第七章
「でも、カンナが言ってた事にも一理あるよな」
彼女が言っていた通り、ノエルにはおおよそなんの力もない。喧嘩が特別強いわけでもなければ、何かしらの武術を習っていたわけでもない。そもそも相手が守護騎士団となれば、相手の武器は剣とスカイシェードになるだろう。さすがにそんな相手に素手で挑むほど彼は自信過剰でもなければ、バカな男でもなかった。
「そうなると武器が必要なんだだけど、手近で武器が手に入るところと言えば、ここしか思い浮かばなかったんだよな……はぁ、なんかどんどん犯罪者的な思考回路になってるな」
ノエルが眼前に見るのはとある病院の裏口、ヴェロニカが経営する病院の裏口だ。
彼は以前、彼女から院内の清掃を命じられた際に、廊下の脇にぞんざいに立てかけられた剣を目にしていたのだ。
「ヴェロニカさんが守護騎士だった時のものだろうけど、あれを貸してもらえれば少しは戦力にプラスになるはずだ」
ノエルは無意識に「貸してもらう」と言う言葉を使ったが、交渉して貸してもらう気など最初からなかった。なぜならヴェロニカが貸してくれるとも思えないし、そんな事をしている暇はないからだ。よって彼が取る行動は一つ。
「……ヴェロニカさんは、寝てるかな?」
――きっとこの時間ならまだ寝てるはずだ、大丈夫。
合鍵を使ってゆっくりと裏口のドアを開け、自分は幽霊、自分に気配はないと言い聞かせながら廊下を歩くノエル。その目的は剣を見つけ出し、ヴェロニカの家から盗み出すことだ。
「にしても暗いな」
もうすぐ外は明るくなるとはいえ、まだまだ十分暗い時間。それが室内の廊下となれば、灯りがなければ目の前すらよく見えないほど薄暗いのも当然だ。そうした状況の中で、無事に剣を見つけられるかは賭けに等しい行為だったが。
「よかった……」
――何とか見つけられた。というか本当に雑に扱ってるな……前に見かけた場所から数センチと動いてなかったし、おまけに……っ、
「何がよかったんだ?」
背中に何か尖ったものを突きつけらる感覚、ここで働いてきたノエルには、それがメスであるすぐに理解できた。と同時に、全身から凄まじい量の冷や汗が出始める。
「おい、誰だお前……俺の家で何してる?」
――やばい、見つかった。
おそらく寝起きで最高に機嫌の悪いヴェロニカに、盗みの最中という最悪のタイミングで見つかったノエル。脳内にはやばいやばいと、アラームが鳴り響いていたが、背中にメスを突きつけられているという恐怖から、彼は体が固まってしまっていた。
「何にも言わねぇってか? まぁどうせ物取りかなんかだろ? ったく、眠い中起こしやがって……にしても残念だったな。こう見えても俺は色々と場数を踏んでんだ、お前程度の奴の粗雑な侵入には気が付くさ。それにだ、俺の家には金目の物はねぇ……っとまぁ、そろそろ盗みに入ったバカ野郎の顔を見せてもらうかな」
フードにかけられた手が、無慈悲にノエルの顔を暴き立てる。
「っ!」
――終わった。
暗闇で顔が見えないのでないかと、ノエルは最後の希望に賭けてもみたが、残念ながらそれは無駄なあがきだった。
「お前……ノエルだと?」
呆気なく見破られる正体。
突きつけられたメスがようやく降ろされれ、ノエルゆっくりと振り返る。するとそこには予想通り、眠りを邪魔されたことと、何をしているのかという二つの怒りが見事に合わさった表情をしたヴェロニカが、鬼婆の様な形相で睨んでいた。しかし、メスが体から離れたことにより、今のノエルには多少なりとも余裕が出来ていた。見つかった以上、次の手を打たなければならないと考える程度の余裕が。
「おい、ノエル。ちゃんとした言い訳は考えてるんだろうな?」
「言い訳……ですか?」
いくらヴェロニカの機嫌が悪いといえど、今はまだノエルに対する疑いの内容を決めかねているはずだ。本来がならそれこそ適当な言い訳でもしてこの場を切り抜けるのが最善だろう。少し無理があるかもしれないが、忘れ物があったなどと言えばノエルの行動にも少しは説明が付けられたかもしれない。しかし、それでは目標としているものは手に入らない、もしそうなればここ以外に、剣が手に入りそうな場所の見当は彼にはなかった。
「言い訳はありません」
「ほ~う、それはまたいい度胸だな」
ヴェロニカはさらにノエルに近づくと、コキコキと両手をならして彼を威圧してくる。
「じゃあ何か? 俺の想像通りお前は物取りに入ったと? おいおい、いい度胸だな……まぁ俺も鬼じゃない、しばらく給料なし、さらにこの場でサンドバックになれば許してやらんことも……」
「どうしても必要なんです」
「……なに?」
普段はヴェロニカがどんなに怖いとしても、今だけは怯むわけのはいかなかった。今ここでノエルが怯み諦めてしまえば、それはメルトの命を諦めるのと同等の意味だ。
「盗みに入っておいて、こんなセリフを言っても信じてもらえないでしょうけど、僕には助けたい人がいるんです。その人を助けることは世間一般的には悪い事なのかもしれません、それでも僕はその人を助けたいんです」
「カンナに……何かあったか?」
ヴェロニカが睨めばすぐに視線を逸らすノエル。そんな彼が今はまっすぐに彼女の目を見ている。ヴェロニカが守護騎士団の頃の経験からだろうか、すぐに事態がただ事ではないというのを見抜いた。
「いえ、カンナは無事ですよ。僕が助けたいのは」
「はぁ……なるほどわかった、もう言わなくていい。何かあったのは訳あり女の方か」
「はい、メルトさんは僕のせいで処刑されそうになってるんです。彼女からしたら僕は裏切り者の最低な男だけど、どう思われても彼女だけは助けたいんです」
ノエルの弁にヴェロニカは「めんどくせぇな」と言いながら、二三歩後退して廊下の壁に寄りかかる。そしてそのまま、彼女は胸元のネックレスを無造作に引きちぎり、紐の部分を持ってクルクルと回し始める。
「ったく、夜中に起こされて何でこんな話聞かなきゃなんねぇんだよ」
「す、すみません」
「まぁいい、それで何だ? 訳あり女を助けるために武器が必要だと考えたお前は、元守護騎士団の俺の家に、武器を盗みに来たわけだ?」
ややあきれの混じったその問いに、ノエルは素直に頷く。今更誤魔化しても事態は何も好転しないだろう、そもそも先ほど自分でバラしてしまっているのだから。
「お前みたいな奴が物取りをしようとしたんだ、お前の中にある覚悟はきっと本物だろうな。だけど俺が断言してやる、お前はバカ野郎だ。剣なんか目立つものを持って、守護騎士団がワラワラ居るフォート・レイン城に行ってみろ、速攻で殺されるか……まぁよくて逮捕されるだけだろうな。善悪は関係なく、助けたい人のために頑張るってのは美しい事だろう思う。少なくとも今の俺には絶対にできねぇな。だけどよ、お前がしようとしてるのはただの無駄死にだ、罪の意識から逃げようとしてるようにも見える」
「違う! 僕は逃げようとなんて……っ」
「うっせぇな、わかったから落ち着けよ。俺が言ってるのは、やるならもっとスマートにやれってことだ。見つからないような武器を持ち、最後の最後まで目論見を隠す。そういう成功するような作戦を立てろってことだよ、剣持って真正面から殴り込みなんてのはバカがやることだろぉが。お前みたいな奴には似合わねぇよ……ほれ、受け取れ」
ヴェロニカはクルクルと回していたネックレスを、何の脈絡もなくいきなりノエルへと放る。
「っと」
思わずよけそうになった彼だったが、危ういところでそれを何とかキャッチすることに成功する。吸い込まれそうな色合いの黒い結晶を中心に、一目で高価なものだとわかる金細工が施されたネックレス。通し穴に通された紐だけが年期が入り、古めかしい雰囲気を醸し出している。ノエルは似たようなものをどこかで見たことがあったが、明確にそれが何なのか思い出すことが出来ない。変わりに脳裏に浮かんできたのは声、聞いたことのない人物の声が、頭の中に直接響いてくる。
――なんだ、これ?
