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「七月十八日、午後十時三十五分、花木町在住の遠野久子さん五十五歳がERにDOA(病院搬送時・心肺停止状態)で搬入されました。主治医は大野先生。CT検査の結果、脳内に多量の血腫を確認。CPR(心肺停止)状態が一時間近く続いていたこともあり、救命措置に反応はなく死亡確認されました」
真夏の朝日が燦々と差し込む医局で、毎朝恒例の申し送りが開かれていた。シャウカステンには十枚近いCT画像が挟まれ、爽やかな夏の朝にはおよそ似つかわしくないスライスされた脳の断面図を晒している。
ER勤務の医師たちを前に申し送りを行っているのは病理解剖室から出向いてきた室井である。テーブルには大量のカルテが積み重ねてあるが、室井は手ぶらのままシャウカステンの前に立っていた。
「遺族から承諾を得ることができましたので、遠野久子さんの遺体は病理解剖を適用しました」
当事者である大野が憮然とした顔でコーヒーをすすった。井崎はいつもの癖でCT画像に視線を向けていた。遠野久子の頭部をスライスした画像を見る。やはり、脳内の巨大な血腫が目を引いた。
「細かい検査なんかはまだまだ結果が出るまで時間がかかりますが、ただ、問題はですね、この患者さんは大学病院で一週間前に脾臓の摘出手術を受けているんです。それも、例のフィラリアで」
室井の言葉を聞いて、一同の顔色が僅かに変わった。
「七月四日に井崎が……ああ、井崎“先生”が担当された救急患者にも脾臓に寄生した虫が確認されています。PCR法では犬フィラリアと極めて近い数値を取りました。遠野さんの脾臓に食いついていた虫についても、今現在、検査中です」
検査中だと言ったものの、一同が同じ種類の虫だと思っていることは間違いない。思い込みは危険だと分かっているものの、自分自身もまた、そう考えずにはいられない。考え込む一同を見渡しながら、室井は彼らの集中をもう一度自分に向けさせるためか、敢えて大きな声で喋り始めた。
「それで、頭の方なんですがね、脳の血管を詰まらせて破裂させたのは動脈瘤ではなく、トキソプラズマだったんですよ」
静寂が落ちる。最初に口を開いたのは部長だった。
「まさか、エイズ……」
「いえ、検査結果は陰性でした。家族に既往歴を聞いたところ、持病は高血圧だけで、特に不調を訴えたりもしていなかったそうです」
トキソプラズマ脳炎で死亡したということは、患者はほぼ確実に免疫機能に何らかの異常をきたしていると言える。ただし、その原因が後天性免疫不全症候群、通称エイズでないのなら、検査結果が出るまで確かなことは何も言えない。
「血腫が、随分とデカイですよね」
じっとCT画像を眺めていた井崎は、誰にともなく言った。もともと、血腫を伴った脳内出血は予後が悪いことで知られているが、この患者に限っては、血腫の大きさからして命を持っていかれたのは当然だと思った。
「この画像を何の予備知識もなく診断しろって言われたら、俺なら間違いなく脳挫傷だと言います。交通事故とか、高いところから落ちた、とか。でも、頭部に外傷は無かったんですよね、室井先生?」
「もちろん。これだけの脳血腫を引き起こすような外傷は、どこにも見当たりませんでした、井崎先生」
「犬フィラリアが影響した可能性は考えられないでしょうか、室井先生。例えば、脾臓にいる親虫が子虫を生んだとか」
「脳血管に詰まってましたのは、間違いなくトキソプラズマ原虫でしたよ、井崎先生」
普段、室井とは気兼ねなく言葉を交し合っているせいか、大勢が集まっている場所で改まった口調で会話をしていると舌が絡まりそうになってしまう。互いに引きつった顔で会話していると、横から大野が会話に割り込んできた。
「突拍子もないことを言い出すのは止めていただきたいですね。フィラリアが人間の脾臓に寄生することさえ有り得ないのに、そこで繁殖するなんて、さながらSF映画の話ですよ。現役の医者が口にする話とは思えませんが」
井崎が言い返すより早く、大野は溜め息をついて言葉を続けた。
「そんなことよりも、熟慮すべきことは他にあります。救急隊の話によれば、大学病院ではなく何があってもうちのER(救急救命)に運んでくれと言っていたそうです。つまり、大学病院の医療行為に納得してないということですね。それで……」
