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窓の外は、シャワーコックを全開にしたような天気だった。ひっきりなしにやってくる自家用車が、総合医療センターの駐車場を次から次へと埋めていく。
車から降り、彼らは傘を差しながら急ぎ足で正面玄関へと向かっている。今日もまた、忙しい一日が始まろうとしていた。
「よう、井崎」
声をかけられ、重い頭を上げる。だらしない普段着の上に皺だらけの白衣を引っ掛けた男が、寝不足で真っ赤に腫らした目をして立っていた。病理専門医の室井秀行だ。井崎は呆れた顔を向ける。
「相変わらずボロボロだな。いくら患者の前には出ないとは言っても、もうちょっとマシな格好できないのか?」
見たままを言うと、室井は大仰に天井を仰いで見せた。
「随分な口を利いてくれるモンだぜ。これでも俺はお前の先輩なんだぞ? 学生時代はそれなりに礼儀正しかったってのに」
井崎は軽く息をつく。
「身なりは礼儀の第一歩でしょう。まずは自分が社会人として出勤するのにふさわしい服装を心がけてはいかがでしょうか、先輩様」
室井は諦めたように苦笑を浮かべた。そんな室井を見て、井崎も適当に笑い返した。学生時代はともかく、社会に出て三十を超えてしまえば一歳差などあってないようなものだ。自然、態度は友人に対するそれと同じになる。そんなものだ。
「ところで、そんなことより“サカイ38男”さんの検査、優先で頼んでただろ? 結果は出たか?」
「いくら俺が優秀な病理専門医とは言ってもだねえ、最優先で頼まれた検査を三つも抱えて三時間で答えは出せないんだよ」
「三つもか……」
サカイ38男、というのは今現在、集中治療室にいる患者の呼称である。午後十一時三十三分、坂井市の交差点を横断中に右折してきた乗用車に追突された。身元が分かるものを何一つ所持していなかったため、彼は「サカイ38男」という便宜上の名を送られることとなった。
「サカイ」というのは事故現場の名称、38というのは、今年に入って38番目の救急患者という意味だ。ちなみに、もし女性であったなら「サカイ38子」となる。身元不明の患者が運び込まれてくることが多い救急外来では、どこの病院もそれぞれ工夫を凝らした便宜上の名を付けるものだ。
「ここ最近、やけに事故が多いな。夕べのER(救急救命外来)は千客万来だったそうじゃねえの。部長まで駆り出されてたぞ。お前がサカイさんの肝臓を縫合手術しているその間に、堀内先生が婆ちゃんの心肺蘇生に躍起になってて、更にその横じゃあ緊急呼び出しを食らった部長が、死にたいんです! って言って駆け込んできた若い女の愚痴を三時間半かけて聞いていた。やけに多いなあ、今年は」
「ああ、まったくだよ」
室井の話に、井崎は少しばかりうんざりしていた。
「それより、俺の患者で、ベッドが満床になった」
三年前、井崎が赴任してくると同時に、この総合医療センターは、医療の地域格差を無くすことを目的にER制度を一変させた。
それこそ、かつては夜の病院には研修医しかいない、などと言われていたものだが、制度改革以来、どんな患者のどんな症例にも臨機応変に対応できるよう、各医科のスペシャリストとも呼べる医師や看護師が優先的にERへ配属されるようになった。
この改革は、都会に集中している医師を好条件で雇い入れたり、時には開業している医師たちを当直に招くことにより、医師のローテーション勤務を可能にし、過剰労働を防止しながら、なおかつ緊急事態に対応するという、非常に優秀な制度を構築した。
しかし、この改革は地域住民から好感を得ると同時に、コンビニ受診の頻度を上げる結果をもたらしてしまった。結局、夜間の診療費を二割ほど引き上げるという対策を打ち、ようやく不必要な受診が少なくなったように見える今日このごろ……やたら事故や自殺による重篤患者が運ばれることが多い日が続いている。
