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「なんだ、そりゃ」
晴れやかな夏の一日が動き出そうとしている。雲間から漏れる朝の光が眩しかった。対照的に、地下という空間は昼間でも暗く、空調が強すぎるわけでもないのに、ひんやりとして感じた。
「それを聞きに来たんだよ」
室井は、線香の臭いが漂う病理解剖室で、ストライカーという電動ノコギリを使い、遺体の頭蓋骨をカットしている真っ最中だった。井崎が持ち込んできたものに興味を示したらしい彼は、ストライカーの電気を落とし、胡散臭げな顔をしながら近寄ってきた。
「ぱっと見た感じだと、フィラリアに見えるな」
予想通り、室井はフィラリアという病名を持ち出してきた。
「同感だ。ただし、こいつが食い込んでるのは犬の心臓じゃない。人間の脾臓だ」
「それも見れば分かる」
予想外に、はっきり言われてしまった。そして室井がこれみよがしな溜め息をつく。
「夕べは回虫で、今度はフィラリアか? いったいなんなんだ? お前、変なものはとりあえず俺のところへ持って来ればいいと思ってないか?」
図星だったが、表面上だけは謝っておくことにした。
「夕べのことは悪かったと思ってるさ」
室井は「どうだか」と呆れたように言い捨てた。そして何かおもしろいことを思い出したように表情を変える。
「そう言えば、夕べお前らがオペ(手術)を始めた後にな、待合室で回虫症の患者の嫁さんに会ったのさ。回虫症なんて滅多にないだろ? ちょうどいい機会だと思ってな、世間話のついでに、感染経路なんかを聞き出してやろうと思ったんだよ」
へえ、と言いながら、井崎は病状を説明したときに見た患者の配偶者の顔を思い出していた。正直、あまり記憶に残っていない。向こうも、こちらの話を真剣に聞いている様子ではなかった。
「まあ、いろいろと聞いたわけさ。回虫症と言えば、最近の日本じゃあまず考えられないからなあ。最近、ご主人は衛生環境が充分に整っていない地域に行ってませんかと聞くと、主人は生まれてこの方、この島国から一度たりとも出ていないと言う。それなら、家庭菜園でも何でもいいんだか、とにかく有機栽培野菜を食べる機会が多い方ですか、と聞くと、これにはイエスの答えが返って来た」
「有機栽培野菜?」
「そうだ。化学肥料ではなく、動物の糞尿を堆肥として使う昔ながらのやり方で育てた野菜のことだな。最近は流行ってるらしいぞ。ただし、問題なのは、有機肥料ってのが動物のフンだと知らない連中が多いってことさ」
苦虫を噛み潰したような顔をする井崎を見て、室井はニヤリを笑ったまま言葉を続けた。
「農薬、化学肥料を一切使ってない安心、安全な有機栽培野菜だから、洗わないで食べても大丈夫! ってな感覚でなあ、そのまま食卓に出してしまうママさんたちも増えてるそうだ。ところが」
「ところが?」
「ご家庭で有機栽培野菜を頻繁に口にされているなら、ご主人の回虫症はその野菜に付いていた回虫の卵を知らずに飲み込んだことが原因かもしれませんねって説明したんだわ。そしたら奥さん、そうですかあ、だとよ。その、そうですかあって言った時の顔がどんだけ恐ろしかったか、お前に見せてやりたいと思ったよ。もしかしたら確信犯かもしれないぞ。どうだ? 前代未聞じゃないか? 寄生虫を使って、女房が旦那を殺害しようと目論んでいたなんざ、ワイドショーのいいネタになると思わないか?」
「馬鹿馬鹿しい……」
言いながら、そう言えば例の患者には浮気相手がいたような雰囲気があったことを思い出した。女は怖い、とつくづく思う。
「そういえば、うちも最近やたら有機栽培野菜ばっかりなんだよなあ」
井崎は何ともいえない思いで室井を見つめた。
「一度CT撮ってやろうか」
室井は微妙な顔で頷いていた。
「そんなことより、こっちのフィラリアだよ」
