第二章
「大丈夫ですか?」
少女との予想外の出会いに、心を照らされるかのような輝きに呆けていたノエルだったが、すぐに自分がどうしてここに来たのかを思い出す。
「あの……」
ノエルは気絶しているのであろう少女に何度か声をかけるが、彼女は一向に目を覚まそうとしない。
「とりあえずヴェロニカさんのところに連れていけば大丈夫かな」
なんだかんだ言っても、ヴェロニカを信頼しているノエルは、気を失ったままの少女を背負うために彼女の体の向きを変えようとし、気が付いてしまう。
少女の脇腹、そこが真っ赤に染まっているの事に。
「なっ」
よく見るまでもなく明らかだった。ローブの脇腹あたりには穴が開いており、そこからは痛々しい傷跡が見え隠れしている。応急手当でもしたのか、今では血は止まっているが、彼女の肌や衣服を染めている赤は、ほぼ確実に彼女自身が流した血だろう。
病院で働いていおり、実際にヴェロニカが重傷を負った人を手術するのを何度か手伝ってきたノエルだったが、重傷を負った人を自分で見つけたのは初めだったため、脳内がパニックで蜂の巣をつついたような状態になってしまう。
――ダメだ、慌てるな! 今はヴェロニカさんのところに彼女を連れていくことだけ考えなきゃ……もし僕が遅れたことによって、彼女が死ぬようなことになったら、僕は自分を許せなくなる。
ノエルは自分の行動によって人の命が左右されるかもしれないという、初めて陥る状況に混迷しつつも彼女をしっかりと背負い、ヴェロニカの元へと歩き出す。
「…………っ」
予想外に重い。
平均より少し小さめのノエルよりも身長が幾分か小さい少女だったため、楽に運べるであろうと考えていた彼だったが、残念なことにその憶測は外れてしまう。どんなに小柄であろうと、人間であることには変わりはないのだ。付け加えるのなら、意識がない人間とは「背負われようとする意思」も当然ないため、余計に重く感じるものだ。さらに、少女が来ている服、特に体全体を覆うような大きく長いローブにスポンジのように水が貯えらてしまっていることも、重さを助長している要因といえるだろう。もちろん、ノエルの日頃の運動不足という点も十二分に指摘できるが。
そんな日頃の運動不足を呪いつつ、ノエルは一歩一歩を踏みしめるかのように病院へと続く扉を目指し歩いていく。
――遠い。
焦っているせいか、扉までの距離が異常に長く感じる。ノエルにとって、たった数メートルの距離がこれほど長く感じるのは現在、過去、そして未来において初めてとなるだろう。
そうしてノエルの体感時間においてどれほど時間がたった頃だろう。
「ヴェロニカさん!」
ノエルはようやく病院へとたどり着いていた。
彼は裏口を開けると同時に叫ぶ。
「怪我人です! ヴェロニカさん、早く来てください!」
ノエルの必至の声色で、事態がただ事ではないと察したのか、彼がバケツにたまった水を排水溝へと流しに行っている間に、爆睡していたヴェロニカはすぐに目を覚まし、ノエルがいる裏口へとかけてくる。
「どういう状況だ!」
いつもの適当でいい加減な雰囲気のヴェロニカとは違う彼女を目にし、心の中に確かな安心感が芽生えるのを感じながら、ノエルはしっかりと言葉を返す。
「裏路地にいて、最初は立っていたんですけど、急にこっちに倒れてきて……あ、あと、脇腹に鋭利なもので刺されたような傷跡があります」
ノエルの言葉を聞くと、ヴェロニカは怪訝な顔をしながら、
「傷跡?」
「はい、今はもう出血も止まってます。たぶん自分で応急手当をしたんだと思います」
「なるほどな……わかった」
ヴェロニカは少女の脇腹の辺りを何度か見ると、ノエルに少女を手術台まで運んでいくように指示する。
「大丈夫ですよね?」
ヴェロニカの指示通りに少女を手術台に載せたノエルは、改めて少女の傷跡を見て心臓をつかまれたかのような不安に襲われる。
「助かりますよね?」
「誰に言ってんだよ、お前は? 俺はヴェロニカ様だぞ? まぁよするにだ……」
ヴェロニカは彼女にては珍しいほどの優しい笑顔を、人を安心させるような笑顔をノエルに向けながら、彼の肩へと手を置く。
「俺に任せておけ」
「ヴェロニカさん……」
こういうときのヴェロニカは本当に頼りになる。
ノエルはそう感じながら、少女のことを見守ろうとしたが、ヴェロニカに「見守るのはいいが、バケツを持ってこい! 路地裏においてきただろ、お前」と、にべもなく追い出されてしまう。
確かにノエルは、少女を咄嗟に受け止める際に、同じく咄嗟にバケツを放り出してしまっていた。
――またあの雨の中を外に出るのか……まぁ、もう濡れるのに抵抗がないほどビショビショだけどね。
「わかりました、行ってきます」
「おう」
少女を見守っていたい気持ちはあったが、ヴェロニカがついていれば何の問題もないだろうし、自分がいても役に立つことは何もない。ならばヴェロニカの気を散らさない為にも素直に従った方がいいだろうと思ったノエルは、再び裏口から全てを洗い流すかのように降り注ぐ雨の世界へと歩みだしていった。
●●●
どんなに雨が降っているとはいっても、所詮はバケツを取り行くだけ、それほど時間がかかるわけがない。バケツを取りに行ったノエルは、少女が心配で急いでいたこともあり、ヴェロニカの予想を超えて早めに戻ってきた。
「なんだよ、もう戻ってきたのかよ? まぁバケツとってくるだけだし、こんなもんか」
ヴェロニカは独りごちるとノエルに向けて、自分のほうに来るようにと手を静かにちょいちょいとふる。
少女の容体が気になっていたノエルは、裏口の横に掛っていたバスタオルを手に取り、体や頭を軽くふいてから手術台の前に立つヴェロニカの横まで歩いていく。
「それで、この子は大丈夫なんですか?」
ノエルはヴェロニカが何か言う前に、真っ先にそのことを聞くが、「慌てるなっての」と、いなされてしまう。
「いいかノエル、よく考えろよ? 俺が手術台にこいつを載せてからどんくらいがたった?」
「え、さぁ?」
「さぁじゃねぇ、いいか? こんな短時間で何か進展でもあると思ったか? こんな短時間で手術が終わるとでも思ったか? お前はバカか? バカなのか?」
「え、あ、いや……その」
怒涛のように吐き出される言葉の奔流と、ヴェロニカの獅子のような威圧に押されて、ノエルがしどろもどろになっていると、彼女が再び話し出す……今度はゆっくりと、言い聞かせるように。
「俺に出来ることはなかったよ」
「それってどういうことですか!?」
ヴェロニカの一言で、ノエルの頭の中にはどうしようもなく不吉なイメージばかりが湧き出る。少女の傷はヴェロニカでも手の施しようもないほど重症だったのか? もう少し早くヴェロニカの元へ運び込めば、彼女は助かったのではないのか?
