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「んてゃいじkんshさいjかおぱぁおうk……」


 ふっと意識を飛ばし、はっとして目を覚ましたその瞬間、パソコンの画面には解読不能のメッセージが四ページに渡って書き綴られていた。いつだったか、自分のパソコン画面を覗き込んだ同僚医師が、宇宙人からのメッセージだ、と言っていた。


「今日はもうダメだ。明日にしよう」


 昨日と同じセリフを今日も呟き、井崎健治はパソコンの電源を落とした。

 

 颯爽と着替えを済ませて駐車場に出る。梅雨に独特の、生温かい空気が満ちていた。湿気が肌にまとわりついて気持ちが悪い。町全体が、まるで巨大な加湿器で蒸されているような気分だ。


「ウンザリするな、この天気」


 ひとり呟きながら、井崎は足早に駐車場を横切り、愛車のもとへ向かって行った。


 車を買うならコレしかない、と一目ぼれしたのが学生時代だった。しかし、学生時代は親への遠慮から我慢していた。研修医時代は薄給が原因で諦めていた。勤務医になったら激務が原因で銀行に行く余裕がなかった。無理やり時間を作り、ようやく組みに行けたローンでSUVを購入したのが一年ほど前のこと。


 年下の看護師を誘ってドライブにでも、という計画は、残念ながら日々の激務に忙殺されたまま今に至っている。ダッシュボードに薄っすらと積もったホコリから意図的に視線を逸らし、井崎はエンジンをかけた。


 いつも通り、スマートフォンの電源を入れる。着信が一件入っていた。誰からの電話か察しはつくが、それでも一応名前だけは確認してみる。やはり、母親からだ。最近、実家の母親が携帯電話の使い方をマスターし始めたらしく、特に用も無く連絡してくることが多い。


 以前は「見て! この可愛いチンポポ!」という語句とともにタンポポの写メが送られてくるような事態が頻発していたが、最近はやたら「結婚」という二文字がチラついている。外科医である息子に「デリシャス(店名)なクチ(クッキー)を買って来て」と頼んでくる母の神経はともかく、結婚と聞けば否応なしに浮かぶ年若い看護師の顔がある。意図的に打ち消し、いつもより強めにアクセルを踏んだ。


「三十二歳、外科医、独身です。俺のスペックで、どおですか?」


 自嘲ぎみに言いながら、井崎は随分前にネットで見かけた婚活サイトの謳い文句をこれみよがしに口にしてみる。まさに自分のことだ。しかしながら、サイトの経営者の思惑とは裏腹に、現実の三十二歳・外科医・独身は婚活どころか男の生理現象の処理さえままならないという状況にある。思い出した途端に疼き始める本能を押さえ込み、井崎はゆっくりと駐車場を横切った。


 職員用の駐車スペースを抜け、定期券で料金所をパスした後、県道に向かって車を走らせる。緊急手術などの呼び出しに備えて、井崎は、総合医療センターから車で五分ほどの場所にアパートを借りていた。


 スムーズに流れる県道で、心地よいエンジンの振動を充分に味わう間もなく、脇道へと逸れなければならない。自宅の向かいにある雑居ビルの一階には、コンビニエンスストアが入っている。時刻は午後十一時半。井崎は最早コンビニが無くなった後の自分の生活を想像することさえできなかった。


「いい加減、おにぎりばっかりも飽きてきたなあ」


 仕事柄、井崎は隙を見て昼食を掻きこむことが多いので、購買で買えるおにぎりやサンドイッチは非常に重宝している。しかし、たまにはまともな食事がとりたい、と思う。炊きたての白飯に、味噌汁、焼き魚、煮物……。ステーキや焼肉の代わりに頭の中に浮かんでくるメニューに、彼は小さく苦笑を漏らした。


 狭い駐車場に車を停め、エンジンを切る。キーケースをジーパンのポケットに突っ込んで店内に足を向けようとしたその時、けたたましい犬の鳴き声が鼓膜をつんざいた。一匹、二匹ではない。甲高い鳴き声から低い唸り声まで、それぞれが狂ったように吼え散らかしながら移動している。キーケースにぶら下げた犬のマスコットが揺れる。こう見えて、犬とおばちゃんにはモテるのだ。彼は足早にコンビニの裏路地へと向かっていた。


 コンビニを曲がって暗い路地へと踏み出したその瞬間、こちらを突き飛ばすほどの勢いで胸骨部分に頭突きを食らわしてきた何かがいた。てっきり大型犬かと思った井崎だったが、セーラー服と艶やかな黒髪が視界に入り込んできて、思わず腰を後ろに引いていた。


