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2 (腐乱死体・グロ注意)

 いつもながら思う。人間の死体って、どうしてこんなに汚いの?

 

 建物全体が悪臭の固まりになっていた。それはもう部屋に悪臭が充満しているという生易しいレベルの話ではない。口から体に入り込んだ臭いが血液の流れに乗って、体全体を汚し、細胞という細胞を同じ臭いにしてしまいかねないような悪臭だ。


「やれやれ。どうしたモンかね」


 ネコの鳴き声が重なり合う。高梨夢乃は、現場に到着した大先輩に、敬礼だけで答えた。お疲れ様です、河合警部。その一言が、どうしても喋れない。高梨は今、人間にとって当たり前であるはずの呼吸さえ、ままならない状況に追い込まれていた。


「吐くなら外でお願いしますよ」


 顔見知りの鑑識員が呆れたように言ってきた。いつもなら言い返すところだが、今日ばかりは何も言えなかった。できれば呼吸を止めてしまいたい。だが、自分の意思で息を止め続けることができる人間などいるはずもない。


 仕方なく、彼女は金魚のように浅く速く口だけで呼吸をした。深く息を吸い込んだら最後、嘔吐どころか卒倒してしまいかねない。河合と視線が交わる。てっきり叱られるかと思ったが、意外にも何も言われなかった。


「やれやれ。堪らんなあ、この臭いは」


 ベテラン警部でさえ顔を歪めて堪らない、と口にしている。そんなささやかな事実が、高梨を奮い立たせた。意を決したところで、足元を掠めていった毛皮の感触に総毛立つ。あちらこちらで、捕獲の手から逃れようとネコが喚き散らしていた。


「お疲れ様です、河合警部」


 蚊の無くような声ではあったが、ようやく声を出せた。こちらを見た河合が小さく頷いた。再び敬礼する。報告をしなければならない。緊張を紛らわせるためならば深呼吸をすればいい。


 しかし、今ここで深呼吸でもしようものならば、間違いなくこの毛だらけのフローリングに胃の内容物をぶちまけてしまう自信があった。


 現場を荒らしてしまえば、鑑識だけでなく上層部から大目玉を食らう。何より、嫁入り前の身で赤っ恥はかきたくない。込み上げる嘔吐感をギリギリで押さえ込んでいたのは、最後の理性を超えた女のプライドだった。


「遺体となって発見されたのは、この家に住む女性、松下信子、五十七歳です。死因は鋭利な刃物で頚動脈を切断したことによる、失血死だと思われます。凶器となった包丁は右手に……」


 高梨は言葉を詰まらせた。報告しにくい内容だったからではない。空気が動き、悪臭の固まりが顔面の目前を漂ってきたせいだ。


「遺書は見つかっていません。現場の状況からして、自殺と他殺。両方のセンから当たってみるべきだと……考えています」


「なるほど」


 彼女の報告を聞いた後、河合は一通り室内に視線を走らせ、ひとり納得するように幾度か頷いてみせた。そして、床に散乱した食器の破片や調理器具などを器用に避けながら、リビングの中央に横たわっている食い荒らされた死体へと歩み寄っていく。


 さかんに訴えかけてくる逃げ出したいという本音を懸命に押さえ込み、高梨もその後に続いた。


「一人暮らしか?」

「はい」


 ネコに食い荒らされてすっかり崩れてしまった容貌の中、見開いた目が天井を凝視している。動かない眼球にハエが止まり、せわしなく動き回っていた。今、ハエは目を食べているのだろうな、と思うと身の毛がよだった。


「夫は三年前に癌で他界。二人の娘はともに嫁いで、市街で暮らしているそうです」


 遺体の腹部は自分の二倍ほどの厚さがある。一言で言ってしまえば肥満体型だ。脂肪がたっぷりと纏わりついた生白い腹は、ところどころに穴が空いていて、ドロドロした液体が零れていた。


 赤黒い穴の奥で、数匹のウジが蠢いているのが見える。きっと、腹の中にはぎっしりウジが詰まっているのだろう。


 勘弁してよ、と心の底で思う。大量のウジを見た後では、何の変哲も無い、ごはん粒がウジに見えて、一瞬ゾッとするのだ。同居している甥っ子の食べ零しに、いったい何度、鳥肌をたてたことか……。また今夜も、食事が喉を通らない。


