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「ああもう……ツイてないわあ、ホントに」
頭上から容赦なく照りつける真夏の太陽に、じりじりと肌が焼けていくのを感じる。毎日毎日、これだけ強烈な紫外線に日がな一日晒されているのだ。どれほど優秀な日焼け止めを塗っても、肌がどんどん劣化していくのは避けられない。
高梨夢乃は大きな溜め息をついた。気を抜けば泣きそうになる。
「やってらんないわ。どうしてキャリアの私が、たかが万引きのために出向かないといけないのよ!」
「はいはい、そうっすね……」
高梨より三つ年下の前原が額の汗を拭いながら、呆れた顔を向けてきた。その表情に苛立ちが募る。年下のくせに……。
「だいたい、何なのよ! 別に金に困ってるわけじゃないのに、なんで万引きなんかするわけ?」
「高齢者の万引きは全国的に増加傾向にあるんですよ」
前原は付き合いきれない、とばかりに溜め息を零した。
「それくらいは知ってるけど」
慌てて言ってみると、前原が再び溜め息を落とす。どうやら知らなかったとバレ
ているらしい。
「不思議なモンですよね。たいてい万引きする高齢者は、寂しかったからやったんだって言うんですよ。全国的には高齢者が増えてるっていうのに。高齢になると人間関係もボロボロになるんですかね」
「結婚しようかな」
「は?」
唐突に高梨が口にした言葉を聞いて、前原は露骨に眉を潜めた。その表情を見て、少しばかり泣きたい思いに駆られた。自分だって三十二歳。女盛りなのだ。あからさまに「対象外」認定されると、さすがに心が傷つくというものだ。
「私、刑事に向いてないみたいだし。結婚して家庭に入って普通の主婦にでもなってみようかなって思ったんだ。刑事の仕事は好きだったんだけどさ……」
「高梨さんの人生なんですから、好きにしたらいいじゃないですか」
突き放すような物言いが、胸に重く圧し掛かる。
「つーか、何で俺に言うんですか」
トドメを刺された気分だった。沈黙が二人の距離を埋めていく。だめだ。空気が悪くなってしまった。
「やーめたっ!」
唐突に、高梨は叫んだ。隣にいた前原だけでなく、道行く通行人までもが、何事かと振り返る。気にせず、高梨は笑った。
「私、やっぱり刑事の仕事、続ける! なんか、こんなところで投げ出したら何にもならない気がするもの! せっかく小さいころからの夢が叶ったんだし、もうちょっと大事にしてみる!」
「はあ……」
前原の顔に、面倒くさくて堪らないと書いてあるのがよく分かる。高梨は敢えて声を上げて笑った。
「前原君の長所は真面目なところだけど、短所も真面目すぎるところだ! もうちょっと緩く楽しく生きてみたまえ!」
「……高梨さんの短所は楽観主義なところですが、最高の短所もまた楽観主義なところですよね」
「おいおい! 短所しか指摘してないじゃないか!」
後輩の背中をどつきながらツッコミを入れると、心底嫌そうな顔をされた。だが、当然気にしない。なぜなら、それが自分の取り柄だからだ。元気よく両腕を振って歩き始めた高梨を、前原が溜め息交じりに追いかけ始めた。
「ねえ、あの人、なに?」
その人物を見つけたのは、昼を完全に回ったころだった。
子供たちの歓声が響き渡る公園を、派手な金髪の女がフラフラと横切っていく。女の存在に気付いたらしい主婦たちが、談笑をやめて露骨に眉をひそめた。
「なんか、場違いですね」
前原も僅かながら関心を引かれたらしい。その視線は公園を歩いていく女に釘付けだ。前原が興味をひかれたのは刑事としての本能ではなく男としての本能なのかもしれない。高梨はふとそう思った。
女はショッキング・ピンクのキャミソールに、今にも下着が見えそうなほど短いデニムのスカートを履き、二十センチはあろうかというサンダルを履いて、ヒヨコのような頼りない足取りで歩いていた。その肌は真っ黒に日焼けしていて、痛んだ髪には赤や青の付け毛をところどころに引っ付けていた。
「あれ、俗に言うコギャルってやつじゃないの? 十年前の流行だよ。今時、あんな格好してる子、いるんだ」
「……まあ、田舎の方じゃあ、東京の流行が数年遅れでやってくるっていう現象が頻繁に起こりますから」
前原の指摘に、思い当たるふしのある高梨は無言で頷いた。
「追いかけてみますか? なんか、様子が変ですよ」
「うん、そうだね」
高梨は、女が酒に酔っている可能性を疑った。それほど、女の足取りは各策なかった。未成年者の飲酒は法律で禁止されている。刑事の端くれとしては、見逃すわけにはいかない。二人は無言で頷きあい、女の後を追いかけた。
「この公園、夜になったらガラの悪い連中とかホームレスが集まるらしいですから。注意が必要ですよ」
言われて、女が酒に酔っているのではなく、ドラッグに酩酊している可能性に思い当たった。こんな田舎でまさかとは思うが、麻薬であれば酒より数十倍も数百倍もたちが悪い。高梨は表情を引き締めた。
急ぎ足で、女の後を追う。公園に足を踏み入れた二人に、再び主婦たちの視線が集まった。今の自分たちはどう見えているだろう。ふとそんなことを考えた。制服ではないので、一見しただけでは警察とは分からないはずだ。
恋人同士だと思われているとしたら、何となく嬉しかった。前原は、性格はともかく見た目はイケメンの部類に入るのだ。それはそれでおいしいシチュエーションだと思う。