井崎はつい大野の言葉を遮って口を開いていた。
「それで、大野先生はご遺族が納得できるような治療ができたんですか? DOA(搬送時死亡)だろうが何だろうが、俺なら開胸してみます」
「そういう無駄な医療行為が、患者の信頼を無くす原因になっていると思いませんか?」
「大野先生はどうだか知りませんが、俺は患者さんに納得してもらえるような医療行為を行っています。それが無駄だとは思いません」
「あなたはそれでいいんですよ。患者さんのためにできることをやる。大変けっこうなことです。立派ですよ。しかし、その結果のことまで考えているんですか? 回復の見込みのない患者に、いったいどれだけの金と医療資源を費やせば気が済むんです?」
「大野先生がどう考えているかは知りませんけど、保険制度っていうのはそもそも助け合いの精神が無ければ成り立たないんですよ。医学を学ぶ者にとって、都合のいい患者のためだけに支払われるべきものではないはずです」
「それこそあなたの勝手な理屈ですよ。私はあなたとは違って地方の無名大学ですからね。学術論文なんかに興味はない。現実問題、総合医療センターの経営は赤字なんです。特に、我がER(救急救命)が総合医療センターの大出血部署です。その原因はまず間違いなくあなたですよ、井崎先生」
「それを何とかするのは俺の仕事ではありません。むしろ、大学病院がそういった経営者向けの医療行為しかしないからこそ、敢えてこの総合医療センターを選ぶ患者さんが増えているんじゃないですか?」
大野との間に火花が散った時、慌しく廊下を駆けて来る足音が聞こえてきた。
「堀内先生! 岡部さんの容態が急変しました!」
ドアを叩き付けるように開き、開口一番に中堅どころの看護師が告げた。ほぼ同時に、その主治医であるらしい消化器外科の堀内が立ち上がる。
「今現在、看護師が総出で押さえつけています! いきなり暴れ出して、手が付けられません!」
「バイタルはっ?」
「引き千切ってしまうんです! 測れません!」
取るものも取り合えず医局を飛び出していく堀内を見て、井崎も咄嗟に腰を上げた。人手はあった方がいい。咄嗟の判断がそう告げていた。室井が手を振っている。睨みつけてくる大野と、逡巡している部長を一瞥し、井崎は医局を飛び出した。
問題の患者の病室がどこなのか知らなかったが、廊下にまで漏れ聞こえてくる騒ぎのおかげで迷うことなく病室に辿り着くことができた。開け放たれたドアを覗き込むと、真っ先に異様な形相をした患者が目に入ってくる。激しい咳が聞こえる。ベッド脇には、大量に嘔吐した形跡も残っていた。
いっそ見事だとしか言い様がないほどに土気色の顔色をした四十代の男を、三人の看護師が堀内の指示に従って必死で押さえつけていた。しかし、男の力は相当なもので、看護師が全体重をかけて押さえ込んでいるにも関わらず、その体を跳ね除けて腕を振り回している。井崎はすぐに看護師たちの手伝いに回った。
「井崎先生!」
患者に跳ね飛ばされた看護師のひとりが、安心したような顔を向けてくる。他の看護師たちも、必死に患者を押さえつけながらも嬉しそうな顔で歓迎してくれた。頼りにされれば純粋に嬉しい。ましてや、若い女性が含まれていればなおさらだ。しょせん、自分も男なのだ、と思ったところで、井崎は患者の状態に気付いた。
「堀内先生! 呼吸器障害を起こしてます! 早く!」
井崎の登場を唯一、歓迎していなかった堀内の手が止まり、はっとした顔をする。聴診器を当てずとも、患者の肺から漏れてくるゼイゼイという喘鳴が聞こえていた。手足を振り回して暴れまわるのも、おそらくは呼吸が苦しいからに違いない。下肢を見れば、失禁もしている。
「処置室へ! ストレッチャーを早く!」
堀内の声で、看護師の一人が病室を飛び出していった。その間にも、患者の咳は止まらない。
「うるせえ! いい加減、静かにさせんかっ! くそがっ!」
病室の入り口から怒声が飛んでくる。今は病状が安定している患者の相手をしている暇はないので無視した。
「すぐラクになりますから! 頑張ってください! ええっとぉ……」
