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5(手術中の描写あり・グロ注意)

「思っていた以上に深刻だな。大崎、このCT画像、読んでみろ」


 患者の氏名と共にコンピューター画面に表示された画像を眺め、井崎は背後に続く大崎を振り返る。


 よく知られているように、X線画像レントゲンやCTスキャンでは、柔らかい部分が黒く、固い部分が白く表示される。コンピューター画像で見る患者の小腸は、広範囲に渡って見事に真っ白になっている。分かりやすい病変以外にも気付けるようになれば、医者の卵としては上出来であるのだが……。


 メガネの位置を直しながら、大崎は汗で濡れた顔を画面に近づけ、「ああ」だの「ええ」だの「うう……」だのと、しばらく母音のみを発音していた。そして「あ、イレウス(腸閉塞)が見られます」と、真っ先に分かりやすい病変を指摘した。井崎は頷き、先を促す。


「イレウス(腸閉塞)の原因として考えられることは?」


 次の言葉が続かない大崎に助け舟を出してやると、大崎は視線を彷徨わせ始める。


「だ、大便、ですか?」


 井崎は軽く息をつく。彼の思考は完全に停止してしまっているようだ。


「そんなわけないだろ。お前、学生時代に寄生虫学の講義、受けてないのか?」


「寄生虫学ですか? いえ、ありません。回虫なんて、見るのも聞くのも初めてです。あれは発展途上国に特有の症例だと思っていました」


 意外そうな顔をする大崎を見やり、井崎は納得せざるを得なかった。寄生虫そのものを知らないのであれば、それ以上の発想ができなくとも仕方ない。それに、これだけ衛生環境が整えられた現代の日本では、海外渡航歴がある場合や北海道などの一部地域を除き、寄生虫症に罹って病院を受診する例など滅多にないのだ。


「俺も本物の回虫症に当たったのは今日が初めてだ。ただ、俺たちの時代には一度だけ寄生虫学の講義があった。確か、回虫は少数なら特にこれと言った症状は出ないんだ。ただし、大量に寄生すると、イレウス(腸閉塞)の原因になることがある」


「……学生時代に一度聴いただけの内容を、よく覚えてますね」


「分からないところは後で考えよう、とか、これは後で暗記しよう、とか。そんなことを考えてる間に隣の席のヤツは遥か先を予習してる。そういう場所だったからな」


 大崎は何ともいえない顔をした。


「イレウス(腸閉塞)の原因は、まず間違いなく大量に寄生した回虫だ。あまりにも数が多いと、小腸の中で団子のように絡まりあって、腸を塞いでしまうことがある」


「む、虫が大量に……」


 心なしか、大崎は顔色が悪かった。


「回虫が大量に寄生しているということは、人間社会に例えるなら満員電車のようなものさ。電車に乗りたくても乗れないから、少しでも空いている場所を探して移動する人は多いだろ。同じように、回虫も小腸に寄生したいのに他の回虫でいっぱいだから、一部の回虫は居心地がいい場所を探して体内を移動するのさ。その結果……」


 井崎はCT画像に向き直り、問題の箇所をボールペンの先で示して見せた。


「虫が腸壁に頭を突っ込んで穴を開け、腸内細菌、内容物が腹腔内に流れ出て、腹膜炎を併発している。放っておけば、細菌がそのまま血管内に侵入して敗血症を起こす可能性も否定できない」


 なるほど、と大崎はメモを取りながら納得したように頷いていたが、ややあって弾かれたように顔を上げた。


「で、でも、先生。さっきは口から出てきましたよ、虫が!」


 井崎は改めて画像に視線を向けた。


「元気のいい回虫は、消化器官を遡って胃まで到達することがあるんだよ。それで、胃が痙攣を起こして虫を嘔吐させるんだ」


「な、なるほど……なら、小腸内の虫を取り除いて、穿孔を縫合し、生食(生理食塩水)で洗浄してやれば、回復するわけですか」


 そういうことだ、と頷いてみせる。


「専門の先生を呼び出しますか?」


 大崎の不安げな声に、微かに苛立った。


「回虫症と腹膜炎だろ? わざわざ連絡する必要はない。俺で充分だ」


「そ、そうですか……? で、でも消化器外科の堀内先生なら当直でいらっしゃますし、何より、先ほど井崎先生も気になってたようですけど、この患者、脾臓の方が腫れているんだか、腫瘍だか……」


 井崎は、大崎を残してさっさと歩き出した。会話している時間が無駄だ。大崎が慌てて付いてくる。


「開腹手術に入るぞ。さっさと準備しろ」


 その一言で、スタッフが目まぐるしく動き回り始め、見る間に開腹手術の準備が整っていった。患者には様々な機器が取り付けられ、体内のありとあらゆる情報がモニターされていく。


 手指の洗浄を済ませ、術衣に着替えた井崎が処置室に入った時にはすでに、患者の腹部はすでにイソジンで茶色く染められていた。


 一同を見渡し、小さく頷いた後、井崎は素早くメスを走らせ、患者の皮膚を一気に切開した。心臓が元気に拍動しているせいで、途端に皮膚から血液が流れ出してくる。すぐに、大崎が吸引に入る。モニター類に目立った変化は無いが、処置室の中は一変して血生臭い空気が漂い始めていた。