頭に響いてくる声にノエルが戸惑っていると、そんな様子を見て満足したかのようにヴェロニカが声をかける。
「スカイシェード」
「え?」
ヴェロニカは腕を組み、その瞼の裏に何を映しているのか、瞳を閉じたまま語る。
「それならあんまり目立たねぇだろ? それにその剣はもう長い事手入れをしてね~んだよ。刀身は錆びついて刃こぼれもしてる……持ってても邪魔なだけだ。だからそいつを持ってけ」
「なんで、こんな」
「なんでだと? 俺がそいつを持ってる理由か? そんなのは簡単だろ、守護騎士を引退したとはいえ、俺はまだ一応は貴族だ。スカイシェードを持っている資格はある……それともアレか? 俺がお前にそいつを渡した理由、それが聞きたかったのか?」
まさしくその通りだ。面倒な事にはなるべく関わりたがらないヴェロニカが、何故こうもノエルに対して親切にしてくれるのか。普段の彼女からはまるで想像できない行動だ。
「別に大した理由はねぇよ」
ヴェロニカはゆっくりと眼を開け、怠そうな目つきでノエルを見る。
「俺が守護騎士団を引退した理由を触りだけ話したよな? ……そう、俺は上層の連中が、特に王家の連中が気に食わなかった。昔、とある事件があってな、その時にまだ小さい女の子を処刑しろって命令が下ったんだ。だけど俺は……っと、この話はいつかまた会ったときにでもしようか、急いでるんだろ? 行けよ、ノエル」
ヴェロニカの話には興味があったが、今は一刻を争うときだ。彼女の言う通りそろそろここを出た方がいいだろう。
「……すみません、ヴェロニカさん」
「おう、まぁがんばれや」
ヴェロニカは適当に手を振ってそんな事を言うが、彼女なりに応援してくれているのだろう。そう感じたノエルは彼女に深く一礼して駈け出す。
まるで何かに追われるかのような速さで、ノエルが病院の裏口から外へと出ていくのを見送った後、一人残されたヴェロニカは静かにつぶやく。
「メルトーリア……十年前に俺が助けた女の子か。ノエル、お前がスカイシェードを使えるかはわからねぇが昔の俺と同じように、心に一本の剣を持った今のお前なら使えるだろ。そうすれば助けられるはずだ、あらゆる力を振り切ってみろ……ノエル、今度はお前があいつを助ける番だ」
まるで誰かがそこに居るかのように語り終えた彼女は、なれない事をした自分に違和感を感じたのか額に手を当て、いつもの怠そうな雰囲気を見て取れるほど噴出させながら笑う。
「にしてもメルト―リアの奴、俺の顔を忘れてやんのな……ったく、命の恩人の顔を忘れんなっての。まぁ助け出してすぐに、教会に置いてきちまったから仕方ね~のかな」
あと数十分で空は明るくなるだろう。
「さて、もう一人眠りするか」
●●●
ヴェロニカの家から剣を盗み出し、その剣で単身フォート・レイン城へと突入する。門番や見張りの守護騎士団を打ち倒しつつ、城のどこかに捕らわれているであろうメルトを探し、処刑が行われる前に救出。
「冷静に考えてみれば、ほとんど成功確率のない無謀な作戦だな」
もしもあの時、ヴェロニカに見つかっていなければと思うとゾッとする。運よく彼女に見つかったノエルは今、天を突かんばかりに聳え立つフォート・レイン城の城門前へと来ていた。見上げるほど巨大な鋼鉄で出来た門は、何人の侵入も許さないという重厚な雰囲気を醸し出している。
強引な侵入が無理ならば、ヴェロニカの言うスマートな侵入をしようと思い立ってノエルはここにやってきていたのだが、彼が新たに考えたのは暗殺者の如く、見つからないように行動することではなかった。防水性があまりないのか、彼は道中ですっかり雨に濡れてしまったローブのフードを降ろし、二人いる門番の男性のうち一人に声をかける。
「あの、貴族名の件で来るように言われたノエルですけど」
門番は二人が二人とも、ノエルの倍はあるのではないかと言うほどガタイがよく、彼はは少し気押されてオドオドしてしまうが、伝えたいことは無事に言い切る。すると門番は懐から帳簿の様なものを取り出し、何かを確認し始める。おそらくそれは来訪者予定のようなもので、ノエルの名前を探しているのだろう。入城するのにもこれだけ厳重な確認がされるという現状を見て、自分が今からどういう所で何をしようとしているのか、彼は改めて思い知らされるのだった。
「クルーガ団長から貴族名の件で呼ばれているノエル君だな? 随分と早いうちから来たな」
やや訝しげな視線を向けられるが、ノエルは「ドキドキしちゃって眠れなくて……あはは」と苦笑いをして誤魔化す。そんな態度を見て、門番は納得したのかしなかったのか「まぁいい」と鼻を鳴らして続ける、。
「いずれにせよまだ早い。今から応接室まで案内するので、そこでしばらく待つように」
そう言って門番は別の門番に留守を任せ、城内にある応接室へとノエルを連れていく。門番に付き従って、彼は下層に住んでいれば一生見られないような家具や装飾品で覆われた廊下や、通常ではお目に掛れないような踊り場のある階段を通った末、部屋と言っていいのかわからないほど大きい応接室へと案内される。
「声がかかるまでここで待つように」
門番は自分の役目は果たしたとばかりに、ノエルを応接室に一人残して去って行ってしまう。おそらくは門番の仕事に戻ったのだろう。
「ここまでは大方作戦通りか」
ボロイ古さとは対照的な古さのアンティーク家具と、床一面に敷かれた鮮やかな絨毯が彩る室内を見回しながら思う。
――誰もいない部屋に案内されて、そこに一人で残されるっての言うのは予想外の幸運だったな。これでだいぶ行動の選択肢が広がったはずだ。問題があるとすれば……、
「ここは城内のどこに位置してるんだろ?」
応接室に来るまでにいくつもの階段を下りたり上ったりしたため、ノエルは自分が今フォート・レイン城の何階に居るのかすら把握できていなったのだ。もっとも、城内の構造を知らない彼にとっては、仮に何階か分かったとしても大した差はなかったかもしれない。
「ここでこうしてても仕方ない……とりあえず動いてみよう」
応接室の扉に耳を当て、先ほどノエルを案内してくれた門番の気配が完全に消えたと判断したと同時に、彼は部屋の外へと自然な速さで堂々と出る。ここから先の行動、見つからないに越したことはないが、最悪見つかっても何とかなるだろう。なぜならばノエルは招かれた客人という立場であり、万が一の時にはトイレに行こうとして道に迷ったなどの言い訳が通じるからだ。
――武器の事ばっかり考えてたけど、僕には城から招かれた立場という、大きなアドバンテージがあるじゃないか。それに……万が一の時は、