井崎は、改めて手の中の膿盆に視線を向ける。
「寿司屋で腹痛に見舞われて、救急車で運ばれてきたんだ。状況からアニサキス症を疑って超音波検査をしていた時、患者が口から回虫を嘔吐した。CTを撮れば腹の中が真っ白。おまけに炎症まで起こしてる。緊急開腹手術で虫を摘出、腸の穿孔を縫合、それから洗浄で対処。脾臓にもおかしな影が出てたんで、ついでに切開してみた」
「そしたら、こんな脾臓が出てきた、と」
井崎は無言で頷いた。一方、室井は難解なクイズに出会った小学生のような顔で腕組みをし、井崎が手にしている膿盆をじっと覗き込んでいた。
「どう思う? 俺は、今までこんな人間のフィラリア症を見たことも聞いたこともない」
「……ああ、そうだな」
珍しく、室井がすぐに頷いた。そして、彼は血まみれの手袋を外すと、デスクに歩み寄り、ホコリを被った医学書を持ち出してきた。背表紙には、擦れた字で「寄生虫」と書かれている。
「犬のフィラリアが人間に感染した例は無きにしもあらずだ」
しばらく、無言でパラパラとページを捲っていた室井が、見開きにしたページをこちらに向けながら言ってきた。長時間に渡る手術のせいで眼精疲労がピークにきている。細かい文字に苛立った。
「軽度の呼吸器疾患を訴えて来院。レントゲンの結果、肺にリング状の影が見え、肺ガンと間違えて摘出手術を受ける……」
書かれていた文字を読み上げると、室井がニヤリと笑った。
「病巣部分を切除し、切開してみると中からフィラリアが出てきて医者も看護師もビックリ仰天。その結果、患者の腹腔にかん子を置き忘れたとか」
「たちの悪い冗談はよせ」
一昔前なら「影もかん子もない」と言えば医療従事者の間のブラックジョークで済んでいたのだが、最近は深刻な医療ミスが連日マスコミで報道されるようになり、中には患者の臓器に自分のイニシャルをサインする医者まで現れるようになった。
影がないのは結構なことだが、医療器具の置き忘れは冗談では済まされない。
「相変わらずだなあ。本気にするなよ。それはともかく、犬のフィラリアが人間に感染する例は確認されている。ただし、人間の体内じゃあうまく発育できないみたいだな。無理に手術で取り出す必要はない。放置しといても、それ以上、悪化することはないようだ」
室井は医学書を放り出し、今度は正体不明のシミが付着したタブレットで医療専門のホームページを検索し始めた。
「ついでに、細かい因果関係までは明らかにされてないが、犬のフィラリアに感染するのは、ブリーダーだとか、ペットショップのオーナーとか、たくさんの犬と接触する機会が多い人間に限られてるそうだ。感染経路は犬と同じで、幼虫を持った蚊だってことだが」
井崎は曖昧に頷き、手元の膿盆に視線を落とした。こいつも、その類なのだろうか。フィラリアは別名、糸状虫という。井崎の自問自答を嘲笑うように、その名の通り、糸のような、茹でたそうめんのような細長い虫が、膿盆の中でウネウネと元気に動き回っていた。
じっと見つめていると、なぜか腹が立ってきた。
「人間の体内じゃあ成長できないっていうわりに、デカいよな」
思ったことをそのまま口にすると、タブレットに視線を向けたままの室井が「そうだな」と曖昧な返事をしてきた。
「犬フィラリアに限らずとも、このロアロアとかいう虫もいわゆるフィラリアだぞ」
室井が見せてきた画像には、真っ赤に充血した人間の目の中に生息している体長七センチほどの、半透明な糸状虫が映っていた。タップして画像を閉じれば、症例の簡単な説明が現れる。
「中央アフリカの一部地域に生息するアブが媒介する人間に特有のフィラリア症で、循環血の中で成長し、眼球に達する。ふうん……」
そんなもんかと思いながら、もう一度、画像に視線を向けた。
「こんだけデカい虫が目の中を這い回るんじゃあ、痛みにのた打ち回るだろうな。どうやって摘出したんだ?」