彼はそんなどうしようもない不安、そして後悔の念に押しつぶされそうになる。
「お~い、勘違いすんな~」
カビでも生えるのではないかというほど、暗いオーラを放っていたノエル。そんな彼が聞こえてきたヴェロニカの言葉に顔を上げると、
「こいつは無事だよ、安心しろ」
「っ……じゃあさっきのは」
「なぁに鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてんだよ? だから全部お前の早とちりなんだよ。俺は『俺に出来ること』はもうなかったって言ったんだ」
「どう意味ですか? さっきと言ってることが変わってないじゃないですか……焦らさないで教えてくださいよ!」
ノエルは本気で少女を心配していたこともあり、久しぶりにヴェロニカの威圧を押し退けて大声で言い返すが、「はぁ」っと溜息ひとつ疲れて軽く流されてしまう。
「何でわかんね~かな、まぁもう面倒くさいから言うとだな」
ヴェロニカは、少女が来ているローブの破れた部分、痛々しい傷跡が見え隠れしていた部分を勢いよく指をさしながら告げる。
「こいつが自分でした応急手当が中々に適格でな、そういう意味で俺はすることがなかったんだよ。もっとも傷跡の消毒くらいはしたがな」
「じゃあ……」
「あぁ、命に別状はねぇよ」
「…………」
――よかった。
ノエルは安心感のあまり膝が崩れ落ちそうになるが、怪我人でもない自分が床にへにゃへにゃ座っている場合じゃないと、足に精一杯力を入れて耐える。
「あとはそうだな、とりあえず……」
「先生、助けてくだせぇ!」
ヴェロニカの言葉を途中で中断させたのは、入り口の扉が勢いよく開かれる音と同時に飛び込んできた緊迫した声だった。そちらに目を向けたノエルとヴェロニカの目に入ってきたのは、血にまみれた二人の男だった。
片方はこれといった怪我が見つからないが、もう片方の男の怪我が見た限りでも異常だとわかる。下半身の一部から上半身の一部にかけて、少し太めの針で刺したような無数の小さな穴が開いているのだ。開いた穴からはそれが当然かのように、真っ赤な血が流れている。
これはおそらくだが、前者の男が後者の男に肩を貸しているため、前者の男は血まみれになったのだろう。
「何があった?」
ヴェロニカがすぐさま重傷者の方へと駆けていき、傷跡の状況を見ながら聞く。しかし、状況に気が動転しているのか、男の答えはよくわからないものだった。
「き、傷が……急に穴が開いて……そんで血が」
「……全くわからねぇ」
ヴェロニカはイラつきを隠そうともせずに、タカのような目つきで男を睨み付けるが、それで事態が解決するはずもない。そしてその事は彼女自身もわかっているのだろう。
「まぁいい、そこの手術台に載せ……」
指を差そうとした瞬間、彼女の動きが止まる。それも当然だろう、なにせ診察台には先客がいるのだから。
「おい、ノエル! その女連れてけ!」
ヴェロニカは指の先端をはっきりと、先ほどまで診ていた少女へと向ける。
「連れてけってどこにですか? 怪我人ですよ!?」
「あぁ!? お前はバカか! このブ男の方がどう見ても重症だろうが! それにだ、そいつはもう安心安全だ。ここに置いとく必要はねぇ」
少し納得がいかないが、ヴェロニカが言っていることは正論のため、ノエルは逆らいたくても逆らうことができなかった。
「……わかりました、ベッドに移しときます」
先ほどとは打って変わって軽く感じる少女を抱き上げ、ベッドに向かっている最中、あぁ、さっき重く感じたのは少女の命がかかってるって感じたからなのかもな……命の重さってやつか。と、一人考えているノエルにまたもヴェロニカの声が聞こえてくる。しかも今度のは紛うことなき怒声。
「だれがベッドに移せって言った! そこはこのブ男の手術が終わったら、こいつを寝かせるんだよ!」
「ブ男なんてあんまりだぁ」
相方を何度もブ男と呼ばれて、ようやく抗議し始めた男だったが、ヴェロニカそんな虫の鳴くような抗議を完全に無視して続ける。
「そいつはお前の家に連れて行け!」
「ぼ、僕の家ですか!?」
ヴェロニカの思ってもみなかった提案に声を上げるノエル。
「お前の家ならカンナのベッドがあんだろ? ちょうどあいつも留守だしな」
「いや、でもそれは……」
「つ・れ・て・い・け!」
問答無用のヴェロニカ、彼女から放たれる炎を纏った獅子のようなオーラにノエルは、
「は、はい」
ひきつった笑みで答えを返していた。
「それでいい、あとさっき言いかけたんだけどよ。そいつの服、濡れたままだとなんだからな……帰ったら着替えさせてやれ」
「僕がですか!?」
「い・い・な?」
――うぐっ、なんだよもう。
「わかりましたよ! やりますよ!」
「よろしい、それじゃあ気を付けて帰れよ!」