「収入はどうしてた?」


 河合に聞かれ、高梨は慌てて手帳を捲る。


「駅前のスーパーでレジ打ちをしていたそうですが、これは一ヶ月前に辞めています。近所の主婦は、体調不良を訴えているのを幾度か聞いたことがある、と言ってました」


「そりゃあまあ、五十七歳にもなりゃあな。新品同様ってワケにはいかんだろう。仕方ないさ。持病の類は?」


「今現在、調査中です」

「そうかあ。調査中かあ」


 言いながら、河合は屈みこみ、死体の顔を覗きこんだ。


「歯にネコのフンがこびりついてるぞお」

「えっ?」


 思わず目を見開いたとき、何の前触れも無く戸棚の上にいたキジトラの太ったネコが、死体の腹の上に飛び降りて来た。何とも例えがたい音がして、死体の腹部から僅かだがガスが噴出する。


 ついでに、肛門から濁ったどす黒い液体が、多少の固形物と一緒に飛び出してきた。局所的に悪臭がきつくなる。高梨は思わず口元を押さえていた。


「こりゃあ、仕事にならんわ」


 鑑識員たちがうんざりした口調で言っていた。現場保存と記録が仕事の彼らにとって、この場所はまさしく最悪と言える。五匹ほどのネコが、捕獲しようとする手を逃れてあちこちを走り回るのだ。現場はいろいろな意味でメチャクチャだった。


「死体の口の中にネコのフンが付いてる。手の爪にも」


 河合が何を言っているのか、高梨は全く理解できなかった。いや、理解することを拒否していたのかもしれない。呆然と立ち尽くす自分を、鑑識員たちが冷めた目で見つめていた。なぜ彼らが今、平気な顔をしていられるのか、高梨にはまるで分からなかった。


「普通は腐敗が始まると、ガスが溜まって、腹の奥の方から口に向かって、いろいろと噴き上げてくるもんなんだがなあ。こんだけ齧られまくって腹に穴が開きまくってんじゃあガスもダダ漏れだったんだろう。おかげで、口の中の状態が綺麗に残ってらあ」


 河合は死体の顎を掴み、しげしげと口内を覗き込みながら言った。まるで世間話でもするかのような口調である。個人的にはあまり好きではない上司だが、こういう時だけは本当にすごいと思う。


「もしかしたら、頭の中の方に病気を抱えていたのかもしれんなあ。普通は、どんなに腹が減ってもネコのフンを食おうとは思わないだろうから」


 河合が、わざわざはっきり言ってくれたせいで、高梨は目の前で太陽が翳ったような、照明がワントーン暗くなったような、そんな錯覚を抱く。足元がグラつき始めていた。


「死体を発見したのは?」


 そんな高梨に容赦なく、河合が質問を浴びせてくる。高梨は必死で言葉を繰り出した。


「お隣のご夫婦です。悪臭がひどいので、話し合いをしようと」

「まあ、そりゃあそうだろうなあ」


 確かに、悪臭は凄まじい。何の世話もされないまま、五匹のネコが閉鎖された空間で暮らしていたのだ。あちらこちらに、撒き散らされた糞尿、あるいは吐しゃ物が散らかっている。


 ネコの排泄物はただでさえ臭いがきつい。ツンとした独特の刺激臭に加えて、腐乱死体に独特の悪臭ときている。夏場、台所の三角コーナーの生ゴミを放置しただけでも鼻を摘んでしまいたくなる悪臭がウジとともに発生する。


 人間ほどの大きさがある生肉が消化酵素とともに腐れば、発生する悪臭は想像を絶するものがある。換気をしてもとても追いつかない。腐乱死体に出会った後は、しばらく鼻がきかなくなるのが常だ。


「遺書がないこと、着衣がないことが気になります」


 高梨が思い出したように報告すると、河合は軽く息をついた。


「警察としては、それだけの理由で事件性があると判断することはできんよ。精神疾患の疑いがある以上は、裸でウロついていたからと言って、第三者の関与を裏付ける決定的な証拠にはならんだろう」


 言いながら、河合は周囲をぐるりと見渡した。


「現場は確かに乱れてはいるが、それはネコの仕業だ。貴重品が丸ごと残ってるってのに、物取りはねえさ。それに、死体には生活反応が見当たらん。アザひとつ見当たらねえってのに、レイプ犯のセンはねえだろう」


 高梨の顔をチラリと見やり、河合は小さく溜め息を落とした。


「どうしてもって言うなら、遺族に了承を取って行政解剖を勧めてみることだ。まあ、遺族が了承するとは思えんがね」


 話は終わりだ、と言わんばかりに河合は踵を返してしまう。


「でも、警部! 私どうしても……!」


 納得できないんです、と半ば負け惜しみから出かかった一言が、喉で詰まった。大きな声を出すために思い切り空気を吸い込んでしまったのが災いした。顔面から急速に血液が引いていく。胃が限界を訴えていた。


「も、もうダメ……!」


 口元をハンカチで押さえつつ、高梨は道路に向かって全力で駆け出した。やれやれ、と呟いた声が誰のものだったのか、確認する余裕はなかった。

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