ベッド上部のネームプレートに視線を向ける。
「えっと、岡部さん!」
声をかけながら、井崎は紫色に変化し始めている患者の唇に気付いた。チアノーゼだ。事態は一刻を争う。
「聞こえねえのか、このヤブ医者どもがっ! テメーらが馬鹿みたいにギャーギャー騒ぐから、阪神が負けちまっただろうが! どうしてくれるんじゃ、こらあ!」
隣のベッドとの間にあったカーテンが倒され、痩せ細った中年の男が顔を見せた。その顔には見覚えがある。たびたび問題になる館山だ。ほとんど頭髪が残っていないせいで、怒りのために頭部まで赤くなっているのが分かる。館山が井崎の顔を見て、更に表情を歪ませるのが見えた。
「こっちは金払ってんだぞ、こら! 無視してんじゃねえ、このヤブ医者どもが! ああっん? 俺を誰だと思ってやがるっ! あ? 聞いてんのか、こらっ!」
ストレッチャーが到着した。ほぼ同時に、患者の目が上向く。館山は床に唾を吐きながら喚いていたが、とても相手にしてやる余裕はなかった。瞳孔反射が消え、 骨でさえ脈が取れなくなった。
「CPR(心肺停止)! たった今だ! 急げ!」
井崎は患者の顎を持ち上げるようにして気管を確保し、看護師の手から引っ手繰るように受け取った人工呼吸器を慎重に挿入していった。喉の奥に太い管を突っ込まれるのである。意識が少しでも残っていれば、人工呼吸
器を挿入する際、患者は少なからず抵抗を示すものである。だが岡部は無反応だ。横では堀内が心臓マッサージを始めている。そこへ、こともあろうに館山が割り込んできた。
「テメーら、何様だ、こらっ! さっきから俺を無視しやがって!ああん? 医者だか何だか知らないがな、お高く気取ってんじゃねえぞ、こら! いっぺん痛い目ぇ見せたろうじぇねえか!」
「館山さん! 下がってください!」
間に入って来た看護師の頬を、館山は容赦なく叩いて突き飛ばした。短い悲鳴を上げて看護師は床に転がったが、同室の患者たちは冷たい視線を向けるばかりで無反応だった。井崎自身、今は患者の処置で精一杯だった。呼吸を確保した後は、降下し始めている血圧を上げるための処置を始める。時は一刻を争う。
「テメーだ、テメー! さっきから俺を無視しやがって!」
館山の頭は、身長百七十センチほどの堀内の肩口までしか届いていない。そんな小柄な老人が、額に汗を浮かべて心臓マッサージをしている堀内の白衣を掴んで睨みを利かせた。温室育ちの堀内はあっさり顔色を変えてしまっている。
今、心臓マッサージを止めたら患者を生還させられる可能性が激減する。館山は相手の動揺をいち早く察したらしく、更に詰め寄っていった。
「館山さん、自分の病室に戻ってください」
これ以上は無理だと判断した井崎は、いったん手を止めて堀内と館山の間に割って入った。途端に、館山の表情が変わる。それを見届けるまでもなく、井崎は堀内と看護師たちに早く行け、と身振りで示した。
呼吸は確保した。病室でできることは限られている。館山に邪魔されながら右往左往していても意味がない。多少のリスクは覚悟の上でも、手術室へ送り出したほうがいい。
「なんだ、テメーは。随分とナマイキな口を聞きやがって……いいか、俺の後ろにはなあ、辻山組が付いてんだぞ、分かってんのか。辻山組に逆らったらなあ、どうなるか分かってんだろうな、あ?」
「館山さん、病室に戻ってください」
「いいか、こら! 辻山組のオヤジさんはなあ、テメーみたいな野郎が大嫌いなんだよ! 覚えとけよ、こら! こんな病院なんてなあ、オヤジさんにかかったら一発で潰れるぞ、こら!」
「病室に戻ってください」
じりじりと後退しながら凄んでみせる館山は、どこか滑稽であり、同時に哀れでもあった。一瞬も館山の目から視線を逸らさず、ベッドに戻れ、とだけ口にした。
同じことをもう三度ばかり口にすると、ぶつぶつ文句を言いながらも館山は病室を出て行った。
ほっと息をついたところで、井崎は周囲のベッドに視線を向ける。ここはERの後方病棟の中でも病状が安定している患者が多い病室だが、彼らはこの騒ぎに顔色ひとつ変えず、成り行きを見守っていた。自分を見つめる患者たちの視線が、何ともいえない敵意に満ちている気がする。井崎は言い知れぬ居心地の悪さを感じて、早々に病室を出ることにした。