ERは、緊急患者を「常に」受け入れるため、ベッドは「常に」空いていなければならない。ベッド満床を理由に、ERが患者の受け入れ要請を断ることなど、あってはならないことだ。ERに勤務する井崎たちが、口喧しく言われるのは、とにかくベッドの回転率を上げろということだが、肝心のER部長はベッド・コントロールに関してはあまり優秀とは言えない。
「結局、夕べは飯ヌキだった。ああ、思い出したら腹減ってきた」
「医局に行けば何かあるだろ。そう、絶望的な顔をするなよ」
室井の言葉に促されるように、井崎は倒れこむように腰を埋めていた備品のソファから立ち上がる。壁ひとつ隔てた先には、一刻の猶予も許されない患者が徹底的な管理のもと静かに目を閉じていた。
容態が急変すれば呼び出しがかかる。井崎はさっとモニター類に視線を向けてから、ICU(集中治療室)を後にした。
「そう言えば、夕べ、そのコンビニでとてつもなく可愛い女子高生に会った」
「女子高生? コンビニで?」
室井と並んで廊下を歩きながら、井崎はついそんなことを口にしていた。室井の目に好奇心がじわりと滲み出たのが分かる。案の定「どんな子だ?」と聞いてきた。
「どんな子って言われてもなあ、とにかく、すごく可愛い子というか、綺麗な子だったとしか言い様がない。でも、不思議な子ではあったかな。この蒸し暑い季節に、冬服のセーラー服を着てた。まあ、似合ってたけどな」
「そりゃあ、そういうファッションが流行してるんじゃないのか? 最近はワケの分からん服を着るのがカッコいいだの可愛いだのと言う連中が多いじゃないか。ほら、真っ黒に日焼けして、目のまわりを白く囲んで、ド派手な金髪に……」
「何年前の流行だ、それは」
しかしながら女子高生の流行ファッションにはさほど詳しくない井崎は、それ以上の言葉は誤魔化しておいた。
「それで、野良犬の群れに追いかけられてたんだよ」
「へえ? 美少女が? 野良犬の群れに?」
意味深にニヤリとしてきた室井を無視して、井崎は昨夜の記憶を辿った。そんな井崎を見て、室井が不思議そうな顔をする。
「笑い事じゃすまないかもしれないんだ。犬の所見なんだが、咳、腹水、呼吸困難、失神、血尿。更に極度の興奮状態、吐血、転倒、狂騒。虚脱症状を起こしてる犬もいた」
指を折りながら告げると、眠たそうな顔の室井の眉間に微かな皺が寄っていく。
「真っ先に思いつくのがフィラリアの重感染ってところだが、狂犬病も気になるところだな、そりゃあ」
頷く。考えることは同じだ。
「典型的な恐水、恐風反応は?」
軽く息をつき、すれ違うスタッフに会釈をする。夜勤明けらしい看護師は、疲れた顔をしながらも愛想のいい笑顔を返してくれた。
「水をぶっかけてみる余裕はなかったから、不明としておく。だが、風を恐れている様子は無かった」
「ふうん。何ともいえないな、それは」
井崎の答えを聞いて、室井は気のない顔を天井に向けて呟いた。
エレベーターのボタンを押す。箱が到着するまでの十数秒を、壁に寄りかかって休息に充てた。今こそ、センター長に問いたい。改革とは何だったのか、と。
「保健所が感染の疑いのある野良犬を捕獲したとしても、経過観察が最低でも二週間かかる。仮に死体で見つかった野良犬を解剖したとしても、検査結果が出るまで同じくらいだ。まあ、狂犬病なんて、まさかとは思うがね」
箱が到着すると同時に、室井が喋り始めた。そうであって欲しいと思うのは井崎も同じだが、目の前であの犬の状態を見ている以上、気楽に否定はできなかった。
「アメリカには、狂犬病がコウモリから感染した例もあるだろ。狂犬病はすべての哺乳類に感受性を持つんだ。渡り鳥がインフルエンザの代わりに狂犬病を運んできたって不思議じゃない」