それっきりヴェロニカは男の手術にかかりっきりになってしまったため、ノエルはこれ以上何も言われないうちに、少女を背負い、彼女がこれ以上濡れないよう外套を羽織らせてから病院を後にするのだった。
●●●
フォート・レイン下層の外れにあるノエルの家は、お世辞にも綺麗とも広いとも言えないものだった。部屋はあってもなくても変わらないようなリビングを含めて三つ、一つはノエルの部屋、もう一つは今は留守にしている同居人の部屋だ。どの部屋の壁も、至る所に継ぎはぎの跡が見られ、屋根などは風が吹いたら飛んでしまいそうだ。さらに、床は歩くたびに体重に耐えかねて泣いているような音を上げる。
そんなノエルの家だが、フォート・レイン下層では決して珍しいわけではない。基本的に平民とういう名の貧民が住まう下層では、中身も外見も疲れ果てた家が連なっている。彼の家はその一つだといえよう。
「う~ん、ないな」
ノエルが今いるのは彼自身の部屋、彼は経年劣化により半ば崩壊しかけたクローゼットに上半身を突っ込み、とあるものを探している。
「女の子でも着れそうな服か、ヴェロニカさんから借りてくればよかったな……無理か、いろいろとサイズが違いそうだし」
と、ノエルはヴェロニカの壮大な胸のサイズと、自分のベッドに寝かせてある少女の胸を見比べる。
――明らか小さいもんな……って、僕は何を考えてるんだ! 今は服、服を探さなきゃ。
「よし、仕方ない」
何かを決意したかのようにうなずくと、ノエルは自分の部屋を出て同居人の部屋へと歩いていき、今度はその部屋のクローゼットを開ける。
「カンナの部屋の物を勝手に漁るのは気が引けるけど、こういう場合は仕方ないよね。緊急事態だし」
――それに幼馴染だし、これくらいは許してくれるはず……多分。
ノエルは何かに言いわけでもするかのようにボソボソ呟きながら、少女が着られそう服を探す。
彼の同居人の名前はカンナ・オールラウンド、女装趣味の男性などではない普通の女の子だ。
そのため少女が着られる服を、同じ女性であるカンナの部屋に探しに来た彼だったが、その作業は一向に進まない。普段、女性が着る服を選んだことのないノエルにはいささか難しいことだ、時間がかかっても無理はないだろう。
「……ん~、あんまり待たせると風邪ひいちゃいそうだし、これでいいか」
考えに考えた末、ノエルが選らんだ服は裾を黒のレースで縁どられた白のワンピース。これを選んだ理由は上下が一つに繋がっているため、コーディネートをあまり気にしなくていいだろうという実に安易な理由だったが、時間のこともあったのでそこは黙認した。
「カンナもよく着てる服だし、ハズレってことはないよな」
――となると、残ってる問題は一つ。
自分の部屋に戻ったノエルは現在、ベッドに静かに横たわる見とれるほど美し少女の前に立っていた。
「…………」
彼には大事な役目が残っているのだ。
目の前の少女を、びしょ濡れの服から先ほど彼が選んできた服に着替えさせるという大役が。おまけに服を着せる前に、彼女の体を軽く拭くことも必要になるだろう。
「どうする? いや、僕がやらなきゃいけないのはわかってるけどさ」
いくら女性と同居しているとはいえ、ノエルにはそういう出来事の経験は一切ない。突然、自分よりわずかに年下であろう少女を着替えさせなければならない事態に陥れば、葛藤やら欲望やらと折り合いをつけられずにパニックい陥りかけるのも当然だ。
「み、見ないようにやれば……そっと」
目を瞑って着替えさせるという難度の高い技をし始めるノエルだったが、
指先に触れる慎ましくも柔かい感覚に、脳みそを電流が駆けぬける。
――こ、これ……これこここここれこれって……。
――お、おっぱ……。
「うわぁああああああもう! なるようになれ!」
時間をかけても逆効果だと気が付いたのか、彼は風のような速度で少女を脱がせ、拭き、そして着せていく。
最後にクローゼットから自分用の着換えを取り出し、彼はそそくさと部屋から退散するのだった。
●●●
翌日、ノエルは「また今日も同じことの繰り返しか」と、必至に意識を手放そうとうとする脳に火を入れ、なんとか目を開ける。
目を開ければいつも通り心を重くする暗い部屋、見えてくるのは文字通り落ちてきそうな天井。そんな風景を見ながらノエルはまた思う。
――本当に変化のない毎日だな。
だが、しかし……今日ばかりはそれは適応されなかった。なぜなら、
目を明けて真っ先に飛び込んできたのは、鋭く輝くナイフだったからだ。
「なっ……」
「黙れ」
ノエルは咄嗟に声を出そうとするが、ナイフをさらに近づけられ黙らされる。
――な、なんだ!? いったい何が起きてるんだ!?
「お前は何だ?」
「な、なんだと言われましても」
「それにここはどこだ?」
――質問したいのはこっちだよ!
