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 その日、朝の申し送りは、いつになく物々しい雰囲気の中で始まった。


「昨夜、午後十時十八分、大沢町在住の三十八歳、男性、橋本啓二さんが腹部の激痛を訴えて緊急搬送されました。原因は小腸内に寄生した回虫によるイレウス(腸閉塞)、虫による腸壁の穿孔、そして腹膜炎です。経過は順調。各バイタルも安定し、意識レベルも良好。午後までには一般病棟へ移ってもらう予定です」


 そして、井崎は軽く息をついた。


「問題なのは、患者の摘出した脾臓です。患者の脾臓にはフィラリアに似た虫が食い込んでいました」


 井崎の内心を知ってか知らずか、ER勤務の医師たちはフィラリアという言葉に、互いの顔を見合わせていた。当然のことながら、人間の脾臓に寄生するフィラリアなど教科書には載っていない。医師たちの顔には様々な表情が浮かんでいる。井崎は報告を続けた。


「虫による寄生の影響か、脾臓は三倍程度に肥大し、原型を留めていませんでした。センター長が居合わせ、脾臓摘出の許可をもらえましたので、即座に摘出しました。患者の回復に合わせて細かい問診などは行っていく予定ですので、今現在、フィラリアの寄生が患者にどのような影響を及ぼしていたのかは不明です」


 いったん言葉を切って周囲を見渡す。一瞬の沈黙の後、挙手があった。


「対応策としては、今のところ外科的な摘出だけですか? 寄生虫症ならば、化学療法も有効である可能性があるのでは?」


 そう言ったのは、循環器内科が専門である時任だった。ER部長の相模の顔に、苦渋の色が浮かぶ。誰もが同じことを考えている。井崎もまた、無言で部長の返答を待った。


「そうですねえ……まあ、この症例が特異な例だったという可能性の方が高いでしょう。なにせ、人間の脾臓に寄生するフィラリアなんて、見たことも聞いたこともありませんからねえ。今後、もしこの症例が続くようなら、対応策を他にも検討しましょう」


 部長の「逃げ」に徹した回答に、何ともいえない沈黙が落ちた。


 この総合医療センターで、医局を超えた総合的な治療を展開していこうという試みが実戦に移され、三年になる。その改革の最前線がこのERであり、おかげで「隣の医局は外国より遠い」と言われていた時代に比べれば、随分と医局の垣根は低くなった。


 しかし、時任は内科、部長は外科。長年の意識はそう簡単には変わらない。それに、全体的に見てもERのメンバーには外科医が多かった。


「井崎先生、他に特徴は?」


 部長に聞かれ、井崎はハッとしてカルテを捲った。


「すみません。この患者の場合、CTにかけると非常に特徴的な影を取ることが昨日の時点で判明しています。この部分です」


 シャウカステンにCT画像を差し込むと、医師たちの視線が釘付けになった。ひとりで考え込む時任、意見交換を始める斉藤、長井、田村。井崎の方を苦い顔で睨んでいる堀内、大野。我関せずの姿勢を貫く山野、大田。予想通りの反応だった。


「問題のフィラリアは今、室井先生が種類の特定のためにコンサルテーションにかけてくれています。結果が分かり次第、最優先で知らせてくれるように頼んでおきました。夕べの当直からは、以上です」


 井崎が席に着いたのを見計らって、部長が一同を見渡した。


「他に何か申し送りはありますか?」


 部長の言葉が終わらないうちに、看護師長の鈴木が挙手した。彼女は、どこか憮然とした態度と表情で立ち上がり、やや前のめりになって話し始めた。


「後方病棟の看護師からも度々、問題が指摘されていますように、最近の入院患者さんのマナーと言うんでしょうかね、とにかく、良識が疑われる事態が頻発しています」


 鈴木の言葉を聞いて、井崎は思わず苦笑交じりに溜め息を零していた。他の医師たちも同様の反応をしている。病棟の問題児と言えば、必ず思い浮かんでくる名前と顔がある。


「主に呼吸器外科病棟に入院されている館山茂雄さんですね。この患者さんは、女性看護師たちからも度々セクハラを受けそうになったというクレームが上がっております。他の患者さんが外出している際に、勝手に病室に入り込んで、荷物を漁っていたという報告もあります。幸い、金銭的な被害は無かったとのことですが」


 看護師へのセクハラ、医師たちへの暴言、暴力。館山と言えば、ろくな話がない。しかも、無断で侵入した部屋が小学生の女児が入院している部屋だとなればなおさらだ。


「夕べは特にひどいことになっていました。午前三時半ごろ、ナースステーションに怒鳴り込んできて、物を投げる、壊す、罵詈雑言を浴びせかける、花瓶などを叩き割る、看護師を理由もなく殴りつける、などの暴れっぷりでした。理由は、ナースコールをしてから看護師が来るまでの時間がかかりすぎている、ということでしたが」


 鈴木は大きく溜め息をつく。午前三時半と言えば、ちょうど自分は例の患者の処置がひと段落ついてタコ部屋(仮眠室)で眠りこけていたころだ。


「館山さんが入院している呼吸器外科病棟の看護師長に確認したら、午後九時から午前三時半までのナースコールの回数は百七十三回だったそうです。それで、なぜかうちに怒鳴り込んで来られました」


 鈴木の話を聞き、消化器外科が専門の田村が苦い顔で口を開く。


「館山さんと言えば、ルンゲンクレブス(肺ガン)で入院している人でしたよね? パチンコ屋で倒れてERに運ばれて“井崎先生に”命を取り留めてもらったはいいが、今度は酒が飲めずにアルコールの離脱症状に苦しめられてるっていう」


