第五章
「どこに行っちゃったんだろう」
あたりが夜の帳に包まれる頃まで探したが、メルトを見つけることは出来なかった。
「ひょっとしたら、僕の家に戻ってるかもしれないな……」
口でそんな事を言っても、ノエルの本心はそれを否定してくる。彼も本当はわかっているのだ、メルトは彼の前から消えた。それはつまり、彼女とはもう二度と会えない事を意味しているのだという事を。そして、メルトが居ない現状こそが普通なのだという事も、ノエルにはわかっていた。きっと彼にとっての彼女は儚い幻想の様な存在だったのだろう。言い換えるならば、一時の夢から覚めただけだ。夢が覚めれば現実が待っている……それが今だ。
人々を害してまで自分の願いを叶えようとするメルトは確実に間違っている。しかし、ノエルにはわからなかった。あの時、彼女にぶつけた言葉は正しかったのかどうかが。
そんな事を考えながら、人の心を不安で蝕むような夜道を歩いていると、彼はいつの間にか自分の家の前までやってきた。古くて、汚くて、今にも壊れそうな家だが、彼にとっては馴染み深いものだった。だが、今現在に限っては馴染み深いはずの景色の中に異物が混入していた。
「ノエルだな? テロリストを匿っていた容疑で逮捕する」
「え……なっ」
ノエルは自分の耳を疑う。咄嗟に何かを言おうとするが、うまく言葉を発することが出来ないのだろう。そうして言葉を喉元で詰まらせてるうちに彼ら……ノエルの家の玄関前で待機していた守護騎士団の男二人は、まるでノエルには喋る権利はないというかのように、行動を伴った言葉をつづける。
「刑罰の内容は後に伝えられる。今は黙ってフォート・レイン城まで来てもらおう、腕を出せ」
無理やり引っ張り出された両手首に冷たい何かがかかるのを感じる。ノエルは何が何だかわからない頭でそれを茫然と見て、ようやく手錠をかけられたのだと理解した。
「ぼ、僕は……」
夜とはいえ、人通りもある。そうなれば当然の如く、辺りには腐った生ごみに集るハエの様に、目を輝かせた人々が聞き耳を立て始める。彼を中心に交わされる言葉の数々。守護騎士団たちの事務的な会話、誰ともわからない人々から発せられるノエルを指さし笑う言葉。そんな言葉の奔流が次々と頭の中に入ってきて、彼はまるで自分こそがテロリストの様な錯覚に陥りつつあった。
「僕じゃない……僕は……僕は関係ない」
必死なって自己弁護の言葉吐いたところで、ノエルは自分で自分が滑稽になった。
――あれだけメルトさんに何かを感じて、彼女について行きたいとさえ思って……僕とカンナ、それにメルトさんの三人で居られたら面白そうだなとか思ってたのに、出てきたのはこんな言葉。僕はいったい何なんだ。
自分自身の事がどうしようもなく醜悪なものに感じるが、ノエルの口は止まってくれない。いや、おそらく彼自身も止める気がないのだろう。結局彼は、
――僕は僕が大切なだけの最低の人間なんだ……。
「嫌だ、僕じゃないんだ……僕は何も知らない」
惨めに泣き叫ぶノエルに呆れたのか、守護騎士団の一人が「貴様、うるさいぞ。今更言い逃れは出来ないんだ、諦めて付いてこい!」と、ノエルの肘の辺りを掴んで、なかば巨大なゴミで引きづるようにして連れて行ってしまう。
そして、ノエルと彼を連行した守護騎士の姿が見えなくなった頃、残っていたもう一人の守護騎士団の男が、裏路地へと歩いていく。彼が進み、たどり着いた先に居たのは一人の少女だ。家と家の間の背筋が凍りつきそうなほど暗い路地裏、そこにはそんな暗闇よりもなお冷たい瞳を持った少女が、壁に背を預けている。
男はそんな少女に慎重に、かつ丁寧に言葉を選んで話しかける。
「カンナ副団長、休暇中にお疲れ様です。副団長の報告のおかげで凶悪犯の仲間と思しき人物をとらえられました」
男の言葉を受け、カンナはゆっくりと鋭い目を男の方へと向ける。男には彼女の目が、例え様もなく冷たく、そしてどこまでも淀んでいるように見えた。
「あ、あの……」
カンナが心配になったのか、男は彼女に声をかけようとするが、その声はひたすら冷たく、他者を寄せ付けない深い闇を伴った声に潰される。