可能な範囲で何が起こっているかを把握しようと、ノエルは自分を取り巻くの状況を確認し始める。
まずは如何ともしがたいこの状況、目が覚めたら体の上にナイフを持った人物が跨っていて、おまけにそのナイフを自分へ向けている。ではこの人物は誰なのか。
彼はナイフから時間が静止したかのような速度でゆっくりと、ひたすらゆっくりと視線を外していく。見る先はナイフを持つ手、ひいてはその先にいる人物。
「君は……」
起きてそうそう目を見開かんばかりに驚愕したノエルだったが、自分の上に跨っている人物を見て、彼は再び驚愕することになった。
彼が目にしたのは暗い室内には大よそ似つかわしくない黄金の髪、おそらくは錯覚だろうが、それからは金色の粒子が待っているようにさえ見える。やや小柄な彼女が着ているのはどこか見覚えのある白の可愛らしいワンピース、胸元には黄金色をした水晶のペンダントが輝いている。
そして、着ている服が霞むほど愛らしい顔と、髪の黄金よりもなお眩しい世界を照らす様な意思と光を秘めた瞳を持つ人物。
ノエルが知る限り、そんな人物は一人しかいなかった。
――綺麗だ。
ナイフを向けられて、今にも殺されるかもしれないというのに、ノエルが抱いた感想は最初と同じものだった。
そう、ノエルの上に跨り、ナイフを突きつけている人物は……否、その女の子は、昨日彼が路地裏で助けた少女だったのだ。
自分が今どういう状況に陥っているのかも忘れ、まるで初めて目にする美しい絵画に見入るように、彼が少女を茫然と見つめていると、
「何を見ている?」
目を細め、黄金の眼光でノエルの全てを射抜いてくる少女。
彼は、少女のたったそれだけの行為で恐怖と畏敬、そしてわずかな好奇心が同時に溢れ出してきて、頭が混乱状態に陥ってしまう。
「ぼ、僕は……えっと」
「落ち着いて喋れ、何を言っているかわからん」
「は、はひ!」
ノエルのそんな様子を見た少女は「……はぁ」と溜息ひとつ、「うむ、わたしから質問させてもらおう」、ややあきれた様子でそう言いながら質問を始める。もっとも、ナイフを常に突きつけているため、その様子は質問というよりは、尋問のようだったが。
「まず一つ目の質問だ、お前は何者だ? そしてここはどこだ?」
――一つ目の質問って……二つしてるじゃないか。
ノエルはさすがに状況に慣れてきたのか、若干余裕が見え隠れするとも取れる感想を抱きながら、なるべく少女の目を見ないようにしながら話し始める。
「ノエル、僕の名前はノエルです……それで、ここは僕の家で……だから」
「だから?」
「……っ、なんでもないです」
「うむ、はっきりしないヤツめ。まぁいい、それでノエル」
いきなりの呼び捨てにノエルは腹が浮くような不思議な感覚を覚えたが、決して嫌なものではなかった。
「なぜわたしはここにいる? わたしの記憶によれば、わたしは……」
少女は言いかけた言葉を飲み込むと、再びノエルへと話を振る。
「とにかくだ、答えろ」
「答えろと言われても、君が……」
「待て」
ようやく話し始めたノエルだったが、少女の言葉に出鼻をくじかれてしまう。
――話せって言ったり、話すなって言ったり、僕はいったいどうすればいいんだ? というか、いつになったらナイフをどけてくれるんだろう? いや、それ以前にどけてくれる気はあるのか? 僕はこの状況から命を持ったまま脱出できるのか?
「メルトだ」
「え?」
ノエルが己の身の処遇を気にしていると、そんな思考の隙間を縫うようにして聞こえてくる彼女のどこか愛らしい凛とした声。
「わたしの名前だ。君ではなくメルトと呼べ」
「あ、はい」
「…………」
「…………」
「…………」
ノエルとメルトの間に横たわる重い沈黙。
沈黙に耐えかねたのか、ノエルは「あの」と声をかけようとしたが、その必要はすぐになくなる。
「どうした? なぜ黙っている? それとも、わたしがここいることについては、何か話したくない理由でもあるのか?」
そこでようやくノエルは、まだ話がつながっていて、今喋らなければならないのは自分なのだと気が付く。
「違います。えっとですね……昨日僕が働いていたらメルトさんが」
緊張に若干言葉を詰まらさせつつも、ノエルは必至にメルトに状況を説明していく。その過程で、自分が怪しいものではなく、敵意のようなものは持ち合わせていない事も話すのも忘れない。
そうしてノエルが出来うる限りの説明をし終えたころ、言いかえれば病院での仕事には絶対に遅刻したであろう時刻、要するに一時間近くが経過して、メルトはようやく敵意の具現と化していたナイフを下す。
「なんだ、ノエルはいいやつじゃないか、ならば早く言えばいいものを。最初に事情を説明してくれれば、わたしだってこんなことはしなかったぞ? うむ、おかげで恩人に酷いことをしてしまったではないか、どうしてくれるのだ?」
――どうしてくれるも何も、最初に僕が何か言おうとしたら「黙れ」って脅してきたのはそっちじゃないか。
ノエルは内心そう思うものの、再び敵意とともにナイフを向けられてはたまらないので、内心言いたい事ををグッと我慢して、現状言っても差し障りがないであろうセリフを選択する。