ノエルは胸元で光を飲み込まんばかりに輝いているであろう、漆黒のスカイシェードにローブの上から手を置く。正直なところ、彼にはスカイシェードの使い方など全くわからなかったが、人智を超越した力を身に着けているという事実は、自らの心を落ち着けるには十分すぎるものだった。
彼はそのまま二度深く深呼吸をして歩き出す。どこに向かえばいいのかなどはわからないが、進まなければ状況に変化は訪れないだろう。
「城内の警備は割と手薄なのかな」
部屋を出てからしばらく、階段を上ったり下りたり、そして迷路のような廊下を歩き回ること数分、いまだに誰ともすれ違わない。城内に人が居なければいないほど動きやすいので、ノエルにとってはむしろ歓迎できる状況だ。しかし、こうまで人がいないとよからぬ想像をしてしまう。
「今日という日だからこそ、城内に人がいない……だとしたら」
城内に人がいない事と今日という日に、何らかの関わりがあるとしたら。そう考えれば思い当たる理由は一つしかない。今日行われる特別な事、それは。
「メルトさんの処刑……人が居ないのはメルトさんの処刑の時が近づいていて、処刑場とかの警備を厳重にしてるからか? もしそうだとしたら、少し計画を変える必要があるかもな」
ノエルの作戦では、牢屋かその他の部屋に捕らわれているであろうメルトを見つけ出し、誰にも気が付かれないうちに逃げ出す予定だったのだ。処刑場に移されているとなれば救出方法が若干派手になりかねない。
「いや、そんな事を気にしても仕方ない。助け方が少し変わるだけだ……それより今は急がないと」
ノエルは今まで以上に足の速度を速めて無人の廊下を歩く。だがしかし、気持ちではどんなに焦っても、体でどんなに急いだとしても、ノエルには時間を短縮できない決定的な問題があった。
「クソっ! メルトさんはどこに居るんだ……っ」
この世界の王が住まう都、その中央部にあるフォート・レイン城。見た目からしてわかる通り荘厳にして雄大なその巨城の中を無作為に歩き回り、目的地にたどり着くのは困難を極める。ただでさえ自分の居る場所がわからないノエルには、それこそ砂漠で一粒のダイヤモンドを探すに等しい気分だろう。
――ここからじゃ外が暗いままなのかすらわからない……どうかまだ明るくならないでくれ。
室内に居る故に外が明るいのかどうかすらわからない、そんな状況が余計にノエルの背中を激しく押していた。もちろんそれはいい意味合いではない、焦りを助長するそれはただ単純に彼の思考回路の幅を狭めるだけだった。焦りから来る不安と怒りに駆られて歩を進めて、いったいどれくらいの時間がったころだろうか。一瞬のようにも感じるし、莫大な時間が流れたようにも感じたが、今の彼には前者である事を祈るしかない。
「……いったいどこに居るんだ」
この段階になってようやく、ノエルは自分の考えが甘い事に気づき始めていた。しかし、気が付いたからといってどうすることも出来ない。かといって、動かなければどうにもならない状況であった以上、彼の行動は間違っているわけではないのだ。要するに、今の状況こそが世に言うどん詰まりというだけだ。しかしどん詰まりなノエルの状況にも、幸いと言っていいのかはわからないが、変化が訪れる。それは階段をいくつか上った先、廊下一面が純白の大理石で覆われた廊下の先にあった。
「ここだけ雰囲気が違うな」
ノエルの前にあるのは大きな扉だ。材質はわからないが、白を基調に金と銀……ところどころに色とりどりの宝石が埋め込まれた扉。一目見れば、誰もが目を奪われてしまうような彫刻が施されたそれは、彼の焦りとは無関係に超然と存在している。
処刑間近の人物を捕えておくような場所ではなさそうだが、一応見ておいた方がいいだろうか。と、ノエルが迷う事数秒、いきなり目の前の扉が彼の方へと開かれる。
「っ!」
危うく開かれた扉にぶつかるところだったノエルは、間一髪の所で飛び退く。鼻の僅か数センチ先をかすめるようにして扉を見送ったのち、彼が目にしたのは最悪な光景だった。
「あら、あなた様は?」
人だ、人が居たのだ。ここまで誰とも会わなかったこともあり、露骨に驚いてしまったノエルは、これでは怪しい奴みたいだ。と、すぐに自分の失敗に気が付く。彼は何とか表情などを落ち着けると、改めて目の前の人物……目の前の女性を見る。
服装は白地に金色の刺繍と金細工の入った気品漂うドレスのようなもの、それだけで彼女が相当上の立場の人物であろうという事がわかる。だが、視線をもう少し上にあげた時、彼の脳内は半ば強制的に機能停止へと追い込まれた。
まず第一に飛び込んできたのは地面すれすれまである長い髪、夜闇に浮かぶ雲のように限りなく黒に近いグレーのそれは、ところどころピョンピョンと元気そうに撥ねている。見ているだけで持ち主はきっと元気な娘なのだろうと、想像できてしまうほどだ。
ここまではいい、問題はここからだ。猜疑心全開といった様子でノエルを見つめる彼女の顔は、
「メル、ト?」
彼が今まさに探している人物そのものだった。髪の色と着ている服装、それ以外の外見の全てがメルトに似ている。それこそ髪を染めたのだと言われれば、素直に信じてしまいそうなほどに……だがそれはあり得ない。メルトは今捕らわれており、もうすぐ処刑されることになっているのだ。それがこのように自由に歩き回っているわけがない、だとすればノエルの目の前に居る彼女はいったい何者だろう。
「君は……誰?」
ノエルは自分の立場を忘れて、ついつい素直に聞いてしまう。すると彼女は何かに合点がいったというかのように、一度だけ頷いてゆっくりと彼の方へと歩いてくる。
「え、ちょ……っ」
そのまま彼女は両手でノエルの右手をゆっくりと包み込み、心の中に残るメルトと同じ笑みを浮かべる。人の上に立つことが許されたものだけが放つ圧倒的な存在感、それでいて決して嫌味にならず、むしろ心地いい安心感すら内包する優しく堂々とした笑み。
この場所だからこそ、彼女がこの服装だからこそ、ノエルは何となくだが彼女の正体を察することが出来た。しかし、彼の考えが具体的な形を持つ前に、彼女が話かけてきたため、その考えは霧散してしまう。
「メルト……あなた様はメルトーリアのお友達なんでしょう?」
「えっと、僕は」
「あなた様はメルトーリアの何なのでしょう? 一体何をしにここに居たのでしょう?」
言って彼女はノエルの目を真っ直ぐに見る。全てを見透かされているようなその瞳はいったい何を見ているのだろうか、ノエルはここで本当の事を言った方がいいような不思議な気分に陥る。だがメルトを処刑から救い出す……そんな事を正直に話せば、どうなるか分かったものではない。
――そうだ、敵か味方かで言えば、ここに居る以上この人は敵のはずだ。だけどなんでだ?