「黙りなさい。教わらなかったのかしら? 守護騎士団は決められた仕事をこなすだけでいいの……それとも何? あんたの仕事は、休暇中のあたしに一々お礼を言いにくる事なの? もしそうなら、あんたが存在する必要はあるのかしらね」
途端に目の前の少女から感じるプレッシャーが膨れ上がる。同時に漂いだした冷気に恐怖を感じた男は、咄嗟に言葉を紡ぎだす。それはおそらくこの場に置いて最適な行動だっただろう。
「ちがいます! 私は……っ」
「だったら」
カンナは今まで身を預けていた壁から背を離すと、ゆっくりと深い闇の方へと路地裏を歩いていく。一歩づつ、まるで何かを踏みしめるようにしながら歩くその姿は、どこか狂気を孕んでいるように見えた。
「あんたはさっさと、あんたの仕事をしなさい」
触れたものの悉くを凍り付かせる絶対零度の空気を身にまとわせ歩くその後ろ姿に、男は本能的な危険を感じて後ずさる。やがてカンナの背中が完全に闇に溶けると、男は自分が心の底から安堵していることに気が付く。何故そう思ったのかはわからない、しかし彼は一刻も早くこの場から立ち去りたい一心で、先に行った相方の守護騎士を追って足早にこの場を立ち去った。
●●●
人の心を不安にさせる色をしている夜の雨雲、そこから降る滝の様な雨もまた闇に彩られた黒色をしている。そんな中に聳え立つ今夜のフォート・レイン城は、魔物が跋扈する魔城のようにすら見えた。それこそ雷鳴でも響けば、完全にそう見えたであろう。
守護騎士団に捕えられたノエルはその後、フォート・レイン城の地下二階にある牢獄へと入れられていた。捕えられてからまだ数時間と経っていないが、彼の主観ではすでに途方もない時間がたっているかのように感じた。。
「…………」
汚れ果てた石のブロックで出来た牢獄はジメジメしており、見たこともないような虫が這い回っていて不衛生極まりない。牢獄の中にあるのは簡素な石造りのベッドと、簡易なトイレだ。ベッドは寝そべると背中がゴツゴツして痛く、とても本来の用途には利用できそうもない。入口が鉄柵で覆われているだけの牢獄なので、トイレも外から見えてしまうため羞恥心から使用することは不可能だ。
「…………」
ノエルは一刻も早くここから出て、ノンビリと過ごせる家に帰りたかったが、そういうわけにもいかないだろう。なぜなら彼の罪状である『テロリストを匿っていた』というのは、誤解ではなく紛れもない真実なのだから。このまま順当に進めば何らかの罰則、最悪長い間、この牢獄が住処になる可能性もある。仮にすぐにここから解放されたとしても、最早通常の生活を送れるとは思えない。
彼の頭には、彼が捕まった時に周りにいた野次馬の顔が思い浮かんだ。おそらく、ここから出てもフォート・レインで暮らす限り、永久に後ろ指をさされて生きていくことになるだろう。そんな生活に耐えられる自信が彼には到底なかった。
「…………」
先ほどから色々な事が思い浮かんでは、その度に流れていく。ノエルは虚ろな目で天井に生えた苔ともカビともわからない黒いものを見つめながら、ただただ時間を無為に過ごしていた。もっとも、牢獄の中ですることのある方がまれだろう。人によれば脱獄のための一計を案じたりもするのだろうが、少なくとも今の彼にはそんな度胸も気概もない。
――どうしてだろう、どうしてこうなったんだろう。
何故こんなことになってしまったのか、どうすればこうならなかったのか。ちょうど彼がそんな事を考え始めたとき、誰かが階段を下りてくるような音が聞こえてくる。音からして複数名、少なくとも二人はいるだろう。
足音の持ち主は階段を降り終わったのか、少し音を弱めながらも確実にノエルが居る牢獄の方へと近づいてくる。そうしてしばらくした頃、襲いくる虚無感に打ちひしがれていた彼が居る牢獄の目の前で足音はピタリと止まった。
