異端的存在を救う者
私の右頬に触れた刃がとても冷たく感じた。
冷汗が頬を伝う。
目の前の男は気味悪く口元を緩ませて、私を見下していた。
頬に刃が触れたと同時に手から滑り落ちた私の刀は、男の足蹴りによって手の届かぬ所へと飛ばされてしまった。
視界の隅でそれを確認し、目の前の男を睨む。
「アナタは一体、何が目的なの。どうして……」
言葉を遮り、男は言葉を吐く代わりに、刃を深く私の頬へと食い込ませた。
鋭い痛みが走り、私の喉から小さく悲鳴が上がる。
今まで体験したことのない痛みだった。
目の前が歪んで、自分の両目から涙が滲み出ていることに気付く。
この男に口応えをすると、容赦なく私を切り裂く気なのだろう。
「今許しを請えば、これ以上お前は傷付かないぞ?」
「許しを請う理由なんてないわ」
「ほぉ……強情なお嬢さんだなぁ」
更に深く、頬に刃が食い込む。
声を上げないように咄嗟に強く唇を噛み締めた為に、口の中に鉄の味が広がる。
鉄の味と痛みは一人で行動したことを深く後悔させた。
あの生意気な子供の忠告を少しでも聞いていたのなら、少なくとも今の状況にはなっていなかっただろう。
自分の軽薄さに腹が立った。
目の前の男はそんな私の様子を楽しむように、喉の奥で笑った。
「異端児はさぞかし高く売れるだろうな」
異端児、という言葉に身体が硬直する。
男を睨む目線は更に鋭くなり、それと同時に身体が震えだす。
私は人買いへでも売られてしまうのだろうか。
最悪のシナリオが頭の中を巡る。
頬から流れ出ている物は生暖かく、とても気持ち悪かった。
男は頬から刃を一度離し、ゆっくりと見せ付けるように私の目へと刃を近づけ始めた。
「緑の瞳に茶色の髪、お前……神に背いた種族の末裔だろう」
「……なんのことかしら」
声の震えを抑えながら、目の前の男へと言葉を放つ。
神に背いた種族、というのは知っている。
立ち寄った書物屋で見かけた。
しかし、その末裔かどうかは知らないし、それに今の私は記憶を失っている。
そう言ったらこの男は納得するだろうか。
「私は何も覚えていないわ。貴方が言っていることも理解不能よ」
「記憶喪失のふりをしているのか?
嘘が下手だな、お嬢さんよぉ。
その髪に瞳だったら誰でも気付くさ。
神が区別をつけるためにそうしたんだからよ」
刃は更に目へと近づく。
どうやら、言葉は通じなかったようだ。
寧ろ、状況を悪化させてしまったような気がする。
拷問のような時間は果てしなく長く、永遠のように感じられた。
そんな状況で身体の震えは止まるはずもなく、震えが大きくなる一方だった。
解放してもらうには、どうすればいいのか、頭で考えていると男は口を開いた。
「異端児、お前は幸せにはなれないんだよ。
神様がそう決めたからな。
……さて、お前の目を潰して、喉を潰して、手足を切り裂いて、世間へ売りに出してやろう。
末裔を見つけたというだけでも、俺は億万長者へと成り上がるんだ」
嫌だ、嫌だ……嫌だ!そんなのは嫌だ!