「とりあえず、どいてくれないかな?」
「うむ? おぉ悪かったな、忘れていたぞ!」
メルトは辺りを照らすかのような無邪気な笑顔で微笑むと、ベッドの上……そのまた上に寝ているノエルの上から床へと、勢いよく飛び降りる。
「ぐえっ」
「うむ? カエルのような声を出してどうしたのだ?」
メルトが下りる際に腹を思い切り押されて出た声だったが、別にそんなことでいちいち文句を言うような人間でもないので、ノエルは「別に何でもないです」と言いながら、自らもゆっくりとベッドから降り、メルトから少し離れた位置に立って言葉をつづける。
「えっと、メルトさんは……その、怪我は大丈夫なんですか?」
「怪我?」
ノエルは頷き、メルトの脇腹を指さしながら「脇腹の傷、結構酷そうでしたけど」と、告げる。
「この傷か? うむ、確かにひどい傷であったが、応急処置もしっかりとしたし……何より、適切な処置もしてくれたのだろう? 要するにノエルのおかげだな」
助かったのは自分のおかげ。
そう言われてノエルは僅かに照れながらも言葉を返す。
「いえ、そんなことないです。病院に運んだ時には消毒以外必要なかったくらいなんですから……でも、その傷跡はどうしたんですか?」
ノエルの脳裏に浮かんだのは、ローブを貫通していたまるで何かで刺したかのような傷跡。そう、あくまで傷跡だ。なにせ彼が見た時には傷跡は焼け跡のようになって塞がっていたのだから。
「まぁそんなことはどうでもよいではないか! ところでノエル、わたしはお前に礼をしたいぞ!」
「お礼?」とノエルが聞き貸すと、メルトは弾けんばかりの笑顔で「うむ!」とうなずく。
「ノエルがどう思っているにしろ、わたしがお前に助けられたのには変わりない。ノエルは命の恩人だ!」
「……恩人」
少し大げさすぎる気がしたが、悪い気分ではない。人から「命の恩人」だと言われて、悪い気がするわけがない。
「そこでだ」
自分の照れを隠すように下を向いていたノエルの思考を、断ち切るように発言したのはまたしてもメルトだった。
「先ほどの礼の話に戻るが……ノエル、わたしの夢を一緒に追わせてやろうではないか!」
まるで指揮者のように自信満々と、そして見ているものを惹きつけてやまない優雅さをも併せ持った動作で、勢いよく両腕を上へと振るメルト。
彼女に対し、ナイフを持っていたりと物騒な人物という印象を持っていたノエルだったが、こうしてみると年相応の少女に見えて、ただでさえ可愛らしい顔をしている彼女が余計に可愛らしく見えてくるので不思議だ。
かといって彼女のことを黙ってみているわけにもいかない、そんなことは照れ屋のノエルにはまず不可能なので、「夢って何?」と返答を返しておく。彼にとっては話の間をあけるのを回避するためにした、とりあえずの返答だった。だがしかし、その一方で彼女の夢とはどんなものなのか。そんな意図も確かに存在する質問でもあった。
この時、ノエルはまたしても不運命のようなものを感じた。言葉では到底説明できない感覚だが、それは確かに彼の中に存在している。
――今から聞かれる話は致命的だ。
――きっと僕の運命を致命的に狂わせる……でも、
――聞きたい。
聞いてみたい。と、ノエルはそう思ってしまった。
「よく聞いてくれたな! わたしの夢は太陽を見ることだ……いや、言い換えよう」
そこでメルトは両手を下し、胸の前で何かを守るかのように優しく、そしてゆっくり手を重ねて目を閉じる。何かに祈っているかのようにすら見える彼女は、触れてはならないもの……触れれば容易く壊れ、穢れてしまうような神聖なものに感じられた。
「わたしはこの世界に光をもたらしたい! 常に雨雲に閉ざされ、暗く雨音に満たされた世界に、太陽の光をもたらしたいのだ!」
「……タイヨー」
「うむ! ノエルは太陽を知っているか?」
「いや……知らない」
聞いたこともなければ、どんな単語なのかも知らなかった。しかし、
――知りたい。
気が付けばそう思っていた。
どんなものなのか見当もつかないにもかかわらず、それでもノエルは太陽に興味を持った。
「ならばわたしが教えよう!」
嬉しそうに説明するメルトの笑顔が眩しくて、ただ彼女の話を聞いていたくて……そして、彼女をここまで高揚させる太陽というものが、いったいどんなものなのか知りたくて。聞きたいと思った理由はただそれだけの事だったのかもしれない。
語るたびに身振り手振りをつけ、メルトの話は続く。
「ノエル、お前は空を、本物の空を見たことがあるか?」
「本物の空? それってどういう意味?」
――本物も何も、空って雨雲のことだよな。それ以外に何かあるのかな?
「その様子では知らないようだな……王家が情報統制している世の中では仕方がないことか」
「え?」
メルトは後半、小声で何か呟いたようだったが、ノエルにはよく聞き取ることができなかった。
「うむ、まぁよい。今は太陽についての説明だ! 先ほどと似たような質問を繰り返すが、お前は空を見たことがあるか?」
「僕は……」
その時、ノエルの脳裏に昨日の朝、自分が考えたことがよぎる。それは、
――もしもあの分厚い雲がなくなったのなら、そこにはいったいどんな景色があるんだろう?
