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まただ、と思った。
病院のタコ部屋で寝ていたはずなのに、自分の部屋にいる。夢だ。その証拠に、自分の目の前には名前も知らないあの少女がいる。いつもはきっちりとセーラー服を着ている少女は、今夜は一糸纏わぬ生まれたままの姿で現れてくれた。
呼び出しを食らって跳ね除けられたシーツもそのままに、乱れたベッドの上、彼女は膝立ちで窓の外を眺めていた。
くびれた腰から、ぷっくりと膨らんだ形の良い尻のラインが綺麗だった。開け放たれた窓から風が吹き込み、僅かにウェーブした少女の黒髪を揺らしていった。そこに嗅いだ花のような香りが幻だとは信じられなかった。
田舎の夜は明るい。人工の光源が何一つ存在していないというのに、いや、存在していないからこそ、月明かりの下で少女の肌がこんなにもはっきりと見て取れる。きめ細かい白い肌が、匂い立つような色香を纏っている様は、何度見ても劣情を煽られた。
少女が振り返る。夢だと分かっているのに、笑いかけられると嬉しくてつい笑い返してしまう。腕の中に飛び込んできた少女を抱きとめ、背中に回した腕に力を込めた。
柔らかな肌がぴったりと寄り添ってくる。胸にあたる乳房の確かな弾力を確かめながら、自分の手の平は少女の体のラインを辿っていた。
ふいに、少女が体を放した。そのままベッドの上に身を横たえる。井崎は導かれるままに覆いかぶさった。互いの唇を合わせ、舌を絡め合わせていると、少女の脚が腰に巻きついてくる。
早く早くとせがむ少女の乳房に唇を寄せ、太腿の感触を確かめながらその頂を強く吸い上げた時、勢いよく扉が開いて誰かが入ってくる気配がした。それが夢なのか現実なのか分からないでいると、情けも容赦も色気も無く、肩をどつき回され目が覚めた。
「井崎先生! 起きてください! 急患なんです!」
唸りながら寝返りをうつ。眠たいというよりはむしろ、下半身で暴走している愚息をどうにかしたかったという方が本音だ。
「井崎先生! お願いします! 人手が足りないんです!」
何度も懇願され仕方なく目を開けると、目の前でナース服に包まれたDカップが揺れていた。必死の形相で自分に覆いかぶさっているのは野沢友恵だ。これはもしかして夢の続きか、などと淡い期待を抱いたのも束の間、次第にはっきりし始めた頭がようやく現実を認識し始めた。
「急患? え? 急患って? 今、何時だ?」
慌てて時計を見る。宿直をした翌日は休みか、二日続けて宿直するというシフトのはずだ。咄嗟に思い浮かんだのは寝過ごしたのでは、という考えだった。
「違います! 急患が立て続けで、人手が足りないんです!」
「なんだって?」
慌ててベッドから飛び降りると、弾みで肩が友恵の胸にぶつかってしまった。柔らかい感触が、下半身に衝撃を生んだ。「ごめん」と謝ったが、友恵はぶつかったことさえ気付いていないようだった。
「自損(自殺)です! 四十代の女性、アパートの三階から転落して重体。場所は中津です。受け入れ許可出してもいいですか?」
「いいよ。すぐ出るから」
井崎がはっきり言うと、友恵はどこかほっとした雰囲気を一瞬垣間見せ、微かな笑顔を見せてくれた。
「ありがとうございます!」
その笑顔が、またしても下半身に直撃した。走り去っていく友恵の後姿を見ながら、率直に「可愛い」などと思っていた。つくづく、友恵の恋人が羨ましくて仕方がない。
「ああ、もう!」
気を取り直し、深呼吸して高ぶった気持ちと下半身を落ち着かせた。これから集中力を最大限に使う仕事がやってくるのだ。凝り固まった肩の筋肉をほぐし、軽くスクワットなどしてみる。
「おっしゃ! 行くか!」
誰もいないタコ部屋を出て廊下を足早に進み、白衣を羽織って襟を正す。個人としての井崎健治から医師としての井崎健治へ、白衣一枚で意識が変化するのをはっきりと自覚する。
変身したからといって別に強くなれるわけではないのだが、それでも白衣を纏うと気持ちが引き締まった。それは、学生時代に初めて白衣に袖を通した日から変わらない。
緊急搬送の連絡がしっかりと伝達されているらしく、廊下をすれ違う看護師たちは誰もが皆、プロの顔で足早に歩み去っていく。不謹慎かもしれないが、井崎はこの緊急搬送を待っている間の緊張に張り詰めた空気が嫌いではなかった。
「井崎先生、飛び降りが来るって本当ですか?」
搬送口の傍で腕組みをしながらその到着を待っていると、口の端にマヨネーズを付けた研修医の大崎が余裕の無い顔で現れた。