今なお向けられる黄金の瞳、今ここで本当の事を言わなければ、ノエルはいずれ必ず後悔することになる様な気がした。ならば、自分の直観に従って行動してみるのもいいかもしれない。そう考えた彼は黄金の瞳を見返して、彼女の質問に答える。
「僕は、僕はメルトさんを助けに来ました」
「そうですか、それはなぜなのでしょう?」
「僕のせいで彼女がこんな目にあっているから……いや、違う」
最初はそういう動機だけだったかもしれない。でも今は違う、ノエルにはどうしてもメルトに伝えたいことがあるのだ。
「僕はもう一度だけ、あと一度だけでもメルトに会わなきゃならないんだ」
漠然としたノエルの答え、彼自身あやふやな答えになってしまったと思っていたが、どうやら目の前の少女は違ったらしい。彼女は「そうですか」と満足気に頷き、ノエルの手を握る両手にやや力を入れる。
「久しぶりに扉の外に出て、初めて会った人があなた様でよかったです。あなた様ならきっとメルトーリアを助けられますよ、大丈夫です……わたくしがあなたを祝福しましょう。さぁ、早くメルトーリアの元へ行ってください」
彼女はノエルの手をそっと放すと、ノエルが先ほど歩いてきた純白の廊下の先を真っ直ぐに指をさす。
「あなた様が探している場所はこの先にあります。さぁ、わたくしの事は気にせず行ってください」
あまりに話がとんとん拍子に進むため、ノエルは彼女の言葉をこのまま信じていいのか自信を持てずにいると、彼のそんな考えを読んだかのように「それではわたくしからお願いがあります」と言って言葉を続ける。
「メルトーリアの居場所を教えたのですから、あなた様のお名前を教えてもらえないでしょうか?」
「僕の……名前ですか?」
「ええ、ダメでしょうか?」
「そういうわけじゃないですけけど、えっとノエルです……あなたの名前は?」
名前を言うだけの行為がこれほど照れるものとは、ノエルは今の今まで全く気が付かなかった。しかも勢いで彼女の名前を聞いてしまったことが、彼の照れに拍車をかける。だが一方の彼女はと言うと、緊張や照れとは無縁の場所に住んでいるかのように笑みを崩さない。
「わたくしですか? そうですね、わたくしはアルト……あなたのお友達のメルト、そのお友達と言った所でしょうか。さぁ、もう時間がないのでしょう? この先に行けばあるバルコニー、そこから見下ろした中庭に処刑場があります」
アルトはノエルの肩を持って百八十度方向転換させると、まるで後押しするかのように優しく背中を押す。その柔かで暖かい力に押さられるままにノエルは前へと駈け出す。だが、少し進んだ所で後ろ一度だけ振り返る。
「アルトさん、ありがとうございました!」
そして彼は走り出す。今度はもう振り返らない、目的の場所だけを目指して突き進む。彼の視線には最早メルト以外映ってはいなかった。
「……行きましたか。ノエル様になら任せても大丈夫そうですね」
誰も居なくなった廊下で彼女、フォート・レイン城の主にしてこの世界の王、アルトーリア・フォートレインは呟く。
「メルトーリアを、妹を頼みましたよ」
●●●
長く続く廊下をひたすらに駆ける、まだ外の景色は見えないが刻限が差し迫っている事だけは感じることはできた。今なら全てをやり直し、カンナと二人この街で暮していくこともできるかもしれない。しかし、ノエルの心の中には一片の迷いもなかった。あるのは少しでも早く、少しでも遠くに足を進めることだけだ。彼が目指す場所は引き返した先にあるものではない、この廊下を進んだ先にこそあるのだ。
「……見えたっ」
胸が張り裂けそうなペースで走り、全ての雑念を振り切った先、目指す場所は……目指す人は、ようやく彼の前へと現れた。今彼が居るバルコニーから遥か下、フォート・レイン城の一角にある吹き抜けになった大きな中庭、それこそ目を細めなければ誰だか認識出来ないような距離の中、彼女の存在はハッキリと感じることが出来た。地面から生えた一本の棒に後ろでに拘束されてはいるが、彼女の…メルトの輝きは衰える所を知らない。
――あとはメルトを助けるだけだ。そうなると問題は……、
見下ろした先では何人もの守護騎士団が、メルトに銃口を向けている。左右に羽の如く広がった隊列の中央では、おそらくクルーガと思われる男が片手を挙げて今まさに何かの合図をしようとしている。おそらくあの手が振り下ろされた瞬間、メルトは何発もの銃弾の雨にさらされる事になるだろう。
――ここから下に行くには、横の階段を降りるしかない……でもそれで間に合うのか?
こうしている間にも、クルーガの手がいつ振り下ろされてもおかしくはない。ノエルが下まで着くまでクルーガは待っていてくれるかどうか、ここまで来てそんな賭けにでるわけにはいかなかった。この状況で信用できない他人に賭けるくらいならば、
「自分に賭けた方がましだ!」
そうしてノエルは飛び出した。バルコニーの縁に立ち、少しでも体が前へと進むように足を蹴りだした。次に彼を襲ったのは浮遊感と、それに伴う急激な落下。このまま行けばノエルは誰も助けることが出来ないままに、地面に真っ赤な花を咲かせることになるだろう。
「……声なら聴いた」
――このスカイシェードを受け取った時、確かに聞いた声。あの時聞いた声が何だったのか、今でもハッキリとはわからない。でも、だからこそ僕は賭ける。
凄まじい速度で流れていく景色、それと比例して近づく地面。ノエルは怪しい光を放つスカイシェードを片手で取り出し、胸元で握りしめる。今から行う事が成功する保証はない。だが、ノエルには不思議と失敗する光景が浮かんでこなかった。浮かぶのは絶対に成功する自分、ただそれだけだ。
「僕はメルトを助ける……だから頼む、力を貸してくれ」
「全てを振り切る力 コーラム・バイン」
手の中で熱く脈打つ鼓動を感じる。途端、急激に落下していたはずの速度が弱まり始める。結果としてノエルは舞い降りるかのように静かに、それこそ鳥のように静かに地面に……メルトの前へと降り立つ。
――賭けは僕の勝だ。ヴェロニカさんの家で聞いた声は僕の勘違いなんかじゃなかった。
ノエルは手の平に乗った結晶を見る。どこまでも黒く輝くそれは、物体と物体が反発しあう力、斥力を自在に操作する事が可能なスカイシェードだ。自分に最後の道を示してくれたこの石と、これを渡してくれた人物に感謝の念を感じる暇もなく、「ノエル!?」と騒がしい声が響く。
「何をしに来たのだ!? それにさっきのはいった……っ」
「間違いをやり直しに来たんだ」
もう何年も聞いていないような気がするメルトの声。しかし、ノエルはそんな彼女の声を遮って言葉を続ける。
