んでくる光はなく、部屋の中は真っ暗な闇が広がっていた。

 右手を伸ばして、ランプに手を付ける。そしてランプの中心にある珠を軽く撫でると、ランプの中が光でいっぱいになった。その光をぼんやり見て、さらに視線を正面に向けると、目の前に人が立っているのに気づいた。黒っぽい服を着た男が立っている。

 ミリーがぎょっとしている間に、男の手が伸ばされて、強い力で口をふさがれた。

「騒ぐな」

 好意的でない低い声は、ミリーを固まらせるには十分だった。震えながら男を見上げる。

「金はどこだ。この前大量の仕事が入ってきたんだろう?」

 強盗だ。店の鍵の施錠を忘れてうたた寝してしまった隙に、侵入されたようだ。他の領と比べて治安はいい地だが、決して全員がいい人であるわけではない。

 依頼料金は支払ってもらったが、それらはすべて師匠が持ち帰って、適切な場所で保管している。そのため店にあるのは釣りが払える程度の少額のお金しかない。

 固まったままでいると、男がさらに口を強く握ってきた。

「おい、どこだ」

 正直に言おうとしたが、その声がさらにミリーの体を固くしてしまう。本当のことを言っても信じてもらえないかもしれない。涙目になっていると、男はますます不機嫌になっていた。

 思考が止まったままその場で体を強ばらせる。すると誰かが廊下を踏む音が聞こえてきた。その人物はランプを持っているようで、光が少しずつ大きくなった。

「おい、誰かいるのか?」

 師匠の声だ。ミリーは目を丸くして、ランプの光の方に目を向ける。男も同様に鋭い目つきを向けていた。そして男は左手でポケットを探り、鋭利なナイフを取り出して、ミリーに突きつけた。

 部屋の中に入った師匠は、ミリーと男を見て息を呑んだ。

「ここの関係者か。この女を傷つけられたくなかったら、金を寄越せ」

「貴様は何者だ。こんな古びた店に来ても、満足な金は得られないぞ」

「うだうだ言ってねぇで、さっさと金を寄越せ!」

 男が握っていたナイフがさらに近づく。切れ味の良さそうな切っ先が近くにある。ごくりと唾を飲み込む。

 ふと、床に何かが転がったのに気づいた。それが男の足に当たると、途端に目映い光を発した。驚いた男の手が緩む。口から手が離れたミリーは、思い切って後ろに下がった。その間に誰かが一気に近寄り、男を床の上に押し倒した。男と誰かがもみ合う音が聞こえてくる。

「畜生、離せ!」

「不法侵入と強盗未遂をした人をそう簡単に離すわけにはいきません」

 冷静に淡々と言葉を発する青年の声は、聞き覚えのあるものだった。やがて部屋全体に明かりがつく。ミリーはおそるおそる机の裏からでて、男たちの方に近づいた。ロードが馬乗りになり、男を後ろ手にしているところだった。鞄から縄を取り出して、きつく縛り出す。