誰だろう。と、ノエルは視線に意思の光をかすかに灯して前を見る。するとそこには一人の少女と、背の高い男性が居た。少女はカンナ、ノエルのよく知る幼馴染だ。背の高い男は全く知らない。真っ黒く焦げ付いたかのように艶のない攻撃的な短髪と、漆のような瞳、色黒の肌は歴戦の戦士のようにも見える。二人の共通点と言えば、守護騎士団の制服を身に着けているという事くらいだが。
「君がノエル君だね……あぁ、すまない。自己紹介がまだだったね」
とても親しみのある声で名前を呼ばれたことで、余計に疑問が深まったノエルの顔を見て、色黒の男はいかにも好青年と言った笑みを浮かべて話し出す。
「私の名前はクルーガだ。守護騎士団 団長、クルーガ・ベイン。君の幼馴染にはよくお世話になっているよ」
そういってクルーガはどこからかキーホルダーの様なものを取り出すと、一つの鍵を選んで牢獄へと近づいてくる。
「あ、あのっ」
「なにかな? 鉄格子越しに話しても、君の信頼は得られないだろう? ならば私がこうするのは当然のことだと思うが」
クルーガはごく自然に牢獄の扉を開け、カンナを伴って中に入ってくる。彼の突然の行動に驚きを隠せないノエルは、今まで座っていたベッドから立ち上がろうとするが、すぐに「君はそのままで構わない、少し話がしたいんだ」と、彼の方からノエルの隣に腰掛けてくる。その間、カンナは牢獄の壁の近くで、不機嫌そうに腕を組んで黙っていた。目が閉じられているため、目つきからその本心をうかがうことはノエルには出来なかった。
「いきなりこんな所に入れてしまって悪かったね。君をテロリストの手から守るためにはどうしても必要なことだったんだ。君に何かあればカンナ君にも、前団長であるヴェロニカさんにも申し訳が立たないからね」
「あの……ヴェロニカさんをご存じなんですか?」
思わぬ名前が出てきたので、咄嗟に聞き返してしまったが、そういえば彼女は以前、守護騎士団だったという事を思い出す。
「もちろん知っているとも。彼女は……ヴェロニカ・ベルヴェルク団長は、私が知る限り最高であり最良の女性だったよ。普段は控え目に言っても真面目とは言えない人だったが、一たび事件となれば、誰よりも誠実に事に取り組み、戦いとなればその姿は苛烈を極めた。団長が赤い髪をふり乱して戦う姿には、私も魅了されたものだよ」
自分が知らないヴェロニカの話を聞いているうちに、ノエルの緊張が次第に薄れていくのを、彼自身感じた。きっとクルーガの様な人物を話上手と言うのだろう。
クルーガは「団長が……」、「団長は……」などと、思い出話にひとしきり花を咲かせ、「おっと、今は私が団長だったね。すまない」と、罰が悪そうに笑う。
「さて、そろそろ本題に入らせてもらおうかな。私は回りくどいのが嫌いだし、君もハッキリしないのは嫌だろうから、結論から言わせてもらおう。このまま行くとノエル君、君は確実にテロリストを匿った容疑で投獄されることになる」
「っ……」
一人の時に散々想像していたとはいえ、それがいざ現実のこととなると、受けるダメージは段違いだった。額には気持ち悪い汗が浮かび、体が小刻みに震えるのをノエルは感じた。
「君をテロリストから救うために捕まえたとはいえ、テロリストを匿っていたという罪は償わなければならない。罰には償いを……当然のことだよね?」
「……はい、わかってます」
先ほどまでは「どうして」とばかり考えていたノエルだったが、クルーガの聞いていて気持ちがよくなるような声でそう言われると、なぜか素直に自分の状況を認められることが出来た。
「おっと、結論だけ言いすぎたね。安心しほしい、それを防ぐために私達はここに来たんだ。罪は償われなけばならない……しかし、それが必ずしも投獄という形になるとは限らない」
クルーガの言っている事がいまいちわからず、ノエルは首を傾げる。
「ようするにだ。ノエル君、君には私達に協力するという形で罪を償ってもらいたい」
「……それは、それは取引しようってことですか?」
「取引か、そうだね。言い方は悪いかもしれないが、簡潔に言うならばそう言う事になるかな。でもこれだけは覚えておいてほしい、あくまで私達は君のために取引をしようと言っているんだ。とりあえず、聞くだけ聞いてみてくれないかな?」