自分で言って、井崎は背筋に寒いものを感じていた。もし仮にそうなったとしたら、不安に怯える市民が大量に押し寄せ、まず間違いなくこの総合医療センターは機能しなくなる。それどころか、病院そのものが狂犬病を拡大感染させる汚染源にもなりかねない。
寝不足でいまいちスッキリしない頭が、そんなことを考えていた。馬鹿馬鹿しい、と自分で思う。そんな映画みたいなこと、現実に起こるはずなどない。自分の考えを自分で否定する井崎の横で、室井が思案顔になる。
「渡り鳥に限った話じゃあないかもしれねえよな、そういうの。日本の税関は未だに犬しか検疫しないんだっけか。まったく、せっかく島国で伝染病から隔離されやすいっていうのにねえ。病原体をフリーパスで入国させるこのシステム、どうにかならんモンか」
室井は強烈な寝癖がついた頭をゆらゆらさせながら、眠たそうな声で呟いていた。一時期、巷で無造作ヘアーというファッションが流行してからというもの、彼は爆発した頭で出勤することに正当性を主張するようになった。
その結果、より一層看護師に敬遠されることとなってしまったが、本人は一向に気にする様子がない。
「まあ、日本が世界で最初に狂犬病を国内から撲滅したっていう事実だけは認めてあげましょうではありませんか」
室井の軽口に適当に頷きながら、井崎は、コンビニの出入り口に撒き散らされた血液や唾液の飛沫に思いをはせた。コンビニの店員はちゃんと保健所に連絡を入れただろうか。まさかとは思うが、どんな病原体に汚染されているともしれない野良犬の体液を素手で触れるようなことはしていないだろうか。考えると心配になってくる。
「そう言えば、関係あるかどうかは知らんが、昨日までの約一ヶ月で、犬に噛まれた、狂犬病が怖いから検査してくれ、ワクチンを打ってくれって外科外来に駆け込んできた患者が八人いる」
「八人?」
その数字に、井崎は顔色を変えた。
「去年までは年間で十人程度だったんだがね。もちろん、海外の旅行先で野良犬に襲撃されたってわけではない。この界隈での話さ」
「……本当か、それ」
彼にしては真面目な表情で、室井は頷いた。
「外科外来の島本さんも、さすがにこれはおかしいぞって顔してたよ。今はまだ結果待ちだ。保健所の方からも特に指示は出ていない」
エレベーターが六階に到着する。扉が開くなり、居合わせた看護師が挨拶をしてきた。
「で? その、やたら可愛い子とは連絡先とか交換したのか?」
看護師をやり過ごした後で、室井がニヤニヤしながら聞いてきた。
「できるわけないだろ。ちょうど呼び出しも食らったし、犬の群れが追いかけてきて、とてもそんな余裕は無かったんだから」
ふてくされたように言えば、室井が含み笑いを漏らした。
「おいおい。お前が取り扱える“メス”は手術用に限定されているんじゃないだろうな?」
「しょうもない……」
三十を超えたあたりから、室井はやたらと駄洒落を飛ばしたがる。いわゆるオヤジギャグというヤツだが、彼の冗談は、本人以外を笑わせることがあまりない。
「確かに可愛い子だったけどな、確実に無理だろ。相手は高校生だぞ。俺が手を出したら犯罪だ、犯罪。センター長にぶっ殺される」
言いながら、井崎は小さく溜め息を落とした。しかしながら、分かっているならいい、などと返す室井が既婚者であることを思い出し、意味も無く対抗意識を煽られた。
「いつ救急が来るか分からないんだ。天は二物を与えずって言うだろ。今の俺には仕事がすべてなんだ」
「そういう負け惜しみを言ってるから、肝心の一物の使いどころを逃すんだよ」
医局のドアを開けながら、井崎は軽く噴き出してしまっていた。看護師たちの挨拶を受けながら、室井を振り返る。
「“ツッコミどころ”のない話だな、それ」
二人は寂しく笑い、周囲から奇異な視線を向けられることとなってしまった。
「……署は、今年四月に脱走したと思われていたサルの死体を三山橋下の配水管の中から収容したと発表しました。サルはアフリカ、ガーナ産のミドリザルのオスで、発見されたときにはすでに死んでいたということです」