「お、おい、大丈夫か?」


 咄嗟に肩を掴めば、少女が反射的に顔をあげる。僅かに濡れた切れ長の目元に見つめられて、井崎は心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚えた。言葉が出てこない。心拍数が上昇するのを感じた。少女を凝視したまま硬直してしまった井崎だったが、途端に狂ったような犬の鳴き声を耳にして正気に返っていた。


「ちょ、ちょっと待て……!」


 自分でも何を待って欲しいのか分からないまま、少女の背後に視線を向ける。十数匹の犬が牙を剥きながら路地を埋め尽くしていた。彼女の顔色がさっと変わる。


「追いかけられてる?」


 犬の群れと少女を交互に見ながら問いかければ、彼女は何も言わないまま何度も頷いた。


 間近で見た肌は陶器のように滑らかで、ファンデーションを塗っているわけでも無さそうなのにニキビ痕ひとつ、毛穴ひとつ見当たらない。黒いレースのカチューシャが飾られた黒髪は艶やかで、緩くウェーブするようにセットされていた。汗ばんだ白い首筋に、黒髪が纏わりついている。その光景に、ぞくっとした。血流が下半身に集中しようとしている。慌てて少女から視線を逸らす。まともに顔が見れなかった。その時、井崎は彼女が左の脚を引きずっていることに気付いた。


「と、とりあえず! 店の中に!」


 少女の肩を抱いたまま、すぐ傍にあるコンビニへと促す。勢いよくドアを開け、少女を先に入らせた。ほのかな香水が鼻腔を掠めていく。今は勘弁してくれ。下半身で存在を強調し始めた愚息に、本気でそう願った。


 追ってくるイヌたちの鳴き声も重なり、コンビニの店員が何事かという顔を向けてくる。構わずに扉を閉め、万が一にも犬たちが店内へ侵入してくることがないよう、しっかりと手すりを握り締めた。同時に、大型犬が体当たりしてきて、ドアが激しい音をたてる。


「手伝ってくれ!」


 二匹、三匹と体重をかけられると辛くなる。雑誌を手にしたまま呆然とした顔で成り行きを見守っていた会社員風の男に怒鳴れば、男は戸惑いながらも手を貸してきた。田舎のいいところだな、などと不躾なことを思う。


「なんなんですか、こいつら!」


 聞かれても、井崎に答えられるはずはない。ちらりと背後を振り返れば、少女はただ青ざめた顔でこちらを見つめていた。


 犬たちは異様に興奮している。十数匹の唸り声と鳴き声のおかげで、すぐ傍に寄ってきた店員の声も聞こえないほどだ。犬たちの口には泡がこびりつき、吠え立てる度に飛沫が飛び散ってガラスを汚していった。


 牙を剥きながら自動ドアに体当たりしている犬が三頭。その背後で忙しなく動き回っている犬が五頭。その他に、駐車場に停まっている車のボディに体当たりしている犬、タイヤを食いちぎろうとしている犬、地面に転がって手足を振り回している犬、噛み付き合いの喧嘩をしている犬が三頭、更に交尾を始めるものまでいる。唸り声に混じって、犬の喉から風が吹くような音が聞こえていた。


 どうしたものか、と考えていると、目の前にいた一匹の犬が突然痙攣を起こして地面に転がった。そして何とも例えがたい音を立てながら大量の血液を吐き出し、タイルの上をのた打ち回る。犬の白い毛皮が見る見るうちにどす黒い赤に染まっていった。


「なんなんだ、こいつら! ちょっと……なんか、変な病気持ってんじゃないですかっ? き、狂犬病とか! 冗談じゃないっ」


 会社員風の男が顔面蒼白になりながら叫んだ。店内の空気が変わる。彼は今にも扉から手を離して駆け出してしまいそうだった。


「日本では狂犬病は撲滅されたんだ。それに、万が一感染しても安全なワクチンがある。もし不安なら明日の朝一番で総合医療センターを受診すればいい」


 井崎は相手の目を強く見据えた。


「落ち着け」


 男はほんの少し視線を泳がせていたが、やがて井崎の迫力に押されたのか、会社員風の男は微かに頷いてみせた。


「獣医さん、ですか?」

「残念ながら、専門は人間だ」


 しかしながら狂犬病はいわゆる人畜共通感染症の代表格であるため、外科医とて最低限の知識はある。だからこそ、目の前の犬たちには狂犬病の症状と共通点が多いということも分かるし、極まれなケースではあるが空気感染した症例があるということも知っている。だが、敢えて言う必要もないことは黙っておく。