そこまで言われれば断りづらい。ノエルは聞くだけなら何の問題もないだろうと、クルーガに対し、ゆっくりと肯定の意思を示す。
「ありがとう、ノエル君。では最初に、私達に協力することによって得られるメリットから話そう。その方が君も後の話を心の中で天秤にかけて聞けるだろう? ……うん、では始めよう。君が協力してくれた場合、前提条件として君を無罪にさせてもらう。もちろんそれだけではない、日中……人がもっとも活発な時間帯に君の家の前まで赴き、私が守護騎士団を代表して『この度は誤認逮捕、誠に申し訳ありませんでした』と、謝罪しよう。そうすれば君が心配している野次馬の件も大方解決するだろう?」
最も心配していたことを見事に的中され、ノエルは自分の心臓が飛び上がるのを感じた。
クルーガは優しそうな喋り方と雰囲気を持ってはいるが、その本質は外見と同じく、激しく研ぎ澄まされているのだろう。よく考えてみれば、ただ優しいだけの人物が栄誉ある守護騎士団の団長など勤まるはずがない。
「メリットはこれだけじゃない、もう一つある……これが最も重要だ。王都フォート・レインの平和と発展に貢献したとして、君を貴族として上層へ迎え入れよう」
「ぼ、僕が貴族!?」
想像していいた事の斜め上を言われ、ノエルは裏返ったようなおかしな声を出してしまう。さらにそんな声を出してしまったことに顔を赤くするが、こんな事で照れられるほど自分の精神が平常に戻っていることに……巧みな話術によって自分の精神を平常値まで戻したクルーガに、彼は只ならぬ畏怖の念を感じた。
「そんなに驚くことはないだろう? あぁ、あとこれも君にとっての……君たちにとってのメリットになるのかな」
クルーガは一度カンナを見て、優しげに微笑む。
「ノエル君が貴族になったら、カンナ君と一緒に住むといいよ」
「だ、団長!? 聞いてませんよ、そんなこと!」
クルーガの言を聞いてもっとも先に反応したのは、壁際で黙りこくっていたカンナだ。一瞬で顔を氷が解けそうな色に染めると、目を見開いてクルーガの前までツカツカと歩いてくる。しかし、そんな彼女を見ても彼は全く怯まない。
「おや? カンナ君はノエル君と付き合っているのではなかったのかな?」
「ぶっ!」
「あぁ、なるほど。まだ片思いと言うわけか、それはすまなかった」
「か、片思いなんかじゃないですよ! 誰がノエルなんかに……ノエルなんかに……もにょもにょ」
熱がたまりすぎたせいで、脳内がオーバーヒートしたのだろうか。カンナは再び壁際まで戻っていくと、一人でもにょもにょし始めてしまう。そんな彼女を見て、ノエルとクルーガは昔からの友のように肩を並べて笑う。
「ノエル君、君とはいい友なれそうだ。出来ることならば、私は後に君も守護騎士団に入ってほしいと思っているよ」
――僕が守護騎士に。
「ありがとうございます……その、守護騎士団が僕に勤まるかはわかりませんけど、僕もクルーガさんとは友達になりたいです」
お世辞などではなく、ノエルは本心からそう思っていた。クルーガにはどうしようもなく人を惹きつける何かがある。そもそも、そんな人物だからこそプライドの塊のようなカンナが、黙って従っているのだろう。
――この人なら信用できる。
この時点で、取引に関するノエルの答えは既に決まっていたと言っても過言ではない。
「あの、それで取引内容というのは?」
「そうだったね、私とした事がすっかり忘れていたよ。なに……そんなに難しい事じゃないさ。私達が君に望むのはたった一つだけだ」
クルーガは話し出す。どこまでも優しく、人を惹きつけて安心させる声色で。ノエルから見れば、それは混沌とした世界に舞い降りた天使のように見えただろう……だが。
●●●
「…………」
クルーガとカンナが去ってからどれくらいが経っただろう。手続きなどの関係上、ノエルはもうしばらく牢獄に入っていなければならないらしい。だが、彼は最初ほど牢獄が居心地悪いとは思わなくなっていた。そもそも、今ノエルが居るのは、先ほどとは違う牢獄だ。クルーガの好意により、地下一階の牢獄に移されたのだ。地下一階の牢獄は牢獄には違いないのだが、地下二階のそれとは天と地ほども差があった。