 彼はミリーの存在に気づくと、表情を緩めた。

「お怪我はありませんか?」

「は、はい……」

「近頃盗人が悪さをしています。物騒ですから鍵はしっかり閉めてください」

「すみません……」

 ロードは男を立ち上がらせ、引っ張るようにして部屋の外に連れて行った。二人が去ると、ミリーはその場に座り込んでしまった。

 師匠が近づき、肩を軽く叩いてくる。

「大丈夫か」

「腰が抜けただけです……。すみません、ご迷惑をかけてしまい」

「いや、お前に施錠を任せた俺が悪い。お前の性格からして仕事をやりそうなのはわかっていたが……。とにかく今日は帰れ」

「……ありがとうございます。あの、ロードさんはどうしてここに?」

 男を拘束して出て行った彼の背中を思い出す。

「あいつは臨時の自警団員だそうだ。あの優男だから気づかないが、それなりに鍛えているらしいぞ。今回は俺が忘れ物を取りに戻っている時に、巡回中のあいつと出会った」

「そうだったんですか……」

「結果としてあいつを連れてきて良かった。俺だと何もできないからな」

 はっはっはっと声を上げながら、師匠は机の上にある宝珠を手に取り、ポケットの中に突っ込んだ。

 ミリーは机の上を整理し終えると、師匠と共に外にでた。すると入り口でロードが待っていた。師匠がミリーの背中を軽く押し出す。

「頼んだぞ。俺はさっさと帰る」

「わかりました。明日少し聴取をしに来ますので、そのときはよろしくお願いします」

「お前も仕事はほどほどにな」

 師匠の家はミリーのとは真逆の方向にある。彼は背中を向けて手を振りながら、ランプを片手に歩いていった。

 ロードはミリーの前に顔を出してくる。

「ミリーさん、こんな時間ですし送っていきます。途中でご飯は食べますか?」

「……あの、さっきの男はどうしたんですか?」

「他の人に任せました。常習犯のようなので今回捕まえられて良かったです」

「……色々とすみません、ご迷惑をかけたようで。ご飯は――」

 言葉を出す前に、お腹が鳴ってしまった。ロードは微笑んで頬を赤らめたミリーを見下ろす。そして彼に促されて、軽く食べられる店に連れて行ってもらった。



 すっかり寒くなった帰り際、ミリーとロードは並んで帰っていた。お腹が満たされたおかげか、緊張もすっかり解けていた。今振り返ると、恐ろしい体験をしたと思う。だがロードがいてくれて、本当に助かった。

 寝泊まりしている住居の前に着くと、ミリーはロードに対して深々と頭を下げた。

「今日は本当にありがとうございました。一人になるときはもう少し気をつけます」

「あまり根詰めて仕事をしないでください。お師匠さんもよくぼやいていますよ。ミリーさん、あの……」

「何でしょうか」

「……あの女性の依頼が終わったら、僕の中で一番美味しい店を紹介しますので、一緒に行きませんか?」

 彼の申し出に一瞬キョトンとしたが、ミリーはすぐに首を縦に振った。

「ありがとうございます、是非行きたいです! 食事好きのロードさんの一番のお店だなんて、楽しみです!」

 笑顔で言うと、つられたロードも嬉しそうな顔をしていた。



 * * *



 あなたたちが喜ぶ顔を見たい。

 笑顔になっている様子を見ていたい。

 だから私はここまで頑張ることができた。


 過去を振り返るときはたくさんあった。

 それ以上に未来を見据えることの方が多かった。

 果てのない道を歩き続けるためには、前を向いて進まなければならないのだ。


 これから私はここより前の十年とは、また違う日々を過ごすことになるだろう。

 なぜなら私の年齢も周囲の環境もすっかり変わったのだから――。



 * * *



 ミリー宛に女性から一通の手紙が届いた。諸事情の関係で予定よりも二週間遅く到着するということだった。手紙で書かれた日に立ち寄るが、まだ完成していなかったら無理しなくてもいいという追伸も書かれている。どこまでも気遣いのできる人だと思いながら、ミリーはその手紙を横において筆写をしていた。

 今は最後の束が半分くらい終わったところだった。少女たちの大樹を巡る大冒険が終わり、それぞれの幸せを求めて模索する話になっていた。

 強盗に侵入された後から、ミリーはより時間配分には気をつけて仕事をするようにした。そして施錠もしっかりし、無理はしない範囲で進めていた。

 仕事をする時としない時をはっきりすることで、より集中ができたのか、筆写の速度は増していた。内容がさらに面白くなり、先に先にと書きたい思いが強くなったからかもしれない。


 やがてミリーは最後の一枚に手を付けていた。それは女性の十年分の想いが詰められたものだった。淡々と、だがとても力強い独白文に、ミリーも胸が熱くなっていた。

 十年という歳月の重みを感じながら、最後の一文字までしっかり写しきった。



 女性は手紙に書かれた日付通りに、店に訪れた。今日はロードも一緒にいてもらっている。

 彼女の方も一人ではなく、黒髪と銀髪の男性たちも一緒だった。少し目つきが鋭い黒髪の男性がミリーの前に立つと、深々と頭を下げてきた。

「この度はだいぶ無茶な依頼をしてしいまい、申し訳ありません」

「い、いえ、判断する時間も頂いた上で引き受けました。無茶だとは思っていませんよ」

 見た目からして怖い人かと思ったが、とても真面目な男性だと言動ですぐにわかった。ロードに促されて、ミリーは製本された六冊の本を女性たちに手渡した。それぞれ二冊ずつ手に取り、中を開く。三人とも目を丸くしていた。

「綺麗に筆写されているわ……」

「お前の雑な字とは大違いだな。すごく読みやすい」

「これはいつまでも残したいと思う、素敵な本になったね」

 女性と黒髪、銀髪の男性たちが、次々と感嘆の声を上げてくれる。それを聞くとようやく肩の荷が下りた。どんな瞬間でも客と接するときはドキドキするが、手渡すときが一番緊張していた。

