日曜日2 刺される
すっと男が僕に手を差し出す。
「ほら、世界持ってんでしょ? くれよ」
僕が何が何だかわからず黙っていると、男はじれったそうに言った。
「いや、その……」
ようやく声を出す。が、自分でも驚くほど掠れた声だった。
目が覚めたら母さんと妹が死んでて、いきなり現れた男が世界をよこせと言ってきたのだ。そりゃ、声も掠れるわ。
これは……どうしたものか。殺すとか、物騒な言葉使ってるし。
世界ってのは、昨日の男が言ってたやつなんだろう。だけど、あの男とのやり取りは昨日起こったことなのに、どうしてこの人が知っているのか。
そもそも、あの男――神は僕に世界を預けると言ったが、僕は受け取っていない。いや、世界に形があるのかはわからないけど。
「世界って、なんのことだかわからないんですけど」
「え? これって君じゃない?」
そう言って男が僕に見せてきたのは、一枚の写真。そこに写っているのは紛れもなく僕だった。当然、撮られた覚えなんかない。
「その写真の男、つまり君が世界を持ってるって聞いてるよ?」
「そんなこと言われても……無いものは無いですよ」
「あー、参ったな」
男は頭を掻いて、片方の手を懐に入れた。
「面倒だから我慢してね」
そう言って、男は取り出した刃物を僕の腹にブスリと。
ブスリ、と……何?
「え……痛……」
お腹を刺されると痛くて熱い、みたいなことを小説かなにかで読んだ記憶がある。
その通りだった。
「ぐ……」
思わず腹を押さえようと手が出るが、刺さりっぱなしのナイフに当たって更に痛みが走った。
「大丈夫。浅いから死にはしないよ」
「大丈夫って……」
そんなわけあるか。
やべ、本気で痛いぞ。
お腹は熱いのに背中は寒い。なんだこれ。
「あー、なんで今刺したかっていうとね。俺が家探しする間に邪魔されたくなかったからだよ。指名手配とかされてるから、警察呼ばれても面倒だし。俺、面倒なのは嫌いなんだ」
そんなこと知るか。
苦しんでる僕を尻目に、男は居間を荒らし始めた。例の世界を探しているのだろう。
意味わからん。なんで僕、こんな目にあってんの? 腹は痛いし、母さんと妹は死んでるし、変な男は家を荒らしてるし。お隣のおじいちゃんは死んだらしいし、そのせいで母さんと言い争いになるし。
そんなのが、母さんとの最後の会話になるし。
…………。
「あー、見つかんねー」
……こいつ、あーっていうの口癖なのかな? うるせえな、畜生。
「…………」
さっきこの男は大丈夫だって言ったけど、無理だろ、これ。死ぬって。なんかもう、吐きそうだし。
あー、なんか苛々するなー。あ、僕もあーって使っちゃった。
死ぬのか。僕、死ぬのかー。
…………。
……はっ。今ちょっと意識飛んでた。危ないな。
死ぬ前に、あれだな。
母さんと妹を殺したこいつに、仕返ししたいな。
どうしようか。暴力で勝てるわけないし。警察呼ぶか。
なんとも情けないが、僕にできることはそれくらいだ。
でもこの家に電話は一つしかない。しかも、それはこの居間にある。この電話で警察を呼ぶのは難しいな。
いきなり手詰まり……かと思ったが、僕はとある作戦を思いついた。
よし、思い立ったが吉日だ。……言葉の使いどころ合ってるよね?
頭の中で具体的な算段をした僕は、早速行動することにした。急がないと死ぬから。多分。
「あー、お前、どこ行く気?」
動き出した僕に、男が声をかけた。
僕はその声を無視して、廊下を走り、階段を駆け上がる。
「ぐぅ……!」
腹が痛み、思わず手を当てる。そこで、まだナイフが刺さりっぱなしなことに気付いた。
流石に刺さったまま走るのは辛いと思い、ナイフに手をかけ思い切り引っ張る。ズッ、と嫌な感触。そして痛み。
痛くて泣きそうだ。僕はナイフを投げ捨て、傷口を押えながら走った。
さて、見てろよこの野郎。通報してやるからな。
居間に残された男――飯田秀昭は一瞬迷った。家探しを続けるか、直ちに少年を追うか。
変な男から話を聞き、飯田はこの家に来た。
曰く、世界が手に入る、と。
なんの根拠も無かったが、その男の言うことを信じた。信じさせる何かが、その男にはあったのだ。カリスマ、のようなものかもしれない。
もちろん『世界』とは何かの比喩だろうが、まあとんでもない物であろうことは確かだろう。様々なことを予想したが、途方のない額の金である可能性が高いと考えていた。
閑話休題。
一瞬の思考の後、飯田は少年の後を追うことを決めた。
追って、それからまた探そう。そう決めた。
「あー、面倒だ。最初に縛っておけばよかったかな? いや、それも面倒か」
廊下を歩きながらぼやく。面倒は嫌いなのだ。
最初は窃盗だった。働くのが面倒だったから。捕まるのも面倒なので逃げていたら、いつの間にか指名手配までされていた。
逃げるのもそれはそれで面倒だが、捕まれば一生牢屋の中かもしれない。それは嫌だ。
世界を手に入れれば、そういった面倒から解放されるかもしれない。そういった希望を持って、飯田はこの家に来た。
だから、というわけでもないが、一人くらい殺したって関係ない。あの子が何をするつもりかは知らないが、殺そう。
「しかし、なんで二階なんだろう。走る元気があるなら玄関から出ればよかったのに」
もちろん、玄関から出て行かれたらこの場から逃げるしかなかったので、飯田としてはむしろ礼を言いたいくらいなのだが。
二階に電話が無いのは確認済みだ。携帯電話も持っていないと聞いたので、二階に昇っても警察を呼ぶことは出来ないはずだ。つまり、目的は通報ではないと思われる。
窓から助けを求めて叫ぶつもりだろうか? 近隣の人間に聞かれてしまったら地味にキツい。逃げないと面倒くさいことになる。
と、思考している内に階段を上り終わる。さて、少年はどこへ行ったのだろうか。
「あー、部屋を全部回るのは面倒くさいな」
どうしようかと考えていると、床に血痕があるのを発見する。
そりゃそうだ。浅いとはいえ刃物を刺したんだ。出血はしている。跡だって残ってしかるべきだ。
突然襲われることを警戒しながら血痕を辿り、ドアの開いている部屋に入る。ここにいるのだろうか?