地下でありながら、ドライエリアに続く窓が設けられているため湿気がなく、空気は程よい感じに保たれている。そのおかげなのか、虫やカビ……そして苔なども見られない。一番ノエルを安心させたのは、ここが外から見えない個室だという事だろう。さらに言うならば、石のベッドの上に柔かそうな布団が敷いてあるのも大きい。
あらゆる面をとっても、今いるここは先ほどまでいた牢獄とは段違いだ。しかし、いくら居心地が良くても、いくら安心できたとしても、ノエルの心の中には黒いしこりの様なもが存在し続けていた。定期的に胸を締め付けることによって自己主張をし続けてくるそのしこりは、クルーガとの取引に応じたときから出来た罪悪感の象徴だ。彼自身それはわかっていたが、この様な状況に陥っている今、助かるためには背に腹は代えられない。後のメリットも大きい以上、取引を断る理由は彼には見つからなかった。
――そうだ。いくら罪悪感を感じたとしても仕方ないんだ。こうしないと、僕が助からないんだから……仕方ない、仕方いんだ。きっと許される、きっと許してくれる。
心の中で誰にともなく許しの言葉を吐いていると、窓の方から何やら声がした気がしたので、ノエルはやや億劫に窓を見上げる。
「うむ、思ったより元気そうだな」
「なっ!?」
僅かな窓の隙間から顔を出し、牢獄の中を覗いていたのは、一度はもう会う事はないだろうとさえ思った少女の姿だった。
「メルトさん……何しに来たんですか?」
一瞬ノエルは体の中を喜びが駆け巡るのを感じるが、取引の事を思い出してすぐにその思いは何処かへ去って行ってしまう。しかし、メルトは彼のそんな心境には気づかず、可愛らしいその顔に、見るものを安心させる笑みを浮かべる。
「何をしにとは妙なことを聞くな。わたしが来た理由など一つに決まっているだろう? わたしはお前を助けに来たのだ」
最悪な別れ方をしたというのに、彼女はノエルに胸を張って言う。
「通りを歩いていたらノエルが捕まったという話を聞いてな、もう会わんつもりだったが放ってはおけなかった……だからノエル、これで最後だ。わたしはお前をここから逃がす、それでわたし達の妙な関係は終わりしよう」
「…………」
「うむ? 急に俯きおって、泣いているのか? 全く、仕方のないやつだな! まぁよい、今からこの壁を吹き飛ばす、そのまま丸まっているのだ」
次の瞬間、爆炎と言っていいほどの凄まじい炎が、外側から牢獄の壁を文字通り木端微塵に粉砕する。襲ってくる身を焦がしかねない熱量、耳を覆いたくなるほどの轟音、飛来する破片に、ノエルは俯いていた頭を両手で抱え胎児のように丸くなる。そしてすべてが収まったころ、彼が状況を確認するために視線を上げると、
「お前はわたしを助けてくれた。だから、わたしもお前を助けよう。これで貸し借りなしなのだ……ノエル、お前を仲間に出来ないのは心苦しいが、お前はお前の幼馴染と共に生きるといい」
そう言って、ノエルの沈んでいた心を照らし出さんばかり手を差し出してくるのは、初めて会った時から変わりもしない、黄金色の輝きを持つ美しい少女だった。
「何を呆けている? ほれ……さっさと立つのだ!」
彼女はいつまでもぼうっとしているノエルに痺れを切らしたのか、彼の腕を引っ張り上げるように立ち上がらせようとして、
「っ……ノエ、ル?」
体を一度激しく痙攣させたかと思うと黄金色の瞳をゆっくりと閉じて、メルトはその場にゆっくりと崩れ落ちた。体中の力が抜けきってしまっているその姿からは、意思の炎を全く感じることが出来ない。彼女は間違いなく気絶しているのだろう。
ノエルは彼女が気絶していることを確認すると同時に、激しい後悔に襲われ、隠し持っていたスタンガンを取り落してしまう。さらにまるで誰かが自分を責めているかのような錯覚と、強烈な吐き気を覚えて口元に手をやる。彼の頭の中では取引の時にした会話が次々と思い浮かび、激烈な頭痛をも引き起こし始める。
『ノエル君には、君を助けに来るテロリストを捕まえてほしい』