「すみません、お姉さん!」
高梨の心中を知ってか知らずか、走り出した前原が女を呼び止めた。主婦たちにも充分聞こえる距離と見える距離で、こういう者ですが、などと言いながら警察手帳を取り出した。女が振り向く。その顔を見て、高梨も前原も絶句していた。
「さ……!」
咄嗟に「サルの惑星」と言いそうになって、寸でのところで言葉を飲み込んだ自分を、高梨は自分で偉いと思った。女は服装こそ十年前の十代だが、顔の年齢は少なくとも四十代かそこらに見える。世に言うところの「美魔女」だ。だが、実物はテレビで見る以上にとんでもない代物だった。
「何か用?」
酒焼けした声が鼓膜を震わせた。どう頑張っても十代の声ではない。様々な思いが全身を駆け巡っていったが、高梨は自称ベテラン刑事のプライドで何とか態勢を立て直した。
「いえ、フラフラしてらっしゃるようでしたので、どこか体の具合でも、と思いまして。市民の役に立つことが私たちの仕事ですから。ねえ、前原くん」
「そ、そうです。大丈夫ですか?」
引きつりそうになった表情筋を意志の力で必死にほぐしながら、差し障りのないことを聞いてみる。刑事としては失格かもしれないが、本音を言えば、この自称・十年前の十代が麻薬漬けでも、どうでもよかった。だが、さすがに声をかけてし
まった以上、このまま何事も無かったように素通りするわけにはいかない。
「別に。平気よ。ちょっと飲みすぎたくらい」
じろり、と睨みつける三白眼に、背筋を冷たいものが流れていく。
「そうですか。それは失礼いたしました。どうぞお気をつけて」
声だけは爽やかに、前原がそんな言葉を口にする。そして彼は颯爽と踵を返してしまった。前原もまたあまり関わりたいとは思わなかったらしい。珍しく意見が一致した。
「高梨さんも否定派ですか、美魔女」
「いや……今日まであんまり考えたこと無かった。だけど、ちょっと考え方が変わったわ。綺麗な人は綺麗らしいけど、大半の四十代はやっぱり四十代だよね。十代の服装だけしても……」
「その人なりの生き方があるんだから他人がどうこう言っても仕方ないと思いますけど、自分の母親がもしあんな感じだったら、本気で殴るかもしれない」
主婦たちの冷たい視線を浴びながら、二人はそそくさと公園を横切った。とんでもないモノを見た、といわゆるお祭り気分で浮き足立っている高梨に対し、前原はなぜか表情が優れなかった。
「自分が生きてきた時間とか、積み重ねてきた経験を否定して何が楽しいんでしょうね。まあ、年を取りたくないって気持ちは分からないでもないですが」
前原の指摘は辛辣だった。
高梨は彼の言葉を聞いて、年甲斐も無く購入を予定していた淡いピンクのワンピースの購入を見送る決意を固めた。デザインの可愛らしさだけに惹かれてしまった。自分に似合うかどうかまで考えていなかった。あやうく一万円も出して恥をかくところだった。
「女はみんな、いつまでも若く綺麗でありたいんだよ。だって、男から見た女の価値ってだいたいそこに集中するじゃん」
「否定はしませんけどね。だけど、無理すればするほど他人から見れば滑稽ですよ」
手厳しい、と言おうとしたその時、つい先ほど後にしたばかりの公園から凄まじい悲鳴が上がった。高梨と前原は反射的に走り出した。刑事としての本能が事件を告げている。
二人は全速力で公園を走りぬけた。反対側の出口の向こうには片側一車線の道路があり、その向こうには三階建てのアパートがある。その場にいた人間の視線は、そのアパートの屋上に集中している。
「さっきの美魔女じゃん!」
「高梨さん、万が一のために救急車! それから応援!」
「え? ちょっと、待ってよ!」
高梨が言いかけた時にはすでに、前原は道路を横切り、アパートの中に突入していた。アパートの屋上では、今にも美魔女がフェンスを乗り越えようとしている。人だかりが増え始めた。
高梨はどうしたらいいか迷い、とりあえず言われた通りに携帯電話を取り出す。一一九をタップすると、すぐに繋がった。緊張のあまり、口の中が干上がっていく。
「あ、すみません、救急車をお願いします! まだ怪我人じゃないんです。アパートの屋上から飛び降りそうになってる美魔女がいるんです。下はアスファルトなんで、その……」
応対に出た男性に事情を説明していたその時、サルのような身振りでフェンスを乗り越えた美魔女が、そのまま空中に飛び出してしまった。その行動に、一切の逡巡は無かった。集まって来ていた野次馬たちが息を呑む。フェンスの向こうに、前原の姿が現れた。
思わず目を閉じる。固い物が落ちてくる音がした。恐る恐る目を開けば、そこには真っ赤に潰れた人間の体があった。
「落ちちゃったんだ……」
アスファルトに広がっていく赤い色を、高梨はどこか呆然とした思いで見つめていた。まるでテレビ画面の中の出来事のようだと思った。あまりにも現実味がない。
目の前で人がひとり死んだ。頭では分かっているのに、そこに転がっている死体が、まるでよくできた人形のようにしか見えない。だが、噎せ返るような人間の内臓のにおいが、これが現実であることを告げている。高梨は、スマホをきつく握り締めた。
「落ちました! 急いでください! 場所は……!」
前原が再び降りて来たらしい。自分には目もくれず、一心に女の方に駆け寄って行った。一切の躊躇なく、前原は女の首に触れる。まだ息がある、そんな声が聞こえてきた。