「僕は君を一方的に裏切った。そのせいで君は捕まって、処刑される事になって……悪いのは全部僕だ。それでいてこんな事言える立場じゃないのはわかってるし、君が僕を許してくれるはずがないのもわかってる……でも、僕は君が死ぬのは嫌なんだ! 自分勝手だって笑われてもいい、どんなに嫌ってくれても構わない! それでも僕はメルトを助けたいんだ……いいや、僕は」
ノエルは、メルトの事を拘束している鎖に意識を集中させ、手に入れたばかりの力を行使する。すると先ほどまでは捕えたものを絶対に逃がしはしないと、まるで意思を持つかのように微塵の隙もなく彼女の手を捕えていた鎖が、鉄の様な意思と共にはじけ飛ぶ。
「僕は君を絶対に助ける」
メルトは驚いたように目を見開き一度だけノエルを見ると、溜息をつきながら「全く……」と、呆れたように呟きながら片手を両目の上あたりに添える。
「本当に自分勝手な奴だな、ノエルは。守護騎士団から聞いたぞ、様々な好条件と引き換えにわたしを売ったとな、そうまでしたのにわたしを助けるのか? 全てが白紙に戻るどころか、お前もテロリストの仲間入りになるのだぞ?」
今まで鎖によって繋ぎ止められていた手首を解すように軽くもみながら、メルトは「お前は本当にわかっているのか?」と、しでかした事の重大さにノエルの意識を向けさせる。だが、いくらそんな事に念を押されようと彼は全く後悔なんかしていない。
「多分……わかってる。僕はわかっていて来たんだ、ここに来れば今までの様々な事を失ってしまうかもしれないって」
「なるほど、そこまでわかっているのなら勢いで来たわけではないのだな?」
「勢いで来たかどうか聞かれたのなら、自信をもって否定する事は出来ない。でも僕は自分がしたいようにしたつもりだ。今こうしなかったら、僕は後悔に塗れて人生をすごすことになる……そんな気がしたんだ」
「ノエル、お前は」
「これから先どうなるのか、正直僕は何もわかっていないのかもしれない。でも僕はメルトを助けたい、それだけは自信を持って言える。だから今だけは信じて欲しい」
ノエルは自分の身可愛さに、一度は裏切ってしまった彼女に手を差し出す。
「本心からは信じてもらえないかもしれない、でも今だけは信じて一緒に来てほしい。僕は君を助ける……今度こそ僕は裏切ったりなんかしない」
本来ならこんな事を言う必要はないのかもしれない。例え一瞬たりとも信じてもらえなくても、メルトを助け出す成否には全く関係はない。だからこの言葉は彼の本心から無意識に出た言葉なのかもしれない。口ではどう言ったしても、もう一度だけ彼女に信じてもらいたい、また彼女と笑いあえる関係になりたい。そんな無意識の思いから出た言葉なのかもしれない。だがしかし、
「…………」
メルトは差し出された手を無感情に見下ろすだけで、決して握ろうとしない。
――仕方ない、よね。
そう、ノエルが彼女に対して行った事を鑑みれば、手が握り返されるはずはないのだ。
――それでもいいさ、どちらにしろ僕はメルトを助けることに全力を……、
「うむ、残念だがお前の願いを聞くわけにはいかんな」
「……僕は別にそれでも」
「今この一瞬だけお前を信じる事は無理だ。わかるか、ノエル?」
言って彼女はノエルの手を強く握りしめる。
「過程にどのような事があろうとも、ノエルはわたしを助けに来てくれたのだ。どの様な犠牲があるのかもわからないのに来てくれた……そんなお前を一瞬だけしか信じない? うむ、そんな事はあり得ん。わたしはお前を信じる、今だけではない……これから先、お前が再びわたしの元を離れたとしても、わたしはお前を信じ続けるぞ」
彼女の言葉を聞いた途端、ノエルの胸にはどうしようもないほど暖かい何かが溢れてくる。そして胸の内でとどめきれなくなったそれは、次第に彼の瞳からあふれ出した、
「メルト、僕は……」
「何を泣いておるのだ? うむ、少し見ないうちに大分変ったかと思えば、内面は何も変っていないのだ。だがそれでよい、わたしは今のままのノエルが大好きだ」
――僕は許されたのか? あんなに酷い事をしたのに僕は……。
「ノエル、どうやら感傷に浸る暇ないようだぞ」
ノエルは彼女の言葉に反応し、その視線の先を追うように振り返る。するとそこには、鞘から剣を抜き放ち、数多いる守護騎士団の先頭に立ってこちらを睨むクルーガの姿があった。
「ノエル君、これはどういうつもりかな?」
クルーガの目はかつて見た時とは違い、明らかな敵意……そして、まるでゴミでも見るかのような失意に満ち溢れていた。
「どうもこうもありません、見ての通りです。僕は間違った選択を正しただけです」
「間違った選択、それはそこのテロリストを裏切った時の事かな? だとしたら君はおろかだ、その時にした選択こそが唯一正しいものだ。そして、今ノエル君のしている選択こそが間違っている。その選択は君を破滅に導く……そうなってもいいのかい? 今ならまだやり直せる、こちらに来るんだ……さぁ」
伸ばされる左手、その手を握ればおそらく今までのノエルの行いには、本当に目を瞑ってくれるだろう。
――だけど、僕はもう決めたんだ。
「僕はもう二度と騙されない」
「騙す? 私は君を騙してなんか……」
「違います。変化を望みながら、変化を恐れる自分の心に……楽な方へと逃げ続ける自分自身の心に、僕はもう絶対に騙されたりしない。僕は僕の本心に従って行動する! だから僕はメルトを助けるんだ……それを邪魔するなら、あなたは僕の敵です」
クルーガ左手を静かに差し出したまま、まるで思考回路が異なる別の生き物でも見るかのようにノエルを見る。
「うむ! よく言ったぞ、ノエル! 聞いているだけで胸がスカッとしたのだ」
「……っ」
痛快と言った様子でノエルの背中を叩いてはしゃぐ彼女とは対照的に、クルーガは苦汁を飲んだかのように顔を歪める。歪んだその顔には敵意だけではなく、プライドを傷つけらた者だけが浮かべる憤怒の形相へと変じている。今まで男女問わず独特の色香と弁舌によって取り込んできたクルーガにとって、自分の思い通りにならないものほど疎ましいものはないのだろう。ノエルにはそんなクルーガの悪鬼の様な表情こそが、彼の本質のように思えた。
――きっとこの人は他人の事を、自分が思い描いたシナリオを動かすための道具程度にしか思っていない。だから僕にメルトの事で嘘を吐いた時も、平気な顔をしていられたんだ。
故に道具が思い通りに動かない時に激しい怒りを抱く。
――そんな人の事を一時は信じたかと思うと、自分が本当に情けないな。それにメルトに対しても申し訳ない……でもおかしいな。そうなると何でカンナはこんな奴の下に居るんだ? カンナの性格したら、真っ先に何らかのアクションを起こしそうだけど。
「ノエル君」と、部下の前のためか平静を装ったクルーガの声にノエルは意識を引きもどされる。