『そ、そんなの……無理ですよ』
『どうしてかな?』
『だって、メルトさんが助けに来るはずないですよ。僕は彼女に酷い事を言ってしまいましたから、僕が今更どうなったって彼女はきっとき気にしませんよ』
『そんなことはないさ、彼女はきっと君を助けに来る。その辺の作戦はカンナ君と相談済みだから任せたまえ、まずは町中に君が捕まったという噂を流そうと思う……他にもいろいろ作戦は用意しているが、おそらくそれだけで大丈夫だろう。だから君はこの牢獄の中でゆっくりと待っているといい。もし待っているのが暇なら、少し早いが貴族が普段とっているような豪勢な食事を用意させよう。どうかな?』
『でも……やっぱり無理ですよ。自慢じゃないですけど、僕は腕力とかありませんし……仮にメルトさんが来てくれても、捕まえるなんて出来そうにありません』
『任せたまえ……と、言っただろう? 君にはこれを渡しておこう』
『これは、なんですか?』
『下層では見たことはないかな? それはスタンガンと言ってね、その角のように出っ張っている部分を相手に押し付けることによって、内臓されている電池から電気を相手に流すことが出来るんだ。あぁ……そんな心配そうな顔をしなくても大丈夫、それでは人は殺せないさ。それに仮に彼女を捕まえたとしても処刑する気はない、しばらくの間牢獄に入ってもらうだけだ。どうだい、悪い話ではないだろう?』
そして今、その取引は現実のものとなって彼の目の前にある。
――僕は最低だ。
――メルトさんの善意を利用として、自分が助かるために彼女を犠牲にした。
いくら後悔しても今更だ。すでにことは済み、結果としてメルトは牢獄の冷たい床に倒れ伏しているのだから。そしてその傍らには、醜くも自分の人生を取り戻した最低の男が立っている。それを認識した途端、ノエルは後悔よりも惨めな気持ちの方が強くなった。
「僕はいったい……」
何をしているのだろう。と、蜜のように濃厚な自己嫌悪が詰まった言葉を吐き出そうとすると、今ではすっかり聞きなれた声が聞こえてくる。
「ノエル君! 無事っ……なようだね」
心配げな様子でやってきたのは守護騎士団 団長クルーガ、それに幼馴染であると同時に、守護騎士団の副団長でもあるカンナだ。彼らがやってきてくれたせいか、今までノエルを襲っていた激しい吐き気や頭痛は、ひとまずの所どこかへと退散してくれた。
「さぁ、ノエル君、こっちに来るんだ。辛かっただろう? 暖かいお茶でも飲んで一息ついた後、家に帰るといい……帰りは私が送って行こう」
ノエルはクルーガに促されるままに歩き出す。
「カンナ君、あとは任せたよ。君の幼馴染の事は任せたまえ、私が責任を持って送り届ける」
「はい、お願いします」
二人のやり取りを聞いている間、ノエルは自分の胸に大きな穴が開いているのに気が付いた。胸に大きな穴が開き、そこから心が抜け落ちてしまった存在、それはまるで。
――人形みたいだな……それも、とてつもなく醜悪な。
●●●
ノエルとクルーガを一階へと続く階段まで見送った後、カンナは爆弾で吹き飛ばしたかのように荒れ放題になっている牢獄へと一人で戻ってくる。戻ってきた理由は一つ、クルーガに頼まれたテロリストの取り調べだ。軽く持ち物検査をした後、テロリストが処刑されるまで地下二階の牢獄に入れておくことになっている。
ノエルに、メルトは処刑されないと嘘を言って協力させたのは申し訳ないとは思うが、全ては彼の自信の身の安全のためだ。その為ならば、許される範囲の嘘だろう。
「スカイシェード……」
カンナはメルトの胸元から、黄金の水晶が付いたペンダントを取り出し、自らの懐へとしまう。
「何で守護騎士団でもないこいつが、ましてや貴族ですらないこいつがスカイシェードを持っているのかは気になるところだけど。こうなったらもう関係ないかしらね」
気絶している彼女の手首を、背中に回して手錠をかけると、カンナは瞳に冷たく燃え上がる何かを宿して、ゆっくりすぎるほどゆっくりと立ち上がる。