音量を抑えた液晶画面には、なんとも挑戦的な顔をしたサルがベスト・ショットで映っていた。
「何がどうなったって?」
興味を惹かれて、井崎は傍にいたERに配属されている正看の野沢友恵に話しかけた。控えめながらもきちんとセットされた黒髪に、小さな顔、整った目鼻立ち、小柄な体。友恵はまるでテレビドラマの中から飛び出してきたような看護師だが……。
日々の業務の中、井崎は彼女が幾度となく体重が百キロを超えるような男性患者を平然と支えている姿を目撃している。友恵を眺める視線にフィルターがかかってしまうのは、惚れた弱みというやつに違いない。
彼女を初めて見た瞬間、心にさざ波が立つのを感じたのだが、残念ながら今年で二十二歳の友恵は三つ年上のスポーツインストラクターと交際しているという室井情報がある。
だが、友恵を見ていると、どうしようもない感情が胸の内で暴れまわる。恋人がいてもいなくても、可愛いと思うものは可愛いし、惚れたものは惚れた。仕方がないのだ。
「インターネットを通じて、野生動物を無許可販売していた業者がいたらしいです。五月に逮捕された自称・会社員の男は、その業者から委託されて、客との仲介業みたいなことをしてたそうなんですけど、肝心の業者の方は行方不明ですって」
井崎の心情など知らない友恵は、淡々と説明してくれた。友恵への気持ちはともかく、井崎は無意識に眉を寄せていた。逮捕された会社員には興味が無い。行方不明だという業者もどうでもいい。
問題は、サルが脱走していたということだ。その時、室井が見事な大あくびをかまし、歳若い看護師たちから白い目を向けられていた。
「今日は朝から犬に続いてサルの話題かあ。さて、キジはどこかな、キジは。新聞の“記事”を探しているんだが……」
しまりのない顔をしていた室井の前に、看護師のひとりが些か乱暴な仕草で新聞を置いていった。彼女の言った通り、二面の下部に死体で見つかったと思われるサルの記事が載っていた。
「残念。この“キジ”、“トリ”じゃない」
室井のギャグに反応した者は誰一人としていなかった。井崎は看護師が淹れてくれたコーヒーをありがたく受け取りながら、その記事に視線を向ける。室井のギャグはともかく、やはりサルのことが気になった。
早々に危険なウィルスを保有していないということが確認されれば一安心なのだが……。室井のブラックホールを連想させるあくびを見ながら、そんな風に考えた。
「ねえ、井崎先生。サルから伝染る可能性がある感染症って、どんなのがありましたっけ?」
ふいに、友恵がそんなことを聞いてきた。微かなシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐる。つい見とれてしまいそうになる自分を何とか収め、井崎は誤魔化すようにコーヒーを口元へ運びながら、質問の回答を記憶の中から引っ張り出してきた。
「サルは……例外なく赤痢アメーバに感染しているし、日本に輸入されるサルのうち、四十パーセント以上がBウィルスに感染していたという報告もあるよ。それから、サルから人間に感染した感染症として有名なのがエイズ」
頷く友恵を見ながら、密かに満足していた時、横からERの看護師長である鈴木愛子がしゃしゃり出てきた。
「エボラ出血熱だってサルから感染したんでしょう? サルは本当に恐ろしいですよね。どんな病気を持ってるやら分かったもんじゃない。素人が何の知識もなしに飼うなんて、自殺行為ですよ」
井崎は曖昧な笑みを返す。鈴木の言うことはもっともなのだが、井崎の本音は友恵と話がしたい、としきりに訴えている。鈴木はERの看護師を仕切る優秀な看護師長だ。それは認める。認めるが、二十二歳の容姿端麗な女性との話を邪魔されると、ただの分厚い壁のようにしか見えないのも事実なのだ。