 確かに、緊急搬送されてきた館山を診たのは自分だが、自分の名前を口にする田村の声にはなぜか棘があったような気がした。何ともいえない空気が流れる。最初に口を開いたのは部長だった。


「たしかにヒドイですねえ、館山さんは。実は、私もこの前、回診に行った際、廊下で大名行列がどうのと怒鳴られましてねえ」


 苦笑いしながら報告する部長を、医師たちもまた苦笑いしながら眺めていた。月に一度、ERのみならずどの科でも、部長が医師たちを引き連れて入院患者たちの回診に回ることが義務付けられている。


 どこぞの大学病院ではまさしく「大名行列」としか言い様のない光景が展開されているが、地方の総合病院では引き連れて回る医師の数もたかが知れている。ぱっと見た目には、医師たちが固まって歩いているな、という程度の眺めでしかない。ご大層に揶揄してくるあたりが、館山らしいと言えば館山らしい。


「しかし、あまり暴れられるのも困りますねえ。入院が長引くとねえ……なんせ、館山さんは生活保護を受けてますからねえ……」


 部長の愚痴が始まった。経験則からして、早めに制止をかけなければ、申し送りが長引くことは、経験で知っていた。そろそろ何かしら意見でも言って纏めてしまおうか、と思った矢先、挙手があった。医局内の雰囲気が微かに変わる。脳神経外科の大野だった。


「今現在、館山さんは呼吸器外科に入院しているのだから、そちらの方で対処してもらうしかないですね。巡回を増やすなり、個室を用意するなりして、問題の患者の行動をコントロールしてもらうしかないでしょう。ERが問題視するようなことではないかと」


「いや、しかしねえ、大野先生」


 ほんの少し慌てた様子で、部長が口を挟んだ。


「館山さんは、実際にうちの後方病棟にやって来て暴れているわけですし、何の対策も取らないわけにはいかないでしょう。放っておけば重篤患者に危害が及ぶ可能性も! 困るんですよねえ、そういうのは……。嫌ですよ、こちらの看護ミスで患者の容態が悪化した、なんてことになるのはねえ」


 大野はチラリと部長を見やり、部長はチラリと看護師長を見た。結局、最初に口を開いたのは看護師長の鈴木だった。


「呼吸器外科の看護師長に館山さんの監督を強化するように言っておきます。うちでできることは、何があっても館山さんのような人をICU(集中治療室)に近づけないよう、出入り口付近の監視を強化するよう看護師に申し送りすることくらいでしょう」


 溜め息をつきながら、鈴木は部長を見た。幸い、ERのナースステーションは集中治療室の目の前に鎮座している。


「仕方ありませんねえ。まあ、それしかないでしょうねえ。なんせ、うちで受け持ってる患者ではないですからねえ。はい……それで、なにか、他にありますかねえ?」


 反対意見はない。部長もどこかホッとした様子だった。


「他には……ええ……そろそろ、このあたりで……」


 部長の言葉を聞いて、集まった医師たちは無意味に何度も頷きながら腰を浮かす。ERにおいては、そういった仕草が、誰が決めたわけでもなく朝の申し送り終了の合図のようなものとなっていた。


「聞きましたよ、井崎先生。次期部長候補だそうですね」

「へ?」


 帰ったら何を食べようか、などと考えていた矢先、やぶからぼうに背後から陰険な声がかけられた。


「せいぜい手元には気をつけてくださいよ。肝炎の患者を手術中に針刺し事故なんかしたら、せっかくの未来も台無しですからね」


 脳神経外科が専門の大野の刺し殺さんばかりの視線が突き刺さる。剥き出しの敵意は、徹夜明けのナイーブな心には些かしんどいものがある。


「何の話ですか」


 ついキツい口調で聞き返したとき、今度は研修医の蓮見が噛み付いてきた。


「歴代・最年少を狙うなら、ひとつのミスも許されませんからね。そう言えば、今度、先生はかの有名なバチスタに挑戦なさるとか。頑張ってください。応援してますよ」


 言いたいことだけ言って、大野は歩き出し、その後ろにくっ付くようにして研修医の蓮見は井崎の返事も聞かずに医局を出て行ってしまった。やれやれ、と溜め息をつく。次期部長になるという話など知らないし、バチスタ手術などする予定もない。まったくの言いがかりだ。そこへ小児科の山野がやってくる。


「あまり気にしなさんな、井崎先生。大野先生たちは自分より若い井崎先生が先に出世しそうなのが気に食わないだけだろうから」


「お心遣い、感謝いたします」


 何の含みも無い定型句をそのまま口にすると、山野は人好きのする笑みを浮かべた。


「最近の若者は無気力な連中が多いから。僕は君のようなタイプは嫌いじゃないよ。むしろ、好感が持てる」


 若者、という言葉に僅かな違和感を覚えつつも、この場所に限っていうならば間違いではないので否定はしなかった。実際、研修医を除けば井崎が最年少なのだ。


「君が部長に立つ日がきたら、この病院の雰囲気も一変するかもしれないと思うんだ。もちろん、いい意味でね」


 期待している、と告げて、山野は井崎の肩を軽く叩き、医局を後にした。一方では敵意を寄せられ、一方からは期待を寄せられる。面倒だな、とは思う。しかし、自分の実力が認められていると思うのは悪い気分ではなかった。


 それにしても、国内最高峰の大学病院ならまだしも、こんな田舎の総合病院で権力争いすることに何の意味があるのだろう。ふいに、強烈な眠気を感じた。アパートまで戻るのが面倒になり、井崎はタコ部屋で仮眠を取ってから帰ることに決めた。

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