「あるんですね?」
「…………」
ノエルの質問にメルトは試す様な無言を返す。
「あの雨雲の向こうにはさらに空がある。メルトさんはそれを本物の空って言ったんですよね?」
「うむ、察しがよいな。もっとも、本物の空がどんなものなのかは、わたしも知らない。しかし、そこに何があるのかは知っているつもりだ」
ノエルは昨日、現実逃避気味に考えていた自分の空想……否、こうであったらいいのにという願望が、突然光が当たったかのように照らし出され、得も言われぬ高ぶりを覚える。
そんな彼の様子に、まるで自分の子供を見るかのような満足げな表情を浮かべるメルト。
「雨雲の向こうには太陽がある」
再び出てくる不思議な響きの単語。不思議に聞こえるのはノエルが、それをどんなものか知らないかだろうか。それとも単語自体が、人を惹きつけるような引力のようなものを有しているのだろうか。彼は後者であると感じた。
――タイヨー、何だか暖かい響きだな。
「うむ、そもそもノエルはこの世界がどういうものかを知っているか?」
「どういうものかって言うのは、どういう風に成り立っているかですよね?」
「うむ!」
「少しくらいは知ってます。まずこの世界は地続きの平面で、空という空間に浮かんでいるんですよね?」
ノエルが確認をとるようにメルトの顔をうかがうと、先を促すかのように目でうなづいてくれる。それに僅かな勇気と自信をもらった彼は言葉をつづける。
「この世界は上下左右、余すとことなく雲……雨雲に覆われています。それで、雨雲からは一年中絶えることなく雨が降り続いている」
「……終わりか?」
「あ、はい」
ノエルは知っている限りのことは語ったと思い、もう一度自分の頭の中の辞書に検索をかけてから「一応」と、自信なさげにこたえる。
「うむ、上出来だな……しかし、やはり本質を知っていてはいないようだ。もっとも、わたしも正確に本質を理解しているわけはないがな」
メルトはそこで言葉をいったん区切ると、右手を大仰に払いながら言う。
「この世界は偽りの世界なのだ! いや、この世界の王が世界のあり方をゆがめてしまっている! ノエル、この雨は自然に降っているものではない! 人為的に降らされているものだ……そして、その人物がこの世界の王、王都フォート・レインの女王だ!」
「え……ちょ」
いきなり多くの情報を詰め込まれて、頭が破裂しそうになるノエルだが、彼女はそんなことを気にせずにマイペースで言葉をつづける。
「あの作られた雨雲の向こうには本物の空がある! そして、そこには太陽がある……この世の全てを照らし、世界中の寄る辺のない者たちを暖かく包み込む優しい光を放つ太陽があるのだ! わたしはそれを見たい! その光をこの世界に取り戻したい……それが、それこそがこのわたし、メルトの役目だ!」
まるで彼女こそが王であるかのような力強さ、まるで自分の子供に向けるかのような世界へ慈しみ……そして、聞いているだけで身を焦がしてしまいかねない、紅蓮のような夢への情熱。
――きっとこういう人が世界を、そして人を変えていくんだ。
脈絡もなく、ノエルはそう感じた。目の前にいる彼女、暴力とは違う種類の圧倒的な力を有した彼女、メルトを見て彼はそう感じだ。
「わたしは回りくどいことが嫌いなのでな……率直に言おう、わたしはテロリストだ。この世界を変えるために王家相手に戦っている。どうだろうか、ノエルもわたしと共に来ないか?」
差し出される右手。
――テロリストって……いや、今はそれよりも。
――この手を取れば、きっと僕の全てが変わる。それはきっと僕の望んでいたことだ。
――だとしたら、今ここでするべき僕の答えは、「
●●●
「……すみません、少し考えさてください」
――ダメだ。
本当はすぐにでもその手をつかみたかったノエルだったが、いざ今までとは違う日常に、目の前が未知の暗闇の閉ざされた世界へと踏み出すのに踏ん切りがつかず、話を引き延ばす形にしてしまった。
きっとメルトも気を悪くしているだろう。だがそう考えていた彼の想像とは裏腹に、メルトは何も気にしていないかのような無邪気な様子で、
「うむ、急な話だったな。ゆっくり考えてくれ」
そんなメルトの様子を見ていると、なぜか心が締め付けられ「本当にすみません」と謝ってしまう。
「何を謝っているのだ? わたしには謝られる理由が思い当たらないぞ」
「あ……」
「?」
ノエルの妙な反応に、頭の上に疑問符でも見えるかのように首をかしげるメルト。
妙な間が出来てしまい何やら息をしづらい空気になってきたので、話を変えようと新しい話題を振ろうと、彼は必至に話を探す。
「そ、そういえばですけど!」
「うむ?」
「その怪我ってどうしたんですか?」
どこか怯えたような視線を向けたのは、メルトの腹部にある件の傷跡だ。
「これか? うむ、これは昨日フォート・レイン城が逃げだすときに油断してやれてしまったのだ」
「城から逃げ出す?」
「言っていなかったか? わたしは昨日フォート・レイン城にちょっとした用があってな、忍び込ませてもらったのだ。それが運悪く、目標を達成する前に騎士に見つかってしまったのだ……詳しく聞きたいか?」
「あ、いえ……大丈夫です」
――そうだ、メルトさんはテロリストなんだ。彼女を見ているとうっかり忘れてしまうけど犯罪者なんだ。そんな彼女の目標とかを詳しく聞いちゃったら、後戻りできなくなりそうだからな、ここは聞かない方がいいよな。