「それぞれの束ごとに製本してくださったのですね。区切りも意識していたので、そうしていただけてとても嬉しいです」

「おい、二冊目と三冊目の区切りとか、どうにかならなかったのか?」

「あら、いい区切りだと私は思うけど?」

 女性が黒髪の男性に向けて不敵な笑みを浮かべる。どうやらこの二人の関係を見ると、女性の方がやや上に見えた。

「こんな風に残ると感慨深いものがある……。割と容赦なく書かれている気がするけど」

 銀髪の男性が苦笑いしつつ、五冊目をぱらぱらと見ていた。

「想像で補っている部分もあるから、そう見えるだけかもね。けどなるべくその人に聞いて書いたから、そこまで間違っていないと思うわ」

「まあ誰が書き手によるかで、内容は随分と変わってくるものだよね」

 男性は自分が持っていた二冊を黒髪の男性に手渡した。黒髪の男性は製本された物を袋の中にゆっくりしまい込む。

 その間にミリーは女性から前金を抜いた硬貨を受け取っていた。硬貨を数え上げると、提示した枚数よりも多かった。慌てて突き返そうとすると、女性にやんわり断られる。

「こんなに素敵に製本してくれて、しかも丁寧で読みやすく筆写していただいたのよ? 少し増しで払わせてちょうだい」

「ですが……」

「なら、お二人のお疲れ様の食事代ということで、受け取ってください。私たちからのせめてもの気持ちですよ」

 女性は頑なに受け取らなかった。逡巡している間にロードに肩を叩かれたミリーは、有り難く硬貨を受け取った。

 そして再び女性たちは頭を下げた。

「今回は本当にありがとうございました。とてもいい物が未来に残せそうです。大切に読んで、保管させていただきますね」

「こちらこそ素敵な仕事をさせていただき、ありがとうございました!」

 礼を言い終えると、三人は歩き出した。ミリーは彼女の優しげな笑みを見て、思わず口を開いた。

「あの、その内容は自伝ですか!?」

 筆写した内容は決して依頼者から話がない限り触れてはならない。しかし今回はその掟を破っても、どうしても聞きたかった。

 とても素敵で壮大な物語だったから――。

 女性たちはゆっくり振り返る。そして小さく笑みを浮かべた。

「それは想像にお任せします」

 穏やかな陽の光が照らされる中、三人はミリーたちに見送られながらその下に出て行った。



 その日の夜はロードに連れられて、彼が美味しいと薦める店につれていてもらった。やや格調高い店は、ミリーだけでは来られない店でもあった。

 前菜と副菜、主菜、そしてデザートを食べ終えて、コーヒーを飲んでお腹を落ち着かせるときだった。

 ロードの視線がこちらやあちらに向いたりして、なぜか落ち着きがない。どうしたものかと思い、カップを置いて顔を近づけた。アルコールも入っているため、二人とも仄かに顔が赤かった。

「どうかしましたか?」

「……ミリーさん、いいですか?」

 目を瞬かせながら頷くと、ロードは姿勢を正した。

「貴女と一緒に話していると、とても楽しいです。今後も楽しくお話しをしたいです。ですので……同業者という関係ではなく、恋人として僕とお付き合いして頂けませんか?」

 ロードは頬を赤らめながら、精一杯言い切った。ずっと言葉を探しながら食事をしていたのだろう、終わりに近づくにつれて言葉数が少なくなっていたのが思い出される。

 いつも気遣ってくれる優しい男性。時には守ってくれる素敵な方。

 ミリーは数瞬の間を置いて、高鳴る心臓を感じつつ、ゆっくり一音一音確かめるようにして言葉を発した。

「私でよければ喜んで」



 * * *



 一度区切りとして気持ちを整理するために、今回文字に起こし、整えることに決めた。拙くてもいいから、未来に物として残したいのだ。

 将来、これを読んだ人はどう思うだろうか。自己満足の代物と思うだろうか。

 そう思う人がいる一方、誰かの心に何かが伝われればそれでよかった。


 また新しい一日が始まる。

 出会ったすべての人に感謝しながら、私は歩み続けたい。



 * * *




 了





 お読みいただき、ありがとうございました。

 小説家になろう投稿開始10周年記念小説です。

 舞台設定はあえて明記していませんが、わかる人にはわかるかと思います。

 初見の方、拙作を読んだことのあるすべての人に、楽しんていただければ嬉しい限りです。


 今後も執筆頑張ります。

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