「そう言う事ならすまないが、私は君をテロリストの一員と見なすよりほかない……構えろ」
クルーガの合図と共に、一時的にさげられていた銃口の全てがこちらを向く。そしてそれらの銃口が狙いをつける先は先ほどまでとは明らかに違い、メルトだけではなくノエルも含まれている。
ノエルはこういう状況に陥ることに後悔はないが、メルトのためにもこのまま黙って撃ち抜かれるわけにはいない。
――でもどうする? 僕はまだコーラム・バインを扱いきれてるわけじゃない、飛んでくる銃弾全てに斥力を発生させて弾き返す……元の持ち主のヴェロニカさんなら出来るかもしれないけど、今の僕には不可能だ。
そもそもノエルはスカイシェードの力の引き出し方を完璧に熟知しているとも言い難かった。わかっているとすれば極あやふやな感覚。斥力を発生させられるとすれば、せいぜい四個ほどの物体に対してが限界だろう。そして今目の前にある銃口は目測で二十を超えている、単純計算でノエルが五人以上いなくては不可能だ。
「何を悩んでいるのだ、ノエル?」
「何ってそんなの!」
決まっているだろう。と、つい怒鳴り返しそういなるが、無言の余裕を醸し出しながら一歩前に出るメルトを見て、それ以上言葉が出せなくなる。
「うむ、ノエルはわたしの存在を忘れていないか? わたしのスカイシェードの前では小さな鉛玉など一瞬で蒸発させてくれる!」
彼女はさらに一歩前に踏み出し、余裕と自信……そして、覇王の如き強者の威圧を放ちながら告げる。
「スナップ・ドラゴン!」
次の瞬間、守護騎士団と二人の間を分け隔てるかのように、黄金の炎で出来た壁が……、
「うむ?」
現れなかった。
残されたのは茫然と事態を見守るノエル、そして「どういう事だ?」と不思議そうに首を傾げるメルトの姿だけだった。
「私が……守護騎士団がテロリストに凶悪な武器にもなり得るスカイシェードを持たせたままにしてあると思ったのかな? もしそうだとしたら、相当愉快な頭をしているようだね。さすがはテロリストと言ったところか」
片手を挙げて斉射の合図を出そうとしていたクルーガは、憐れみと侮蔑を込めて笑う。
「最初から君たちに勝ち目はない、大人しく投降したまえ……もっとも、投降したとしても君たちが辿る末路は同じだがね」
「……お前っ」
先ほどの表情はどこに行ったのか、メルトは悔しげに顔を歪めてノエルの隣まで下がる。今の状況こそが本当の窮地というのだろう。前進も後退もできない、そして程よい妥協策といったものもない。もっとも今の二人にはクルーガの言う通りに投降する気は絶対的にないのだが、そんな確固たる意思を持っていたとしても、今がどうにもならない状況なのに変わりはない。
「どうするのだ、ノエル!」
「それは僕も考え中だよ!」
「うむ? お前、まさか何の策もなしにここまでやってきたというのか!?」
「さ、作戦ならあったさ! ただ色々あってまぁ、もともとあった作戦じゃ対応しきれなくなっただけだよ!」
「…………」
メルトはノエルの言葉に、口を半開きにしながらボーっと半眼で彼を見ている。彼女にそんな目で見られる心当たりは大いにあったのが、ノエルは言い返さずにはいられない。なにせ好きでこんな状態に陥ったわけではないのだから。
「何で呆れた様な目で見るんだよ!」
「呆れているからに決まっているだろう!」
「うぐっ」
そうハッキリ言われてしまえば、先ほどの通りノエルには言い返せないところが多々あった。それはおそらく彼自身、自分の考えが甘かったと後悔しているところがあるせいだろう。
――あぁもう! こんな事なら僕が飛び降りるんじゃなくて、メルトさんをスカイシェードの力でバルコニーまで上げれば……ん? 待てよ、何かがひっかるな。
自分の思考の中、ノエルにはどこか引っかかる点があった。この状況からどうやって脱出するかという濁流の様な思考の波。その中でそれは確かに手を伸ばして生きあがいている。
「っ!」
――そうか、これなら二人で脱出できる……でも問題は。
思いついた新たな策、彼のスカイシェードを用いてのみ出来るその策はおそらく、この場において唯一完璧な脱出が出来る作戦となるはずだ。だがかつての様々な歴史を振り返ってもわかる通り、完璧なものにも欠点はある。この場における彼の策の欠点とは時間だ。おそらく一度実行されれば完璧な脱出手段となるが、スカイシェードを使い始めたばかりの彼にとって、その策を実行するにあたり必要なイメージを、頭の中で構築するのに時間がかかるのだ。
「さて、お別れの話は済んだかね?」
そしてその時間を、相手が待っていてくれるとは限らない。
「ノエル君、私は君に本当に期待していたんだ。それがこんな事になって本当に残念だよ」
「そうですか? 僕はそれほどでもないですけど」
「……まぁいい、私の見込み違いという事もある。それでは、安らかに眠りたまえ」
明らかな嫌悪の表情と共に振り下ろされるクルーガの手、それ即ち銃の引き金がひかれる事と全くの同義だった。
――クソっ……間に合わない!
壁になるかはわかないが、せめて隣に居るメルトだけは守ろう。そう思ってノエルは無数の銃口に背中を向け、彼女を抱きしめるようにして庇う。
「ノエル、何をしているのだ!?」
聞こえてくるのは放たれる銃弾の音、ノエルとメルトに死をもたらす死神の吐息。抗う事の出来ない死神の鎌は、確かに二人に向かって振り下ろされたのだ。
…………。
……………………。
………………………………。
「?」
彼女を強く抱きしめ、襲いくるであろう衝撃に覚悟を決めていたにも関わらず、そんな衝撃はいつまでたっても襲ってこなかった。さすがにおかしいと思ったノエルは、決して彼女を離さないように気を付けながら、ゆっくりと後ろを振り返る。
するとそこにあったのは、
「氷の、壁?」
そこにあったのは巨大な氷の壁、向こう側を見透かすのが困難なほどの厚さと、最早禍々しいと言っていいほどの大きさを誇る氷の壁が、見ている者を魅了するような美しい白銀の冷気を漂わせて、ノエル達と守護騎士団の間に聳え立っていた。
「怯むな、撃て!」
クルーガの焦りを含んだ声と共に放たれる銃弾、しかしそれは最初の斉射同様、二人に届くことは決してなかった。両者の間を分つ氷の壁が、銃弾の侵入を悉く阻んでいるのだ。
「ノエル、何をしようとしてるのかは知らんが、やるなら今しかないぞ!」
「っ……わかってる!」
突然の事態にしばし呆然としていた彼だったが、守るべき存在の声にノエルは意識を集中させ、先ほどまで脳内でひたすら練り上げたイメージを、スカイシェードの力持って具現化させる。
――成功するかどうかは……いや、成功させる。その事を信じて疑うな! だから僕に力を貸してくれ、コーラム・バイン!