男の下品で高らかな笑い声を聞き、私の口は悲鳴を吐き出しそうなった。
咄嗟に唇を噛み締め、ぐっと耐える。
また鉄の味と痛みが口に広がった。
男に捕まってしまった以上、私は故郷へ帰れなくなってしまうだろう。
記憶の奥深くに眠る憧れの故郷へ。
綺麗な色の花が咲き乱れているであろう故郷へ。
そう思うと、また目の前が歪みだした。
泣いてはダメだ。
「私は本当に何も覚えてないのよ……。
私が何をしたっていうのよ!」
悲鳴に近い声を吐き出す。
記憶を喪失してから、自分が誰かは覚えていなかったが、一つだけ故郷の美しい風景は忘れていなかった。
どこに存在しているのかさえ分からない故郷へ戻るのが、私の記憶を取り戻す為の唯一の手段、手段だったのに。
私は一人で行動をしてしまった為、目の前の男に捕まってしまった。
これから私は自由を奪われて、永遠に記憶を失い、故郷へと帰れなくなってしまうのだろう。
「何もしてないさ。
それに、捕まったことは俺じゃなく、お前のご先祖様を恨むんだな。
さあ、お喋りの時間は終わりだ、異端児」
異端児、いたんじ、イタンジ。
それは避けられない事実で現実ということを、何度も確認させる言葉だった。
刃は一度引かれ、勢いよく私の目へと刺さろうとしていた。
それはゆっくりとした時間だった。
私は咄嗟に目を瞑り、後悔しきれない後悔を心の中で何度も繰り返し、覚悟を決める。
決めた。
「千歳!」
誰かに名前を呼ばれたような気がして瞼を開けると、刃が直前で止まっていた。
震えながら、声のした方へ目線を向けるとアイツが立っていた。
荒い息を上げ、目の前の情景に驚きの表情を隠せないでいた。
数分前、森で別れた少年。
赤い瞳に赤い髪。
それは黒いマントを羽織っている為、とても映えていた。
男の手も自然と止まり、少年の方へと首を傾ける。
「誰だ、お前」
「千歳からその汚い手を離せ!」
「ほぉ、なるほどなぁ、王子様の登場か?
……でも、もう遅い。
お前は異端児を助けられない。
それに丸腰でどうやってこの嬢ちゃんを救うつもりなんだ?あ?」
勝ち誇ったような男の笑い声が廃墟へと響き渡る。
不快だった、そして同時に哀れにも思った。
私は知っていた。
丸腰な少年が大人に立ち向かう術を。
ひとしきり男は笑っていたが、少年もしばらくすると薄く笑みを浮かべた。
「丸腰、だって?」
風が凪ぎ、少年の髪を揺らす。
その刹那、男の笑い声が引きつった悲鳴へと変わる。
少年の隣には真っ白な狼が立っていた。
少年の背丈よりは低いが、野生には居ないであろう大きさだった。
男は自然と私から手を離し、後ずさる。
無理もないだろう。
先程まで少年は確かに丸腰だったのだ。
そして、男は少年の容姿と白い狼を見て、何かを思い出したようだった。
「お前……まさか」
「行け、灰白!」
間髪を入れずに、青褪めた表情を浮かべた男へ、かいはく、と呼ばれた狼は大きく唸り声を上げ、走り寄った。
先程までの余裕はどこへ行ってしまったのか。
情けない声を上げ、男は逃げ去った。
私の隣を狼が通り過ぎたと同時に、手を引かれる。
「今の内に逃げるよ!」
少年に手を引かれ、廃墟を脱出した。
どれくらいの時間が経っていたのだろうか。
廃墟を取り囲む周りの森には、木漏れ日が落ちていた。
降り注ぐ木漏れ日を踏みながら、一目散に走る。
振り返ると、廃墟は既に見えなくなっていた。
―――
「千歳の馬鹿」
少年と喧嘩した場所に到着し、最初に言われた言葉はそれだった。
森の中にあった川で彼は布を濡らしながら、背中を向けながら言った。
振り返りもせず、彼は続ける。
「一人で出歩けば君は必ず危険な目に遭うと警告したよね?