「素人が軽い気持ちで飼育するものではない、という意見には賛成ですね。エボラ出血熱の場合、確かにヒトでの流行に前後して必ず野生のゴリラやチンパンジーに集団感染が診られますし、エボラ出血熱を発症した人間が、感染を疑われるサルの死体に接触しているのも事実です」
井崎は一呼吸おいて、話を続けた。
「ただ、正確に言うと、このウィルスと、それからマールブルグ熱の自然宿主はコウモリなんですよ。サルからヒトに感染はしますが、サルに特有のウィルスというわけではないと、最近の研究では判明してます」
友恵に説明していた時に比べて、些か口調が冷たくなったのが自分でも分かる。熟女の勘が働いたらしい。鈴木はフン、と鼻を鳴らした。
「そうなんですか? でも、結局サルが危険だってことには違いないでしょう? ヒトに伝染るんだから」
そう言われれば、井崎に反論の余地はなかった。一方、やりとりを黙って聞いていた室井が何とも言えない笑い声をあげる。
「まあ、確かに間違いではないがね。最近はエイズ・ウィルスに感染していても発病しない例が増えているし、死亡率が高かったザイール株のエボラ出血熱ウィルスも、死亡する症例は減少してる。人間に適応する気配を見せ始めてるんだよ。なぜなら、宿主を殺してしまえば、それはすなわちウィルス自身の死に直結するからさ」
室井は一気にコーヒーをあおった。
「特に、エボラ出血熱にしろ、マールブルグ熱にしろ、死亡率の高さの割りに感染はそこまで拡大しなかった。無論、WHOや地元の医師たちの必死の封じ込め作戦が功を奏したのは事実だが。ただ、この感染症は感染してから死亡するまでがあっという間だ。大流行を免れたのも、皮肉なことにこの死亡率の高さと、死に至るまでの速さのせいで、感染を広げる機会が極端に少なかったことが一因だとも言える」
一理ある、と井崎は頭の中で相槌を打った。
「室井先生、どうして今日ERにいるの?」
どこからともなく、冷めた声が聞えてきた。室井は気付いていないらしく、講釈をたれる口を閉じようとはしなかった。
「ついでに言うなら、鳥インフルエンザに代表されるように……」
「ねえ、呼吸器外科に送った例の館山さん。またセクハラしたらしいわよ。今度は優子ちゃんだって」
「ええっ? それ、本当ですかあっ?」
「いい年こいて嫌よねえ、ホント。一緒に寝てくれって言って引き下がらなかったらしいわよ。できないならプロを呼べって」
「なんか最近、そういう患者さん、妙に多いですよね。病院を何だと思ってるんだか」
呼吸器外科に入院している患者の下半身について盛り上がる看護師たちの脳裏からは、すでに室井の存在は完全に忘れ去られていた。
「いっそのこと尿カテ(尿道カテーテル)をブチ込んで、ペニスを使用不能にしてみたらいいんじゃないですか?」
友恵が放った一言は、聞こえなかったことにしておいた。看護師たちの笑い声が交差する。井崎と室井は、無言で視線を合わせ、苦笑いを浮かべていた。
看護師はその年齢に関係なく、人間の裸体を見慣れているものだ。よって、その口をついて出てくる言葉には容赦も遠慮もない。独身男の井崎としては妙に居心地が悪い思いをすることもしばしばだが、だからといって看護師に面と向かって意見を言えるほどの権力は無い。友恵に限らず、聞こえないフリをしておくのが最も無難である。
昨晩の当直だった田村がうつらうつらと舟をこいでいる。やがて朝の申し送り開始予定時刻から十分ほど遅れて、部長の相模が眠たそうな顔をしながらやってきた。ようやく、ERの朝が始まろうとしている。
「昨夜、十一時半ごろ、坂井町富丘の交差点で右折してきた乗用車に跳ねられた男性が救急搬送されてきました。身元は不明。年齢は四十代後半から五十代。搬送時、意識レベルは三00、自発呼吸はなし。脈は 骨動脈でかろうじて確認できました。所見は……」
井崎は朝の申し送りプレゼンのトップバッターを切った。いつもの朝の、いつもの光景だった。