眼科は専門外だが、日本では滅多にお目にかかれる症例ではないだけに好奇心はかきたてられた。残念ながら、サイトの端々まで目を向けても治療計画や患者の経過に関する記述はなかった。
代わりに、虫の大きさの割りに患者が痛みを訴えないという文字が飛び込んでくる。マツゲが目に入っただけでも違和感を覚えるのに、人の体とはつくづく不思議なものだと思う。
「ちょっと貸せ」
室井がタブレットを取り上げ、真剣な顔で操作し始めた。「他にも何かあったような」と呟きながら、彼は画面をひたすらスライドさせていた。ややあって、室井の眉間にある皺が消える。
「あったぞ。こいつなんかもそうだ」
室井からタブレットを受け取り、画面に視線を向ける。拡大された画像には、剥き出しの地面に座り込み、泥水の中に足をつけている女性が映っていた。女性の肌の色や服装、背景の雰囲気から、広大なアフリカの大地の「どこか」だろうと察しをつけた。外国人が畳を見たら「日本だ」と思うのと同じである。
「メジナワームとかいう虫は、メスだと二メートル近くに成長するらしいぞ。人間の体内で充分に成長したら、ホストの人間を水辺に誘導するためにふくらはぎ辺りに炎症を引き起こすんだと」
どこか楽しげな室井に軽い溜め息を落とし、タブレットを返した。
「SFみたいな話だな、それ」
「フィクションじゃなくて実際の話さ。メジナワームの幼虫は水中でしか生息できない、と。だから人間の体の中で無事に成長した虫は、繁殖のためにどうしてもホストを水辺に誘導する必要があるわけだな。まあ、日本だったらまず薬を付けるだろうが、向こうの人間なら、まず患部を冷やそうとか、洗おうと思って水辺に行く可能性が高い」
「患部を洗おうとして、か……」
否応無く頭の中に浮かぶのは、これ以上ないほどに濁った水の中に足を突っ込んでいる女性の画像だった。
「で、無事に水の中に出て行けた虫は、そこで好きなだけタマゴを産むわけだな。人間の生活のためには水が欠かせないから、水辺には必ず人間がくる。充分に成長した虫は、集まってきた人間の足から体内に入って、そこでまた成虫になるまで大人しくしてる」
井崎は再び手元の膿盆に視線を落とした。
「明らかにソレじゃないだろ」
「たしかに」
あっさり頷いた室井は、またしてもタブレットを弄り始めた。仕事を放り出してネットがしたいだけなのではないかと思い始めたが、もう少しだけ付き合ってやることにした。
「あ、これなんかどうだ? バンクロフト・フィラリア」
「どうだって言われたところで、明らかに違うとしか言えないさ」
「そうか、残念だ」
バンクロフト・フィラリアについては多少ながらも知っている。かの西郷隆盛をも苦しめた寄生虫症だ。一昔前までは割と日本にもありふれていた虫で、犬と同じように蚊が媒介する。
リンパ管に寄生し、リンパ液の流れを詰まらせることで、手や足、もしくは性器がまるで象のように巨大化する。現在でも、東南アジアやアフリカではこの虫が引き起こす象皮症に苦しめられている患者は多い。
「ネットがしたいなら帰ってからやれ」
「馬鹿なこと言うな。俺はただタッチパネルをタプタプするのが好きなだけなんだ」
そうか、としか言えなかった。
「さて、あらためて所見に移るが、この脾臓、随分、腫れているな」
室井の指摘に、井崎はただ頷いて返した。通常であれば、脾臓は長さ十二センチ、幅八センチ、厚さ五センチ程度で、重さは百グラムから二百グラム程度である。
だが、夕べ井崎が患者の体から摘出した脾臓は、標準値の三倍近くに膨れ上がっている。おまけに、虫による寄生を受けた影響か、その形も随分と崩れていた。
「このフィラリア、預かるぞ。コンサルテーションにかけたら何か分かるかもしれん。おい、上には報告しとけよ」
井崎は曖昧に頷いた。