未だ気を失っているメルトを冷たい視線で見下ろしながら、彼女はおもむろに足を引くと、まるで道端に転がっているボールでも蹴るかのように、メルトの横腹を蹴りつける。
「ぐっ! ……うぅ」
「起きた? いつまで寝てるのよ」
腹部を襲う激しい衝撃と痛みに、精神を無理やり覚醒させられたメルトは、芋虫のように体を丸めながら、まだ何が起きているのか把握してないといった寝起きの様な顔をしてカンナを見上げる。もっとも、その寝起きの顔には激しい痛みを堪える苦悶も同時に映し出していた。そんな彼女の表情を見るだけで、カンナがどれほどの力を込めて彼女を蹴ったのかがわかる。
「……カンナ? わたしは、いったい」
名前を呼ばれた事が癇に障ったのか、カンナは先ほどメルトを蹴った方の足を、彼女の頭を踏みつぶすようにして載せる。またも力の込められた一撃に、粗い石で出来た牢獄の床に顔を擦り付けられ、メルトはまたも苦悶の声を上げるが、今のカンナにはまるで関係のない事だった。
「気安く名前を呼ばないでくれる? あんたみたいな下賤なテロリストに名前を呼ばれるなんて……ノエルの前では我慢してたけど、正直耐えられないわ。ほら見てよ、あんたと話してるだけで、こんなに鳥肌が立っちゃったわ」
言って彼女は袖をまくりあげて、メルトに見せようとする。しかし、一方のメルトは彼女の行動に付き合ってはいられないとでも言うかのように、彼女の言葉を全く気に留目ない。
「カンナ、この足を退けるのだ。それにノエルはいった……ぐっ」
「あらごめんなさい、思わず足が滑って可愛い顔を蹴っちゃったわ。わざとじゃないから許してよね……あ、でもあんたの頭、足の置き心地がいいからまた置かせてもらうわ」
メルトを蹴った足を、再び力を込めて彼女の頭の上へと下す。
「…………」
「何よその顔は? あたし何か不満でもあるのかしら?」
「この状況で不満を感じなければ、そいつは相当な大物だろうな」
手を拘束されているだけでなく、スカイシェードという名の最大の武器を奪われている今、メルトの武器は考え付く限り最高の皮肉を込めた言葉を吐き出すことだけだった。だが、それすらも絶対的強者に位置している現在のカンナからすれば、この上なく滑稽に映るだけだ。
「ほんっとバカみたい。こんな状況で強がっても長生きできないわよ? まぁあんたはどっちにしろ死ぬんだけどさ……でも、当然よね」
今まで少女らしから底冷えするような薄気味悪い笑みを浮かべていたカンナだったが、ふとした拍子にスイッチが切り替わってしまったかのように、彼女の表情から表情らしきもの、感情と呼べるようなものが一気に消えていく。あとに残ったのはただただ虚無を映し出した瞳だった。そして彼女は喋りだす、その瞳と同じく虚無を宿したかのような感情を宿さない平坦な声色で。
「ノエルはわたしのものなの……小さいころから彼はずっとわたしのもの、わたしだけのものよ。そして、わたしはずっと彼のもの。なのに急に現れた害虫……ノエルをどこかへ連れて行こうとする害虫。許さないわ、許せない。許せるわけがないじゃない。だったらわたしはどうすればいいの? 簡単よ、排除すればいいの。ずっと前から今に至るまでいつだって同じ、ノエルに害をなす者は……わたしとノエルを引き離そうとする奴は……ふふ」
淡々とした語り口、最後の最後ので再び笑みをこぼすが、それは普段の彼女がする思わず見とれてしまうような可愛らしい笑みとはかけ離れていた。
「そうか……ようやくわかった。わたしが守護騎士団に捕まって処刑されるように仕向けたのはお前か。今までずっとノエルを誘導していたのか? あきれる奴だ」
メルトは自分が置かれた状況、そして最後にノエルが取った行動をようやく思い出したが、今更思い出したところで、彼女にとっては何の役には立たなかった。
「ふふ、言ったわよね? わたしのノエルの名前を呼ばないでって」
「でもいいわ、許してあげる」と、彼女は微笑む。
「だから……」
「あんたは早く死んじゃえ」
カンナは微笑みを死にゆく運命にあるメルトへと送る。その微笑みはこれまで見たこともないほど美しく、全ての男性を魅了するような甘く蕩けるような笑顔だった。