 そして間もなく、扉に体当たりしていた犬たちが諦めたかのようにその場を離れ始めた。それに伴い、周囲をうろついていた犬たちもコンビニから一匹、また一匹と姿を消していく。先ほど喀血した一匹はしばらく痙攣していたが、やがて何事も無かったかのように起き上がり、仲間の後を追って夜の街に駆け出していった。


 しばらく外の様子を窺い、平穏が戻っていることを確認してから手を離した。改めて少女の方に視線を向ける。顔立ちの美しさより先に、その左脚に視線を向けてしまうのは外科医としての性だ。


「大変だったね。もう大丈夫みたいだ。足の怪我、見せて」


 躊躇うことなく彼女の前に膝をつけば、少女の方が驚いたように身を引いた。湿気が纏わりついて鬱陶しい季節だというのに、彼女のスラリとした脚は黒い、厚手のストッキングに包まれていた。ついでに、少女が着ているセーラー服は長袖だ。少なからず疑問に思ったものの、年頃の少女の服装に口を挟めるだけの知識は持ち合わせていなかった。


「これでも専門は外科なんだ。世間一般的に、動物に噛まれた場合は、まず外科を受診するべきだと言われている。とりあえず見せてくれないか?」


 低姿勢で頼んでみたのだが、彼女は一度だけ首を横に振ったきり一向に傷を見せようとはしなかった。どうやら嫌われてしまったらしい。外科診療にはよくある話だ。もしかしたら、先ほど肩に触れたのがいけなかったのかもしれない。


 井崎は軽く溜め息を落とした。七転八倒しているわけでもないので緊急性のある怪我だとは思えない。それこそ、骨折でもしていたら真っ直ぐ立っていることなどできるはずがない。そう判断することにした。


「外科医って、白衣を着てないと微妙ね」


 ふいに、少し離れた場所にいた二人連れの女が呟いた一言が胸に突き刺さった。同時に、目の前の少女が軽く噴き出す。言った本人は、どうやら聞こえないと思って発言したらしい。女は慌てたように視線を逸らした。


 一方、はっとしたように口元を覆う少女の仕草に年甲斐もなく照れてしまっていた。女のあまりにもストレート過ぎる物言いには多少なりとも腹が立ったが、少女が自分のことで何らかの反応を見せてくれたのは素直に嬉しい。複雑な気持ちを誤魔化すように、井崎は「ともかく」と呟いて立ち上がった。


「家に帰って、傷口を水道水と石鹸でよく洗った後、必ず消毒すること。それから、明日の朝一番で総合医療センターに来てくれ。焦る必要はないが、動物に噛まれた傷はきちんと専門家に治療してもらった方が無難だ。分かった?」


 敢えて医者の口調で言えば、彼女は微かに頷いた。


 つくづく思う。素晴らしく綺麗な少女だ。こんなに美しい子は初めて見た。いつも彼の心を苦しめる年下の看護師の顔を忘れることができたのは久しぶりだった。許されるならいつまででも眺めていたい。井崎は少しばかり名残惜しげに少女から視線を逸らした。そして、所在なげに立っている店員に向き直る。


「朝になったら病院の方から保健所に連絡を入れるから、職員が来たら今日のことを話してやってくれ」

「わ、分かりました」


 感染症の疑いがある犬が、群れで住宅地をうろついてる。そう言えばさすがの保健所も重い腰をあげるだろう。


「それから、犬の血には絶対に触らないように。雨が降りそうだし、客がうっかり踏んでも困るから新聞紙を被せて、注意書きと、できれば囲いのようなもので……」


 言いかけた時、ポケットの中に入れておいたスマートフォンが着信を告げた。直感が働いた。救急だ。井崎は電話を取ると同時に外に飛び出していた。


「血液と唾液の始末は保健所の連中にやらせてくれ! それから、君! 明日、必ず病院に来るように!」


 開けっ放しのドアの向こうにいる店員と少女に念を押せば、二人が反射的に頷いて返した。電話の向こうでは看護師が患者の所見を報告している。到着予定は十分前後、三十代の男性、交通事故、腹部損傷、48、……。車に乗り込みながら、緊急手術の準備を口頭で伝える。


 明るい店内へと視線を向ける。少女と目が合った。年の差、世間体……。そんな単語が脳裏にふつふつと湧き上がってくる。井崎は軽く頭を振って、アクセルを踏み込んだ。胸に芽生えた恋の行く末を予言するかのように、暗い空から大粒の雨が降り注ぎ始めていた。

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