と、飯田は部屋を見渡し、窓が開いているのを見つけた。
「……まさかな。あの傷で二階から飛び降りれるわけがない」
そうは思いつつも一応、確認の意味で窓の下を覗きこみ、そして察した。
「あー、……逃げられたか。舐めてたな」
窓の下には、クッションとなるように布団が……見るからにふかふかの布団があった。
おそらく少年は押し入れから布団を出し、窓から落としたのだろう。そして、そこに落ちるように本人も飛んだ。直ならまず体がもたなかっただろうが、これならいくらかマシになっただろう。
そうとはいえ、相当体にこたえたはずだ。遠くに逃げてはいないだろう、が、隣の家にでも逃げられていたらすぐに通報されてアウト。
「あー……あー、あー、畜生。してやられたな」
そうとなれば、もうここに長居するわけにはいかない。
「逃げるか……」
流石に早足でその場を後にした。世界が手に入らなかったのは残念だが、もうすぐ通報されると仮定して、それから十分もしないうちに警察が来るだろう。それは面倒臭い。
若干名残を惜しみつつ、飯田は少年の家を出た。
ちなみに僕はと言うと、男が部屋から出ていってから少し待って、隠れていた押し入れから出た。
「ふう……」
窓を開けて、布団を落として。
それから飛び降りるつもりだったけど、よく考えたら僕、落下恐怖症だった。
いやー、忘れてた。あまりに痛くてそんなことも忘れてた。
そのことに気づきかなり焦ったが、布団を出したことでスペースが空いたのでそこに隠れていた。そこそこ雑に隠れてたんだけど、見つからなくてよかったよかった。よく調べられていたらダメだったかもしれない。
「まあなんにせよ、これであの男に一矢報いることになるのかな」
結果オーライだろう。僕は一階に降り、居間に入る。
そして目に入るのは、さっきと変わらずに凄惨な姿の母さんと妹。
「…………」
母さんと妹の死体を極力見ないようにしながら、電話を手に取った。もちろん警察に通報するためだ。
……だったのだが。
「……繋がらない」
何度試しても、コール音が鳴らない。
不安に思い確認すると、電話から伸びるコードが全て切断されていた。
「……はあ?」
もしかして、あれだろうか。
あの男が僕に会う前に、電話線とか全部切ってたとか、そういうオチ?
ここまで痛いの耐えたのに?
「マジかよ……」
ガクっと体から力が抜ける。あ、ヤバい。気力も無くなった。体力は言わずもがな。
足から力が抜け、床に倒れる。
ああ、僕はこのまま死ぬんだろうな。そして近いうちにニュースに出るぞ。一家惨殺事件だ。それであの男が警察に捕まってくれれば少しは気が晴れるかもしれない。
そのころにはもう僕死んでるだろうけど。
「……死にたくないなー。誰か助けてくれないかな」
大の字になってそう言う。
この時、僕はこの言葉を誰かに届くと思って発したわけではなかったのだけど。
「助けてあげよう」
と、返事があった。
最初はあまりに瀕死で、幻聴が聞こえているのだと思った。
「え?」
「あ、安心してね。ちゃんと助けるから」
再び声がかけられる。これが気のせいではなく、確かな人の呼びかけであると理解する。
「……じゃあ、お願いします」
「わかった」
と、ここで僕の意識は途切れる。ここで、僕は死ぬものだと思っていたのだが、結果的にそんなことは無かった。
まあ後になって考えれば、腹部の傷は全然致命傷になりうるようなものでは無かったので、その心配はまったくの杞憂だったのだけど。
とにかく、まだ僕の物語は終わらなかったのだ。
一週間は、始まったばかりだった。