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 日々の激務に翻弄され、記憶の奥深くに押しやられたはずの思いは、ふとした瞬間に浮上する。気象庁による、あまりアテにならない梅雨明け宣言から二週間あまり、ようやく夏らしい夏が始まろうとしていた……。


 井崎は愛車を運転していた。どことも知れぬ景色が車窓の向こうを流れていく。街灯だけが立ち並んだ真っ暗な国道を、目的地も分からぬままただひたすらアクセルを踏み、ハンドルを切っていた。


 ふと視線を助手席に向ける。そこにいたのは、いつぞやコンビニで出会ったあの少女だった。車内は暗く、自分の体がどこにあるのかさえ分からない闇に満ちているというのに、不思議と少女の姿かたちだけは、はっきりと見えた。


 おもむろに、少女が身を起こした。それまで確かに触れていたはずのハンドルや頭上に存在しているはずのルーフが消え失せ、代わりに柔らかな体が圧し掛かってきた。


 間近で見る白い顔は、楽しげに笑っている。薄桃色の唇が開き、その奥に見え隠れしている真っ赤な果実にも似た舌が誘うように揺れていた。


 井崎の目の前で、少女が自身の手を太腿に滑らせていく。伸ばされた親指の爪が、ゆっくりと肌に食い込んだ。ぴりっと音がして、ストッキングが破れた。同時に、ぴっちりと少女の太腿を包み込んでいたストッキングから弾力のある白い素肌が零れ出てきた。


 堪らなくなって手を伸ばす。乱暴な手つきでストッキングを破り、少女を引き寄せて唇を重ねあう。呼吸が苦しくなるほどに、夢中で舌を絡めあう。なぜか、久しぶりのキスは消毒薬の匂いがして……。


「井崎先生っ! いい加減、起きてくださいっ!」


 耳元で叫ばれて、井崎は反射的に身を起こし、そのままベッドの向こうに転がり落ちていた。強打した腰が声にならない悲鳴を上げ、一瞬、息が詰まる。


「呼んでも呼んでも起きないから、鼻と口を塞いだんですよっ! それでもまだ起きないって、どういうことですかっ!」


 見慣れた当直用のタコ部屋(仮眠室)で、看護師が額に青筋をたてていきり立っている光景が見て取れた。どうやら消毒薬の味がしたキスの正体は看護師の手の平だったようだ。知らなければよかった事実が、またひとつ脳内にストックされてしまった。


「急患です。三田島から。あと十分で到着しますよ」

「分かった、すぐ行く」

「……すぐ来なくていいです。五分待ちますから、その膨張した下半身をどうにかしてから来てください。いいですね?」


 看護師の容赦ない一言に、井崎は一瞬だけ硬直し、そして項垂れた。たった五分でナニをどうしろというのか。相手がいるならまだしも、たったひとりで……。


 結局、井崎はまずい缶コーヒーを一気に飲み干し、外の空気を肺いっぱいに吸い込んで、無意識が呼び起こした欲望の残滓を意識上から締め出した。深呼吸する。戦闘開始だ。


 白衣の襟を整えた井崎が搬入口に到着したのとほぼ同時に、けたたましい音が鳴り響く。プロならではだと思わせる見事なハンドルさばきで、救急車が滑り込んできた。後部のドアが全開放された途端、絶叫が鼓膜を揺るがした。


「いたいっ! いたいっ! いだいっ! 助けてくれええっ!」


 ストレッチャーの上で、四十代後半から五十代と思われる男性患者が、救急隊員たちに押さえつけられながら、声の限りに喚いていた。待ってましたとばかりに、研修医の大崎と看護師たちが患者に駆け寄っていく。


 看護師の中には友恵の姿もある。当直のメンバーの中に彼女の姿を探すのは、最早クセのようになっていた。


 まさしく七転八倒している患者を乗せたストレッチャーが、丁寧に、しかしながら迅速な動きで救急車から下ろされ、処置室へと運ばれていく。患者に、喚いて暴れる体力があるうちはさほど焦る必要はない。初期対応は研修医たちに任せることにして、井崎は救急隊の隊長と並んでストレッチャーの後ろから続いた。


「どうも、井崎先生! お世話になります!」

「ご苦労さまです。詳しい状況を教えてください!」


 絶え間ない患者の絶叫に掻き消され、すぐ傍にいるというのに声を張り上げなければ会話が成立しない。声を荒げた会話をしていると、ましてやそれが人間の絶叫であればなおのこと、たとえその心配がない状況でも焦燥や不安を覚え、冷静さを失いやすい状態に陥ってしまうことはよくある。井崎は努めて冷静であるよう自分に言い聞かせた。