「それよりそれよりメルトさんは何で、タイヨーとかについて詳しいんですか? 僕なんてそんな単語が存在すること自体、今日まで知りませんでしたよ? それに空のことも、何であの雨雲が作り出されたもので、その向こうには本物の空があるって知っているんですか? 僕はてっきり空という空間全てを雨雲が覆っているんだと思ってましたけど」
「わたしが知っている理由か……ノエルはわたしが嘘を言っているとは考えないのか?」
挑むような、もしくは何かを試す様な目つきでこちらを見るメルト。しかし、ノエルはそれを気にした風もなく、あっさりと自ら感じた事実を返す。
「本当のような気がしたんです。メルトさんが言っていることは本当のことだ、そんな気がしたんです。完全に僕の直感なんで、理由とかはよくわかりませんけどね」
ノエルは「あはは」と頭を掻きながら笑う。
「おかしなやつめ、だが嬉しいものだな……まぁよい。さて、わたしがそれらの事を知っている理由だったか?」
彼女はそこでいったん話を打ち切るかのように目を閉じ、深く息を吸って長くゆっくりと息を吐く。
そんな動作だけで、これからただならぬ話がされるのではないか。と、ノエルが感じるのも無理がないほどのプレッシャーを放っていた。
どれくらいたった頃だろう、自分の中で話がまとめ終わったのか、彼女が目を勢いよく開く。
「うむ!」
「……っ」
空間を支配する妙な緊張感に汗が出始める。
「小さい頃に書斎で読んだのだ、それだけだ」
「え」
――書斎で読んだって……あれだけ溜めてそれですか? というか、そんな事が書かれた本が存在していることにも驚いた。
「まぁ本当はもっとややこしい話なのだが、掻い摘んで話すとそんな感じなのだ。さすがにまだ仲間でない者に、詳しいことは喋れん。そこはどうか勘弁してほしい」
――それはいいんだけど、メルトさんの言い方だと、いずれ僕が彼女の仲間になるのは決定事項になっている気がする。その一点がすごく気になる。
「って、あ!」
「うむ?」
「仕事の事忘れてた!」
――まずい、ただでさえ遅刻確定なのに、ノンビリと話し込んじゃった……殺されるかもしれない。ヴェロニカさんだったらやりかねない……いや、殺りかねないから本当に怖い……何か言いわけでもあればな。
「その仕事というのは例のヴェロニカのところか?」
「そうだけど、何で?」
火が付いたかのような速度でリビングまで行き、メルトに見えないであろう位置で着換えを開始するノエル。そんな彼に彼女は一言、
「わたしも行こう」
「え、動いて大丈夫なの?」
「うむ、問題ない。それにヴェロニカにも礼を言いたいところだしな……これはついでだが、わたしも行った方が、ノエルが怒られる度合いも少しは減るのではないか?」
「うぐっ」
自分がさっき考えていたことを、心を読んだかのように言い当てられ言葉に詰まるノエルだったが、すぐに「じゃあ、お願いします」と返答する。
「気にすることはないぞ、わたしが行きたいだけなのだからな」
こうしてノエルとメルトの二人は一つの傘を二人で使い、心なしいつもより暖かく感じる雨の中へと踏み出したのだった。
「あぁそういえばノエル、太陽の発音が違うぞ。『タイヨー』ではない、『太陽』だ」
彼女との会話は、彼にとってとても新鮮なものに感じられた。
●●●
「なるほど、だから何だ? 許してくださいってか?」
場所はヴェロニカが営んでいる病院、その一室。現在そこにいるのは患者用のベッドに人を殺せそうな顔をしながら座るヴェロニカ、その真正面の床に正座しているノエル。そして最後に、少し離れた壁に寄りかかっているメルト。
「ふざけんな! お前が来なかったせいで、掃除を俺がやったんだぞ!」
「掃除くらい……」とノエルが細々とした声で言うが、「あぁ!?」とすごまれすぐに言葉を引っ込める。
――ヴェロニカさん掃除できるなら、普段から手伝ってくれればいいのに……でもそうか、だから今日のヴェロニカさんはエプロンつけてるのか。
「似合わねぇってか? 誰のせいで俺がこんな恰好してんのかわかってんのか!?」
「ひっ……そ、そんな事言ってないじゃないですか!」
と、ノエルが怒られているのが可哀想になったのか、もしくは別の理由でもあったのか。病院に入ってそうそうに礼を済ませ、今まで会話に参加せず、二人のやり取りを見て笑いを必死に堪えていたメルトが仲裁に入る。
「あまりノエルを苛めないでやってくれ、ノエルが仕事に遅れたのは私のせいでもあるのだ」
必死に笑いを堪えていたせいか、輝くように美しい黄金の瞳には涙の滴が見て取れる。彼女はそんな瞳を片手で拭いながら、ノエルの横まで歩いてきて続ける。
「ノエルは朝からわたしの看病をしていてくれたのだ」
メルトは自らの胸を誇らしげにはり、その胸に片手を当てて「うむ、感謝だ!」などと言っている。しかし、
「……看病だ?」
ヴェロニカが攻撃対象を変更したかのように、その胡散臭そうでいて獰猛な視線をメルト向ける。
たったそれだけの動作で並の人間ならば、精神の牙城を崩されてしまいかねないほどのプレッシャーを放つヴェロニカ。にもかかわらず、メルトは平然とした佇まいで……それこそ、突き刺すような激しい暴風雨の中で傘をささずに悠然と歩くかのように、真正面からプレッシャーに挑む。
「うむ、看病だ。何かおかしな点でもあるのか?」
「…………」
「…………」
しばしの沈黙、流れる時間、弾ける不可視の火花。
――胃が痛い。ヴェロニカさんをあまり挑発しないでくれよ。どうせ最終的に僕にイロイロと付けが回ってくるんだから。
戦場と化したかのような病院の中、ノエルは自らのストレスが天井知らずで溜まっていくのを感じた。このままいけば比喩ではなく、本当に胃に穴が開きかねない。