「遅いぞ! なんで俺の方が早いんだ」
「先生が早すぎるんですよ。帰ったんじゃなかったんですか?」
「言い訳はいいから、とりあえず口を拭け」
マヨネーズを指摘してやると、大崎は慌てた顔で口を拭っていた。
「やれやれですね。俺、どうも自殺患者を扱うのって苦手です」
一息つき、大崎はふいにそんなことを言い出した。
「まだ研修医の俺がこんなことを言っていいのかどうか分かりませんけど、何ていうか、必死の思いで死のうとした人を何で必死に助けなきゃならないんだろうって思うんです」
どう答えたものかと井崎が黙っていると、大崎は更に続けた。
「死にたいヤツなんか死なせてやればいいじゃないですか。ERのベッドはあとひとつしかないんですよ? 自殺患者を受け入れてる間に別の急患が来たらどうするつもりですか? いくら総合医療センターのERは緊急搬送を決して断らないと言っても、ベッドと人材には限りがあるんです。この状況、笑うしかないですよ」
笑うしかない、と言う大崎の顔は全く笑っていなかった。
「自殺するなら誰にも迷惑かけないでやるべきなんです。不慮の事故や思いがけない急病の人のために、ERはあるんじゃないんですか! まだ生きたいって思ってる人がいて、ここに運ばれてきたら助けられる確立が高いのに、自殺患者を受け入れたせいで、別の誰かが死ぬなんてこと、そんなのおかしいですよ!」
感情が爆発したように叫ぶ大崎を、井崎はただ真っ直ぐに見据える。大崎はぐっと言葉に詰まった様子で、小さく「すみません」と口にした。井崎は小さく溜め息をつく。
「こういうことは今までにも何度かあった。状態のいい患者さんに他の病棟に移ってもらって対応する。患者の状態がどうであれ、今の状況では、こっちに患者のサルベージ(選別)をする権利はない」
はっきりと言ってやれば、大崎と同じ研修医である蓮見が薄く笑ったのが見えた。蓮見は普段、井崎と馬が合わない大野に張り付いていることが多いが、今日はどうやら単独での当直であるようだ。
「そういう考え、いかにも井崎先生っぽいですよね。単純っていうか、なんていうか」
普段は会話らしい会話さえしない相手の皮肉な口調に、井崎は微かに苛立ちを覚えた。
「何が言いたいんだ、お前」
苛立ちを隠せずに、少しばかり荒い口調で問いかけると、蓮見は自嘲するように笑った。
「別に。何でもないですよ」
気のない返事に、井崎は腕組みをしながら、壁に寄りかかった。
「言いたいことがあるなら、ちゃんと言えばいいんだ。陰でコソコソ言われるのは、腹が立つ。なんなんだ、さっきから」
「……そういう正義漢ぶってるところが嫌われるってことですよ。少しは自覚したらどうなんですか?」
「正義漢ぶってる気はない。そう見えるなら、そう思ってくれていい。ただし、仕事には出すな。緊急患者は緊急患者だ。怪我や病気の原因は関係ない」
再び、蓮見が鼻を鳴らす。それに反応したのは大崎だったが、井崎は身振りだけで、大崎を止めた。これから緊急患者が運ばれてくるのだ。大野派の蓮見と喧嘩しているような場合ではない。
「どうやらボクは必要なさそうですね。井崎先生がいれば充分でしょ? 役不足ながらも大崎だっているし」
その場にいた一同が唖然とする中、蓮見は小馬鹿にしたような顔をして、さっさと踵を返してしまっていた。
「人手が足りなくなったら呼んで下さい。まあ、井崎先生に限って、そんなことはないと思いますけど」
悠々とした足取りで立ち去っていく蓮見を見やり、井崎は思わず「馬鹿馬鹿しい」と口走っていた。大崎が僅かに顔色を変える。
「くだらないな。何をそんなに拘っているんだか。派閥なんか作ったところで意味はないし、仕事がやりにくくなるだけだろ」
「そういう問題じゃあない気もしますけど」
珍しく大崎が言い返してきたので、井崎はほとんど無意識に身を乗り出した。
「そういう問題じゃないって、どういう意味だ?」
聞かれて、大崎は困ったように黙り込む。そこへ、ベテラン看護師の盛大な溜め息が聞こえてきた。
「仕方ないですよ。井崎先生は“右がダメなら、もういっかい右!”って人だから」
看護師の言葉に、井崎を除いたスタッフの顔に笑みが浮かぶ。
「ちょっと待て。右がダメなら、もういっかい右! って、何の解決にもなってないじゃないか、それ」
「解決になってなくていいですよ。井崎先生はそういう人だから、たぶん説明しても分かりません」
「それはいったい、どういう意味ですか」
看護師に詰め寄ったところで、闇を切り裂き、救急車の赤色灯が乗り込んでくる。井崎の頭から、余計な雑念が一斉に掻き消えた瞬間だった。