「財布の中に運転免許証がありました! 患者は橋本啓二、三十八歳!」


 年齢を聞いて、井崎は自分の見立てが間違っていたことを認めた。きっと苦労しているんだろう。そんな風に考えて、頭の中のカルテを書き換える。


「午後十時ごろ、同僚と飲んでいた寿司屋で急に腹痛を訴えたそうです。痛みは床を転げまわるほどで、店員が救急車を呼びました。付き添いはありません。一緒に飲んでいた同僚の女性は、救急車が到着した時には、いつの間にかいなくなっていました」


 各種バイタルを告げた後、隊長が早口に説明する。井崎の頭に「不倫」の文字が浮上したが、治療には実質、関係ないので、その情報は頭の片隅に留める程度にしておいた。


「倒れたのは寿司屋でしたよね? どんな魚を食べたか分かりますか?」

「そこまでは……」


 寿司屋と言えば、生魚。生魚を食べて腹部の激痛と言えば……。そんなことを考えながら、井崎は処置室へと向かった。


 込み合う処置室の中で、患者は既に処置台の上にいた。そして、あれよこれよと言う間に点滴の針を刺され、心電図モニターを張られ、シャツのボタンをはだけられていく。


 各種の報告が飛び交う中、突然、処置台の上で、患者が未消化の胃の内容物を吐き出した。寸でのところで状況を察した友恵が膿盆を素早くあてがったおかげで、処置台は汚れずに済んだようだ。つん、とした、独特の臭いが鼻腔を刺激する。


 それにしても酒臭い。いったいどれだけの量を飲んだのか、患者の呼気や嘔吐物からは胸が悪くなるようなアルコール臭がしている。友恵の手首を引き千切るような勢いで握り締めながらゲーゲーやっている患者をチラリと見やり、井崎はさっとモニターに視線を走らせる。どの機器も、患者が特に危険な状態ではないことを示していた。それを確認し、診察に入る。


「こんばんは! 救急の井崎です! 分かりますかっ?」


 嘔吐が治まった患者は、井崎の言葉が聞こえているのかいないのか、再び声の限りに叫びながら、今にも処置台から落ちてしまいそうな勢いで暴れている。「誰でもいいから」「早く」「どうにかしてくれ」「痛い」「死にそう」「もうアカン」患者の絶叫の中から、かろうじて日本語を拾い上げる。


 会話は不可能と判断し、井崎は指示オーダーを出すまでもなく超音波検査の準備を進めている友恵に軽く頷いてみせた。


「検査しますね! 痛くないですから! ちょっと温かいですよ!」


 とりあえず一言声をかけた後、患者の返事を待たずに、人肌より少し高い程度に温められたゼリーを腹部に垂らした。スティックでを当てると同時に、モニターに体内の様子が白黒の映像で表示され始める。


 あれだけ嘔吐していたにも関わらず、胃の中にはまだかなりの内容物が残っているようだ。中肉中背、胃拡張の傾向があるわけでもないのに、よくこれだけの寿司を食えたものである。そんなことを考えながら、井崎は胃の周囲を注意深く調べていく。


「アニサキスですかねえ」


 総合医療センターの研修医のひとり、大崎が真剣な顔でモニターを覗き込みながら言ってきた。


「間隔的な嘔吐反射、腹部の激痛、何より回らない寿司屋で倒れられたってことですから、その可能性は高いと思われますが」

「確定するのは、虫を確認してからにしろよ」

「はい、すみません……」


 アニサキスは、体長五センチほどの、サバなどの内臓に潜む寄生虫である。その姿は、ヒゲを取ったモヤシとよく似ている……と言えば、たいていの人はそれから数日間、何の罪も無いモヤシ炒めに拒絶反応を示す。


 この寄生虫が付いていることを知らずに生魚を食し、その後、痛に襲われて病院に担ぎ込まれるのは、ありふれた症例ではないが、珍しいとも言い切れない。井崎もまた、状況と所見から胃アニサキス症を疑っていた。


「内容物が邪魔して、よく見えませんね」


 相変わらず元気に喚いている患者を余所に、大崎が呑気にモニターを眺めている。立派になったものだ、とつくづく思う。医療関係者は、患者と一緒になってパニックになってはならないのだ。


「救急隊の話だと、寿司を食ってる途中で激痛に襲われたって話でしたよね? それなら、まだアニサキスは胃にいるはずじゃないですか? 腸まで降りて行って症状を起こすには、少なくとも半日は必要でしょう? 時間的に有り得ないですよ」

「それはそうなんだが……」


 いない。

 内容物があるせいで若干、見えにくくはなっているが、胃の中に肝心の虫の姿が見当たらない。アニサキス症ではないのか、と思いながらも虫の姿を探し続けていた時、弾みでスティックがずれ、胃の近くにある脾臓部分がモニターに映りこんだ。


「何だ、こりゃ」


 一瞬、映りこんだ映像に、自分の口から信じられない一言が飛び出してきた。


「腫瘍か? いや、腫瘍にしては……」


 反射的にスティックを脾臓部分に固定してしまう。大崎と看護師の視線も、吸い寄せられるようにモニターに釘付けになる。超音波検査機を使えば、体内の動きをリアルタイムで観察することができる。患者の脾臓に、細長く、動くものが……。