ノエルの切なる願いが届いたのかはわからない。だが、彼のスカイシェードは夕闇よりもなお深い漆黒の輝き放ちながら、現在の主の命に答えるべくその力を解き放つ。
「これは……浮かんでいるのか?」
耳に入ってきたのは発生した事象に驚くメルトの声。
彼が創造し、彼のスカイシェードが具現化したイメージ。それは自分と大地の間に斥力を発生させるというものだった。ノエルと大地の間に物体が反発しあう力が発生した結果として、彼らの体は大地のあらゆるものを振り切り、大空へと緩やかに飛翔し始める。
「逃がすな!」
守護騎士団からの砲撃はなおも続くが、放たれる弾丸の末路は変わることはない。
――何が完璧だ……結局僕の策は最後まで詰めが甘かった。きっとあのままスカイシェードを使っていたら、宙に浮いた瞬間狙い撃ちにされていたかもしれない。最後の最後で助けられちゃったな。
――いや、いつも助けられてばっかりか。
そうして二人の体が、ノエルが最初に飛び降りたバルコニーの辺りにまで差し掛かったころ、氷の壁を出現させた張本人の姿がようやく見えてくる。
「やっぱり、カンナだったんだね?」
白銀の髪に白銀の鎧、そして全てを焼き尽くす様な真紅の瞳を持った少女。ノエルの大切な幼馴染であり半身と言っても過言ではない存在、守護騎士団 副団長カンナ・オールラウンドは右手に握った白銀よりもなお透明に輝く愛剣、レオンをメルトに突きつけて言う。
「あんたなんか居なくなればいいのに……」
「カンナ? いくらなんでもいきなりそんっ」
「ノエルは黙っててよ! あたしはこいつと話してるんだから!」
彼女の威勢に押され、ノエルは思わず黙り込む。しかしそれとは逆に、メルトは話してみろと言わんばかりに、堂々とカンナの顔を見下ろす。
「あんたを殺そうと思った。ノエルを取られるくらいなら、あんたを殺して……ノエルがあたしだけしか見れないようにしてやろうと思った」
「うむ、ならば何故そうしなかったのだ? 今のわたしを殺すくらい、お前なら簡単に出来たであろう」
メルトの言う通り、丸腰の彼女相手ならば、カンナが本気で殺しにかかれば赤子の手をひねるより簡単に殺せただろう。ならば何故、彼女はそれを実行しなかったのか。
「気がついちゃったのよ、ノエルが見てるのはあんただって……本当にバカみたい。あんたを殺そうとすれば、ノエルはあんたを助けに行く。もしあんたを殺してきっと、きっとノエルはあたしを見てくれない」
「だからどうしたというのだ? それが何故、わたしを助ける行動につながる」
「別にあんたを助けたわけじゃないわよ、ノエルがそういう態度しかとらないなら、こっちにだって考えがあるだけ」
と、カンナは凍てついた視線を中庭で足掻く守護騎士団に向ける。
「うむ、守護騎士団を裏切ることがお前の考えとやらなのか? わからんな、てっきりお前は守護騎士団に……王に忠誠を誓っている者と思っていたのだが」
メルトの言がよほど面白かったのか、カンナは噴き出すようにして笑った後、左手で目をこすりながら言う。
「バカなこと言わないでよね、わたしがあんな奴らに忠誠を誓う? 冗談じゃないわ、あたしが忠誠を誓うとしたら、それは今も昔も……そしてこれからも一人だけよ。ずっとそうだった、ノエルのために下層の治安をよくしようと思って守護騎士団に入って、使いやすそうな奴の下で働いて、ノエルに害をなしそうな奴は全員排除したわ……なのに」
彼女は下唇を血がにじむ程の強さでかみしめると、そのまま剣を突き刺すのではないかと疑ってしまうほど憎しみの籠った声色で言う。
「なのに何でノエルの隣に居るのがあんたなのよ!」
「……カンナ、僕は別に」
「うるさい! あたしは、あたしは……それでもノエルが幸せなら、こいつと居るのがノエルの幸せならそれでもいいと思って、ノエルに協力するつもりで、こいつを助けるを手伝ったのに……やっぱり駄目だよ」
愛する者を幸せにすることだけを考え、ひたすらに戦い続けた少女。しかし、その愛する者が願うのは少女が排除し続けてきた者と歩む未来だった。おそらく少女は決めたのだろう、例え愛する者が自分とは離れたところに行ってしまったとしても、愛する者が……ノエルが幸せならばそれでもう構わない。仮に自分がどうなろうとも、ノエルの幸せだけは守る。そう決めたのだろう。
しかし、それでも少女は心のどこかで、愛する者と共に歩む未来を諦めきれなかったのだろう。ただただ自分の思いと戦い続けた彼女が言った言葉は、どうしようもなく涙に濡れていた。
「もうどうすればいいか、わからないよ……ノエル、あたしは」
「来い!」
「え?」
剣を力なく降ろして年相応の少女の様に涙を流し、初めてと言っていいほど人前で弱さをさらけ出したカンナの前に差し出されたのは、彼女にとってたった一人の幼馴染、ノエルのものだった。
「だったら僕と一緒に来るんだ! 僕には君が必要だ……僕は君が傍に居ないと駄目なんだ!」
決して自慢できる事でもなければ、声高らかに叫ぶようなことでもないのかもしれない。それでもノエルはただ叫び続ける。
「たった今だってカンナが居なかったら僕は駄目だった……いや、僕はずっとカンナに頼りっぱなしだった。小さい時から今まで、カンナはいつでも僕の前に立って僕を守ってくれた」
だが今からは違う。幼馴染の後に従い、彼女が居なければ何もできなかった少年はもう存在しないのだ。
「だからもし、今カンナがどうしていいかわからないなら……どこに進めばいいのかわからないなら、僕について来て欲しい。これから先、君がどうすればいいか分かるまで、それまで僕と一緒に居て欲しんだ」
「ノエル……あたしは」
カンナの雰囲気から、断られそうな気配を察したノエルは、取り繕った言葉ではなく本心をさらけ出す事を決意する。いくら聞こえがいい言葉を並べたてたところで、真なる心が宿ってなければ何の価値もない。
――僕が彼女に来てほしい理由、傍に居てほしい理由。そんなのは後にも先にも一つしかない。
「僕はカンナが傍に居なきゃ嫌なんだ」
「……え、なっ」
それまで葬式の様に暗い顔をしていたカンナは、ノエルの言葉に意表を突かれたのか、ハッとした様に顔色を変えて彼を見る。もちろん彼女の十八番である赤面癖も忘れてはいない。
「自分勝手なのはわかってる! でも、カンナも居ないと僕は嫌なんだ!」
ノエル自身、言っていて思わず笑いが込み上げてしまうような安っぽい言葉だった。しかし、安っぽく……そして単純であるがために、その言葉は彼の本心から出たものと言えるだろう。装飾のための余計な言葉を伴わない、まさに裸の心をぶつけるかの如き言葉……それが先ほど彼女に投げかけた言葉だ。
「あ、あたしは……っ」
手を伸ばしては引っ込め、まるで何かに苦悩しているかのようなカンナ。ノエルの言葉を聞き、本心は決定的に傾いているのは明らかだったが、心の中の何かが彼の手を握るのを引き留めているようにも見える。おそらくそれはカンナの心の中に存在する、メルトに対する罪悪感の様なものなのだろう。
ノエルのためとはいえ、カンナの個人的な感情でメルトが捕まるように手配し、牢獄で暴行を加え、終いには処刑されることに喜んですらいた。そんな自分に対し、彼女は彼女自身でも気が付かないうちに罪悪感を感じていたのだろう……否、一緒に行くか否かと言う現状において、ようやく彼女の中に罪悪感が芽生えたのかもしれない。
「カンナ、早く手を掴んで!」