あれほど、離れたらダメだって言ったのに」
「ふん……私よりも年下なのに、生意気なのよ」
「じゃあ、さっきの状況はどう説明するのかな?お姉さん」
返す言葉が思いつかず、俯く。
目線を逸らすと、近くに切り株があり、そこへ腰を下ろす。
自分の身は自分で守れる、そう思っていた。
朝も少年にそう言い放ち、飛び出した。
けれど、そのせいで危ない目に遭った。
しかし、無理もない。
目の前の少年の口調はどこか気に喰わない、生意気なのだ。
気に喰わなかったから、私は飛び出した。
それだけのこと。
少年は、返答しない私に痺れを切らしたのか、言葉を続けようとする。
「大体君は」
「それ以上、お嬢さんを責めてやるな」
少し荒げた彼の言葉を遮り、後ろから聞こえたのは、さっきの狼の声だった。
白い毛並に赤い瞳。
そして、私が廃墟に置いてきてしまったと後悔していた刀を銜えていた。
私の傍に寄り、刀を切り株へと立てかける。
「灰白……だって」
「だっても何もない。
お嬢さんが後悔しているのをお前も分かっているだろう。
すまないね、お嬢さん。
こいつ人と接するの久しぶりなもんで。
気を悪くしたのなら我が謝る」
外見には合わない、柔らかい声で灰白は言った。
彼の言うとおり、何度も後悔していた。
灰白の言葉に言い返せなくて少年は拗ねてしまったのか、それ以上は何も言わなかった。
彼の様子を見て全く手の掛かる奴だ、と呟き、溜め息を吐いた。
灰白はゆっくりと少年へと近寄った。
彼は少年にとっての親とも兄弟ともつかない存在だと聞いた。
そんな二人を見て、私の口から自然と懺悔の言葉が零れた。
「……ごめんなさい」
こっそりと言ったハズだったのに聞こえていたらしい。
その言葉に振り返り、少年は静かに近づいてきた。
顔は真顔で、少し怖かった。
目の前に来ると、しゃがんで川で濡らした布で私の頬にこびり付いていた血を拭った。
痛みで顔をしかめると、彼は唇を薄く開いて、呪文を唱え始めた。
私には理解の出来ない言葉の羅列のおかげで、少しずつ痛みが引いていく。
一通り唱え終わると彼は、苦笑した。
「回復呪文は苦手なもんでね。
痛みが引いたのならいいんだけど」
「えぇ、痛みは引いたわ……助けてくれて、ありがとう」
そういうと、彼は優しく微笑んだ。
灰白も目を細め、こちらを見てくる。
廃墟で見た彼らの表情とは180度違った。
こちらの顔が本当の彼らなのだろう。
出逢って間もないのに、この二人は私に優しく接してくれている。
朝、少年にとった態度をひどく後悔した。
これからは、気に食わなくても、飛び出さないようにしよう。
「千歳、これからはちゃんと僕を頼ってくれよ?」
「我のこともな」
「分かったわ」
「うん。なら、良し」
彼はニッと笑みを浮かべて、再び川へと歩く。
布を何度も擦り、私の血を洗い流していた。
彼は呪術師だ。
赤い瞳に赤い髪は、その血を引く者の証拠らしい。
確かに、街を歩いていた時も彼以外に赤い髪や瞳を持つ者はいなかった。
世に名を馳せる呪術師らしく、色々と事件を解決していたらしい。
彼の隣に大人しく座っている灰白も呪術の一つらしい。
灰白が喋れるのは、少年の力なのだろう。
彼がどんな因果で私と出逢ってしまったのか分からないが、しばらくはその運命に甘えることにしよう。
「あ、それからさ」
彼は洗っていた手を止め、こちらを見る。
どこか寂しそうな顔をしていた。
何かと、顔を向けると口を開いた。
「千歳、君をこれから故郷へと送り届けるんだから……せめて、名前で呼んでくれないか?その……」
言葉を続けようとしたが、口を閉ざしてしまった。
そんな彼の様子を見て、灰白は大きく呆れたのか溜め息を吐く。
「なんだ、そのようなことか」
「なんだとはなんだよ。僕にだってちゃんと名前はあるんだから。
というか、灰白も僕の名前呼んでくれないよね」
「名前なんてどうでも良かろうに」
「よくないよ!」
先程の大人びていた彼はどこへやら。
今の彼は目の前の白い狼に向かって口論をしていた。
灰白はそんな彼を気にせずに、言葉を続ける。
「名前を呼んで欲しいって、お前の名前……偽名ではないか」
「真名教えると、魂を盗まれそうになるんだから仕方ないだろう」
「そんなのは大昔の迷信に決まっているではないか」
「呪術師には効くかもしれないだろう!?」
「だから、子供と呼ばれるのだ……」
二人のやりとりを見ながら、命の恩人である彼の名を思い浮かべた。
偽名だとしても彼に似合う、美しい名前を。
私はわざとらしく一つ咳払いをした。
二人の視線が私へ向く。
「紅緋さん」
彼は嬉しそうに笑みを浮かべた。