 突如、患者がスタッフの手を振りほどいて上体を起こし、再び胃の内容物を勢いよく吐き出した。大崎が、慌てて膿盆を差し出す。直後。


「うあぁあああぁぁぁあ!」


 大崎が絶叫と共に膿盆を放り投げてしまった。若い看護師たちの悲鳴に混じり、患者の胃から吐き出された未消化のスシが宙を舞う。「え、え、え、えいりあんっ!」大崎が叫ぶ。


「何ですか、いったい、これ!」ベテラン看護師でさえ顔色を変えた。「う、うそだっ! こんなことっ! こんなこと、あるわけない!」大崎は尻餅をつき、処置室の床を這いずりはじめた。


「慌てるな! みんな、お、落ち着け!」落ち着け、と言いながら超音波スティックを床に叩き付ける井崎がいた。「い、井崎先生……」友恵に窘められて、はっとする。高価な医療器具を危うく破損させてしまうところだった、という心配よりも、取り乱したところを友恵に目撃されたことの方が心配だった。


 騒ぎに気付いたのか、他の患者の処置にあたっていたスタッフたちが、何事かと集まってくる。そして一様に、床の上の奇妙な生物を目の当たりにして顔色を変え、これは何だ、どういうことだと、同じ質問をしている相手に聞いて回り始めた。


 処置台の上には、未だに患者が唸っている。だが、その場にいたスタッフ全員の視線は、床の上でのたくるミミズのような生物に集中していた。


 体長は二十センチから三十センチほどで、体表はやや黄色がかかった白。手足のようなものはなく、その動きはミミズや、カマキリの腹から出てくるハリガネムシによく似ていた。


 井崎は床にへばっている大崎の白衣を掴んで、無理やり立ち上がらせた。


「とにかく、専門の先生に連絡を取るぞ!」

「専門っ? 専門って、な、NASAですかっ? NASAの直通番号って、一般公開されてるんですかっ……!」

「寝ぼけるな! たぶん、何かの寄生虫だっ! とりあえず室井でいい! この時間ならまだ解剖室にいるはずだから、室井を呼んで来い!」


 変なモノはとりあえず変なヤツへ、という発想から、室井の存在が浮上した。


「で、電話じゃダメなんですかっ?」

「電話じゃダメだ! PHSにしろ!」

「わ、分かりました!」

「誰か、センター長に連絡してくれ!」


 ひとりの看護師が慌てて出て行ったその時、患者が僅かな呻き声とともに、ついに気を失ってしまった。はっとした。


「処置を再開する! 患者をCTに!」


 井崎の一言によって我に返ったスタッフたちが、慌てた様子で自分の仕事に戻り始めた。患者をCTスキャンに連れて行くために、友恵が患者の嘔吐物で汚れた腹部、顔面を清拭していく。そして患者を毛布でくるみ、処置室を出て行った。


 スキャンが終わるまでの間、患者に付き添わなかった看護師たちが床に散らばった嘔吐物を掃除していく。だが、誰もが示し合わせたように肝心の虫には指一本触れようとしなかった。ベテラン看護師のもの言いたげな視線が、自分を見つめている。


「素手で触るのはさすがに……」


 友恵がいないのをいいことに、つい弱音を吐いたとき、大崎から呼び出しを食らったと思われる室井が、ちょうど処置室に入って来た。室井の視線が、その場にいる全員の顔の上を滑り、ややあって床の上に向かった。


「カイチュウじゃないか。珍しいな」


 大崎が地球外生命体と決め付けた生き物を見て、室井が事も無げに言った。


「か、かいちゅう?」


 数秒後、井崎の頭の中に「回虫」という文字が浮上してきた。


「そこの研修医が血相変えてとにかく処置室へ来てくださいって喚いていたから何かと思ったんだが、回虫がどうかしたのか? つーか、いったい何の騒ぎだ? そもそも、俺にいったい何をしろと?」


 処置室に、一瞬だけ沈黙が落ちる。


「いや、なんでもない。わざわざ来てもらって悪かった。もういいから」

「はあ?」

「そこの回虫、持って行きたいなら持って行っていいぞ」


 むしろ持って行けばいいのに、と思いながら用も無いのにシャウカステンの前に立ち、誰のものとも知れないレントゲン写真を眺めたりなどしてみる。誰も何も言わない。ひとり、ふたり……と、集まってきていたスタッフたちが自分の持ち場に帰り始めていた。


「井崎先生、CTスキャン、完了です」


 微妙な空気が満ちる処置室だったが、友恵の一言がまるで光線のように雰囲気を一変させてくれた。何が何だか分からないという顔をしている室井を無視して、井崎は早々に処置室を後にした。

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