正確な理由は彼女以外の誰にもわかりはしない。だがいずれにしろ、彼女が何かのせいで躊躇っているのは火を見るより明らかだ。そしてそんな二人のやり取りを見かねたのか、さらに手を差し延ばす人物が一人。
「ハッキリせん奴だな……お前は、いいから来ればよいのだ」
その手の持ち主は、あろうことかメルトのものであった。これにはさすがのカンナも今までと百八十度表情を変えて、手を差し出す人物の常識を疑う。
「あんた、正気なの?」
「うむ、正気を疑われたことは何度かあるが、自分で自分の正気を疑ったことはないぞ」
「直接的ではないにしろ、あたしはあんたを殺そうとしたのよ?」
そんなカンナの言葉に、メルトは口の端を歪めて傲岸不遜に笑う。
「そんな細事、どうでもよい。まさかそんな事を気にしているのではなかろうな?」
「……っ、随分偉そうに言ってくれるじゃない」
「うむ、言いたくもなるわ。牢獄の中でわたしに言っていた言葉は嘘だったのか? あの時わたしが感じた、お前のノエルに対する異常と言ってもいい執着は嘘だったのか?」
メルトは再び力を込めて手を伸ばす、まるで彼女の心へ届けと言わんばかりに。
「あれがお前の本心ならば、進むべき道ならばともに来い! お前の願いは、お前の祈りは、お前の目的はこのような事で潰えるものだったのか……答えろ、カンナ!」
「……あんたに言われなくても」
今まで震えていた声に調子が戻る。カンナは散々言われた仕返しをするかのように、メルトを冷気すら感じる眼光で睨む。
「あたしの答えなんて、とっくの昔に決まってんのよ!」
迷いなく伸ばさたカンナの手を、ノエルとメルトの二人がしっかりと掴む。
そんな三人の行動はノエルが以前思い描いていた幸せが叶ったかのような光景だったが、時は彼に余韻に浸る時間を与えてはくれなかった。
「ノエル、長話をし過ぎた! いい加減奴らもここまで来るぞ!」
「わかってるよ!」
「わかってるなら急ぐのだ!」
「それもわかってるから、とにかく焦らせないでよ! まだスカイシェードの扱いに慣れてないんだから……っと、カンナもしっかり掴って」
「つ、掴るってど、どどど、どこによ!?」
そう言いながらもカンナが何故か赤面しつつ、抱きしめるようにして彼に掴る。二人がしっかりと掴ったのを確認した後、ノエルはもう一度、自分のスカイシェードに語り掛ける。
――今度は全開だ。僕たちを遠くへ、ここから見えなくなるほどはるか遠くへ僕たちを逃がしてくれ……お願いだ、コーラム・バイン。
心得たというかのように、胸元で強く脈打つスカイシェードの鼓動を感じ、ノエルは二人へ声をかける。
「メルト、それにカンナ! 振り落とされないで!」
「うむ!」
「え、どういう事よ!? ちゃんと説明しなさいよね!」
次の瞬間、ノエルのスカイシェードから、世界を覆うのではないかと思うほどの闇色の閃光を迸らせ、三人の体を先ほどとは別次元の速度で上昇させ始める。
「ちょっとノエル! これ大丈夫なんでしょうね!?」
「うむ……その質問は、わたしも気になるところだな」
上昇する速度のせいか、目を開けているのも困難なほどの強さで襲いくる風、降り注ぐ雨は肌に当たると僅かな痛みすら覚える。今まで感じたことのない様々なものに襲われた二人が、ノエルに対してそんな質問をしてくるのは何ら不思議なことではないだろう。しかし、
「ぼ、僕だってわからないよ、そんなの!」
ノエルは恐怖すら覚える速度で遠ざかるフォート・レイン城に……大地との距離を薄眼を開けながら言う。
「……でも、きっと大丈夫だと思う」
――確かに恐怖は感じるけど不安は感じない……むしろ妙な安心すら感じる。きっとこのスカイシェード、コーラム・バインは僕の願いを叶えてくる。今は石の力をコントロール出来てなくて、こんな予想外な高度まで上昇してきちゃってるけど、結果的には僕の願いを叶えてくれてはいる。だからきっと、みんなに害をなすように事態にはならないはずだ。
ノエルにはそんな確信めいた感覚があった。そしてこのスカイシェードに対して感じる安心感はそのまま、この石を渡してくれた人物への信頼感なのかもしれない。
「うむ!? ノエル、雲に入るぞ!」
郷愁にもにた思いに浸りかけていたノエルを、メルトの声が現実に引き戻すや否や、彼の視界は真っ白に染まる。スカイシェードのよって上昇を続けた三人の高度はついに天上の雲に至ったのだ。
「ねぇ、なんか速度が落ちてる気がしない?」
最初にその変化に気が付いたのはカンナだった。
「確かに……」
――確かに体感的に上昇する速度が落ちてるように感じる。でもどうして……スカイシェードの力を使いすぎて、知らないうちに僕の集中力が切れそうになってるのか? だとしたらマズい、こんな所で力を失ったら全員ここから地上まで真っ逆さまに落ちるしかない。
「それはない。安心するのだ、ノエル」
例の如く、メルトは心を読み取ったかのように言う。
「スカイシェードを使うに当たって、消耗するようなものは何一つない。にもかかわらず力を失うような事があるとすればお前が、お前のスカイシェードの主人に相応しくないと判断され、石に見捨てられた時だけだ。よって、今は心配する事など何一つない……うむ、見るのだ」
薄れてきた白の向こう、真っ直ぐに指を差すメルトの姿が見える。
「雲を抜けるぞ」
そしてその時は訪れた。
しばらくの意識の空白、声を出すものは誰もいない。けれども、ノエルにはこの場に居る三人が思ってることが、みな同じだと確信することが出来た。
下にあるのは一面が純白で彩られた無垢の大地、上を見れば見たこともない色合いで染められた本物の空。大よそこの世界に存在する言葉で表すことのできない空の色、青く、ただひたすらに青いけれども、その様な矮小な言葉の枠には収まらない青さ。この色合いを表現できるとすれば、それはきっとこの世界を作ったとされる神だけだろう。
そんな神秘性を感じる空を縦断するように一筋走る黒い線、まるで深い谷の様に割れ、一見すると周りになじまないように見えるその黒。しかし、周囲の空が虹色の幕、そして虹色の飛沫を伴って黒い谷に流れ込んでいく幻想的な様子はその実、今目に入っているどんなものよりも美しく見えた。
雲の向こう側の景色、長年思ってきたものを見ることが出来たノエルの胸の内に、今までどんよりと心に纏わりついていた何かを吹き飛ばすような、健やかな風が吹き抜けるとのを確かに感じた。
メルトと出会ったからこそ、あの時決断したからこそ見えた景色……それはまだ終わりではない。
真っ白い大地、真っ青な空、それら全てに黄金色の光を浴びせながら姿を見せる半球型の物体。空を走る黒い線に沿って現れたそれは、次第に光を強めながら上昇を始め、最終的に円形へと形を変える。直視することが困難……否、不可能なほどの光の奔流、しかしその光は決して刺々しいものではなく、親しいものと一緒に居る時のような優しい、包み込むような温もりを感じさせてくれる。
「暖かい……」
「それに、綺麗」
あらゆる感情を超えた何かをもたらしてくれる超常の景色を前に、ついにノエルとカンナの口から自然と言葉がこぼれ出る。
「うむ、あれが……あれこそが」
黄金の瞳と黄金の髪、常に辺りを照らしてきた少女すら霞む永久の輝き。
「太陽なのだな」
想像を絶するほど美しい空すらも引き立て役と言わんばかりに、原初の光を伴った金色の太陽、それはついにメルトの前へと姿を現した。