 横隔膜を切開すれば、小腸が溢れ出るように露出し、途端に内臓独特のむっとした臭気が鼻をさす。大崎に血液を吸引させながら、小腸全体を観察する。回虫が詰まっていると思われる箇所は、正常な部位に比べて大きく膨らみ、そしてシコリのような感触があるのですぐに分かった。


 一瞬、井崎は獲物を丸呑みしたヘビの姿を連想した。


「膿盆の用意を」


 短く言えば、横で友恵が小さく返事した。腹腔内から取り出した腸にメスを入れると、その内部で団子状になっている虫が確認できた。さっそく医療用の器具を使って、回虫を掴み、引っ張り出そうとしたのだが、思いのほか回虫の固まりが大きいようで、切開部分に引っかかってしまい、うまくいかない。


「でかいな。もう少し広げようか」


 誰の返事を聞くまでもなく、井崎は再びメスを手に取った。そして器具を使って慎重に固まりを引っ張ると、大人の拳ほどもある固まりがズルリと現れた。大崎、と声をかけると、慌てた様子で彼は膿盆を手に取り、差し出してくる。


「でかいですね……」


 目を丸くして、大崎は膿盆の中の固まりを凝視していた。


「まだまだいるぞ。油断するな」


 え、という顔をした大崎を余所に、井崎は小腸内に確認できる回虫を片っ端から摘出し始めた。空気に触れて居心地が悪いのか、患者の小腸に潜んでいた回虫たちは、細長い体をあらん限りの力でくねらせ、どうにかして落ち着ける場所へ逃げようとしているかのように蠢いている。


 この場にいるスタッフ全員が、本物の回虫症を目の当たりにするのは初めてらしく、一部は興味深そうに患者の腹腔内を覗き込んでいた。


「まだ詰まってるんですか?」


 小腸内部から回虫を取り出さす作業は、僅か十分ほどで、すでに膿盆から溢れ出るほどの量になっている。大崎の質問には、敢えて何も答えずにおいた。友恵が素早く新しい膿盆を準備し、差し出してくる。顔色ひとつ変えない友恵とは対照的に、大崎は今にも気絶してしまいそうな雰囲気だった。


 しっかりしろ、と言いながら、井崎はロープを手繰るようにして、患者の小腸を手繰っていく。手触りだけで、回虫が詰まっている場所を探っていく作業は、思いの外、集中力が必要だった。


 おまけに、回虫の固まりが摘出されたのを察したらしく、上から未消化の食べ物が次から次へと流れ込んできて、摘出作業の妨げを始めてしまう。吸引機も換気扇も必死に仕事をしているが、人間の体内に充満する未消化物の臭いの前では暖簾に腕押しである。独特の臭気に、スタッフの眉間に皺が寄る。


「出血箇所を確認。縫合に入る」


 回虫をあらかた取り除いた後、井崎は膿盆三つ分の回虫には目もくれずに次なる処置へとかかった。回虫が頭を突っ込んで穿孔をあけた箇所を手早く縫い合わせていく。一つ目の穴を塞ぎ終わり、患者のバイタルに変化がないのを確認した後、汗びっしょりになっている大崎の方に視線を向けた。


「大崎、CT画像では他に穿孔が開いている箇所が三つあった。覚えてるか?」


 問いかけると、大崎は慌ててシャウカステンに挟まれているCT画像の方に視線を向けた。


「それくらい覚えとけ」


 言いながら、穿孔が開いている箇所をCT画像を見るまでも無く指摘していく井崎を、大崎は一種、尊敬の眼差しで眺めていた。


「腹膜炎の方はどうだ? お前ならどう処置する?」


「えっ? ええっとぉ……そうですね、組織の色も綺麗なままですし、壊死している箇所も見当たらないので、はい……洗浄だけで充分かと……」


「上出来だ」


 そして井崎は、残るひとつの穿孔の縫合を大崎に任せ、左脇腹部分の処置にかかった。超音波検査とCTスキャンの結果、脾臓部分に病変が確認されている。画像で見る限り、この患者の脾臓は肥大し、何やら細長い糸のようなものが絡み付いているような像を結んでいた。


 病状から考えれば、回虫が体内を移行し、脾臓部分に到達してしまったと考えるのが普通だが、それでは脾臓が肥大している理由が説明できない。


 言い訳だけは、後からいくらでも間に合うのだ。脾臓部分にも虫を見つけたので摘出するために切りました、とでも言っておけばいい。


 メスを使って患者の左脇腹部分を切開し、筋肉と脂肪を剥がして肋骨を露出させる。そして開胸器をセットし、ハンドルを回してゆっくりと肋骨を広げていった。問題の箇所が徐々に無影灯の光の下にあらわになっていく……。


「お邪魔しますよ」


 その時、処置室の扉が開いて白衣のままのセンター長が姿を現した。


「未確認の寄生虫が患者の腹部を突き破り、処置室の床を走り回っている……という報告を受けて、とんできたのですが」


 スタッフの視線がセンター長に集中し、その後、助けを求めるような視線が井崎に向かった。井崎は軽く息をつき、センター長の方に向き直る。


「未確認の寄生虫、という箇所だけ正解です」


 怪訝そうな顔をしたセンター長が歩み寄って来る。井崎は、病変部分がよく見えるように場所を譲った。センター長の眉根が微かに寄る。


「摘出しましょう。井崎先生、お願いします」

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