「メルトと言ったな?」
「うむ」と言って、腕を組みながら試す様な視線で「それが何か?」と返すメルト。
「いいことを教えてやろう」
「良いこと? うむ、それは助かるな。ぜひ聞かせてもらおう」
「まぁ大したことじゃないんだどな……てめぇは看病が必要なほど衰弱してねぇだろうが! 昨日の発見された時点ならいざ知らず、なんだてめぇ……今現在、全然元気だろぉが!」
「うっ……むぅ」
ビシっと音が聞こえるほど指を突きつけられ、ついに超然としていたメルトの牙城が崩れ始める。
「てめぇは俺を舐めてんのか? 仮にも俺の患者だろうが! 医者に意見してんじゃねぇ! だいたい何が『ノエルを苛めるな』だ……苛めてねぇ! キレてんだよ! しかも自分は無関係だとでも思ったか? あぁ!? もしそうだったら残念だったな、ノエルの後はどっちにしろてめぇにもキレるつもりだったんだよ! 下らねぇことでこいつを遅刻させやがって……怪我人だからって調子にのってんじゃねぇぞ!」
「あ……ううぅ」
途切れることのない豪雨のようなヴェロニカの怒声に怯んだのか、目を真ん丸と見開き、メルトは口を金魚のようにパクパクとさせてしまっている。だがそれでもヴェロニカの口撃はあ止むところを知らず、メルトへと雨のように降り注ぐ……その一声一声にノエルへの鬱憤が詰まっているかのように。
「そうだな、いいことを思いついた。今からお前に働いてもらおうか? そんだけ元気なら何の問題も……」
「ふふっ」
「……あぁ?」
突如メルトから聞こえた小さくも威風堂々とした何かを感じさせる笑い声に、ヴェロニカの口撃がようやく止む。
「いや、すまない。人にここまで怒鳴られたのは初めての体験でな、思わず笑みがこぼれてしまった。うむ、それにしてもヴェロニカは面白いな」
「褒めてんのか? 今更何を言ったって、おせぇぞ? 俺は一回キレたら相手が泣くまで絶対に許さねぇ……それがあたしの誇りであり、通すべき信念だ」
――うわ、どうしようもない信念だな……というか、僕はよくヴェロニカさんの下で働いてこれたな。
ヴェロニカの言動に対し、ノエルが引き攣る様な笑みを浮かべて内心引いていると、再び聞こえてくる声、旋律のようなその声の持ち主は、
「うむ、本当に面白いな……どうだ? わたしの仲間になってみないか?」
「は? なるわけねぇだろ」
差し出される手をそっけなく無視して即答するヴェロニカ。
「そうか、それは残念だ……だが」
「ノエルは頂いていくぞ?」
まるで自分の物であると主張するかのように、ノエルの頭をふわりと抱きしめるメルト。
「あ、あの……メルトさん?」
――いったい何でこんなことに!?
突然の抱擁にどう対処してよいかわからず、顔を沸騰させたやかんのようにしていると、ヴェロニカが急に立ち上がり「ちょっと待て」と、非常にドスの聞いた声で言う。彼女が不機嫌な理由は焼きもちを焼いているから……などという平凡な理由ではない。ただ単純に、
「そいつは俺のところで働いているんだ。要は奴隷だ、それを奪うつもりか?」
所有欲とでもいえばいいのだろうか? 彼女が怒っている理由はただ一つ、自分が所有し、体よく利用しているものを奪われることに対する怒りだ。おまけに、目の前で「今から盗みますよ」というような発言をされれば、ただでさえ短気な彼女が怒るのは無理のないことだろう。しかし、そんなことを全く気にしないかのような少女が一人。
「うむ、ノエルはわたしの物になるのだ。嘘だと思うのなら、確認をとってみるといい」
ヴェロニカは「ほぉ~」などと言い、口元を血に飢えた獣のごとく歪ませながら笑う。またその眼も猛禽類のように狂気に濁っている。そして、その狂眼に映し出されているのは……。
――あぁ、死んだ。
メルトの腕に抱かれ、人を落ち着かせるような優しい香りと、頭に当たる決して大きくはない柔かい小山の感触を楽しみながら、ノエルは思うのだった。
――ヴェロニカさんがこんなに怒ってるの初めて見た。きっとどんなことを言っても殺されるけど、最後まで僕はあきらめない! ヴェロニカさんの次の質問までに、最適解を導き出して見せる。
「なぁ、おい」
――来た!
緊張で心地悪い汗をかいているのがわかる。さっきまでメルトに頭に抱かれているという状況を、心のどこかで楽しんでいる余裕があったが、ここに至ってそんな淡い夢のような考えは吹いては消える霞の如く消え去った。
「お前の頭を優しくホールドしてるそいつが言ってることは本当か?」
――よく考えろ。僕はまだメルトさんの勧誘に対し返事はしていない、つまり!
「それは……」
「それは?」
最後の審判に挑むかのような心持で、この嫌な静寂にピリオドを打とうと口を開ようとすると、
引き裂くような悲鳴と、何かがぶつかって崩れ落ちるような音が外から響いてくる。
続いて聞こえてくるのは、ザワザワとした群衆がたてる特有の音。
「外からか!?」
三人の中で一番最初に反応したのは、先ほどまでノエルを抱きしめていたメルトだった。彼女は何が起きたのか一番最初に確認しないと気が済まないとでも言うかのように、それこそまさに風のように外へと飛び出ていく。
「め、メルトさん? 待ってください!」
ここがチャンスと言うわけではないが、ノエルも彼女に続いて勢いよく出ていこうとすると、
「ぐえっ」
何者かに襟を思い切り引っ張られ、息が詰まると同時にカエルのような声をあげて、後ろへと勢いよく倒れこんでしまう。「いてて……」と、今しがた打った頭をさすりながら起き上る彼に降ってきたのは、
「話の途中で、逃げるんじゃねぇよ」
無慈悲なヴェロニカの声だった。