新聞とブラックの缶コーヒー a short article
これはある女子高生の独白である。
父は、わたしが二歳のときに死んだ。
だから、わたしは父の顔を知らない。
母のスマホには写真が何枚か残っている。
若い男が赤ん坊を抱いている写真。
海辺で、風に髪を乱されながら笑っている写真。
少年のような笑窪。
母は父のことを聞くと、いつも同じように答えた。
「フツーよ?」
わたしには、それがちょっとだけ不満だった。
だって、わたしには父の思い出がひとつもないのだ。
高校三年の五月、わたしはそれまで続けていたコンビニのバイトを辞めて、
駅のコンコースにある売店で働き始めた。
朝六時半から八時まで。
学校に行く前の一時間半だけの勤務。
大学受験に備えるためだ。
「もうバイト、辞めてもいいのよ?奨学金だってあるし、何とかなるからさ」
母はそう言ってくれたけれど、進学を選んだ以上、少しでも家計の負担を減らしたかった。
駅の売店は、朝になると戦場だった。
みんな急いでいて、わたしの顔なんか見ていない。
その中に、一人だけ、毎朝声を掛けてくれるお客さんがいた。
50歳くらいのおじさんだった。
濃紺のスーツに、地味なネクタイ。革靴はよく磨かれていたけれど、鞄の角は擦り切れていた。
毎朝6時42分に来て、新聞を一部と、ブラックの缶コーヒーを一本買っていく。
「おはようございます」
「おはよう」
交わすのは短い挨拶。
それだけ。
六月のある朝、わたしは間違えてカフェオレを袋に入れてしまった。
「あっ、すみません!」
慌てて取り替えようとすると、おじさんは笑った。
「いいよ、いいよ」
「ブラックでしたよね。ごめんなさい…」
でも、後ろに客が並んでいたから、それ以上話すことはなかった。
おじさんは新聞とコーヒーを受け取ると、改札へ歩いて行った。
その日から、わたしは彼を少し意識するようになった。
七月に入ると、おじさんはときどき、話しかけてくれるようになった。
といっても、たいした話じゃないけど。
「暑くなりそうだねえ」
「学校、傘を持っていったほうがいいよ」
とか。
八月のある朝、
わたしは模試の結果を見て、ひどく落ち込んでいた。
第一志望の判定は、Eだった。
おじさんはわたしの顔を見て言った。
「何かあった?」
「い、いえ。別に」
なのに、気づいたら口に出していた。
「頑張っても、ダメなことってあるんですね」
おじさんは新聞とコーヒーを受け取りながらうなずいた。
「ああ。頑張れば必ず報われる、なんていうのは、報われた奴の言葉だからね」
わたしは顔を上げた。
「でも、頑張ったことが無駄になるとは限らないよ」
「…大人って、そういうこと言いますよね」
おじさんは苦笑した。
わたしもつられて笑ってしまった。
それから彼は、いつものように改札へ向かった。
その背中を見ながら、わたしは思った。
こんな人が、わたしの父親だったらよかったのになあ。
そう思った瞬間、なんだか自分が嫌になった。
どうあれ、E判定は、E判定のままだ。
九月。
その日、おじさんはいつもより遅く来た。
6時52分。
わたしは少し驚いた。
「今日は遅いですね」
おじさんは息を整えながら笑った。
「ちょっと、寝坊しちゃってさあ」
新聞とブラックコーヒーを渡すと、おじさんは代金を払った。
「毎朝、お仕事大変ですね」
「そうだけど、妻と娘のために頑張らなきゃ、ね?」
わたしは少し驚いた。
考えてみれば、当たり前のことなのに。
「娘さん、おいくつですか?」
「高校生くらいかな。大きくなっただろうね」
わたしは、その言葉に引っかかった。
聞いてはいけないことを聞いたのかもしれない。
「すみません」
「いや、いいんだ。きみも入試、頑張って」
おじさんは新聞を胸に抱え、改札へ走っていった。
覚えててくれたんだ。
「お父さんって、どんな人だったの?」
わたしは母に尋ねた。
母は夕食の支度をしながら少し考えて、コンロの火を止めると、古いアルバムを引っ張り出してきた。
アルバムの中には、若い父の写真があった。
白いシャツ。紺色のネクタイ。少し癖のある髪。
赤ん坊のわたしを抱いて笑う父の顔には、あの笑窪があった。
「ね?フツー、でしょ?」
わたしは、写真の裏を見た。
母の字で、日付が書いてあった。
父が亡くなる、三日前。
その下に、小さく一言。
『初めて、パパと呼んだ日』
父は、わたしの声を聞いたことがあるのだ。
「ほんと。ふつう、だね」
それだけで、胸がいっぱいになった。
翌朝、わたしはおじさんに謝った。
「この前は、変なこと聞いちゃって、すみませんでした」
おじさんは、新聞を受け取りながら小さく手を振った。
「いや、いい、いい」
「…わたし、小さいころ父を亡くしたので、気になっちゃって」
おじさんの手が止まった。
「そうか。きっとお父さんも、大きくなった君とお茶でも飲みながら、色んな話をしたかっただろうな」
その場面を想像したら、思わず笑みがこぼれてしまった。
「ブラックコーヒー?」
おじさんもわたしがケースから取り出した缶コーヒーを見ながら微笑んだ。
「うん。学校で何があったとか、友達がどうしたとかさ」
…その顔には、見覚えのある笑窪が。
「そういうの、憧れます」
コーヒーを差し出したわたしの手を、おじさんは包み込むように握った。
その手は冷たくて、でも心地よかった。
いきなりだったので、ちょっとびっくりしたけど。
家に帰ったわたしは、母にせがんだ。
「お父さんの話、もっと聞かせてよ。何でもいい。お父さんが好きだったものとか、苦手なものとかさ」
母は、食器を洗いながら話してくれた。
父は、苦いコーヒーが好き。
新聞を読むときは、必ず最初にスポーツ欄を開く。
休みの日には、わたしを抱っこして近所の公園を歩いて、
わたしが泣くと、すぐ母に助けを求めた。
母の言うとおり、全部普通だった。
でも、わたしには、その話がとても大切に思えた。
わたしは入試前の二週間、バイトを休ませてもらった。
試験の出来は悪くなかったと思う。
そして、すべての試験日程を終えた、初めての出勤日。
これからの土日はフルタイムで働ける。
けど、おじさんは、いつもの時間に現れなかった。
わたしは新聞とブラックコーヒーを用意したまま、改札の上にある案内表示器の時間が変わっていくのを眺めていた。
その日、おじさんは最後まで姿を見せなかった。
次の日も。
その次の日も。
まるでわたしを励ます役目を終えたみたいに。
それとも、なにかあった?
大学の合格発表の日、わたしはバイトを休んだ。
第一志望に、合格していた。
母は電話口で泣いていた。
わたしは笑いながら、何度も「ありがとう」と言った。
その帰りに、駅の売店に立ち寄った。
店長に合格を報告して、何気なく目を留めた新聞の見出しを見て、息が止まった。
そこには、あのおじさんの顔が載っていた。
『会社役員の男を逮捕 通勤電車で痴漢か 同一路線で被害相次ぐ
警視庁は、通勤電車内で女性の体を触ったとして、会社役員の男(52)を都迷惑防止条例違反の疑いで逮捕した。
同一路線では約一年前から痴漢被害が相次いでおり、警視庁は男に余罪がある可能性もあるとみて捜査している。また、同じ沿線では女性が被害に遭う暴行事件も相次いでおり、警視庁は男との関連についても慎重に調べを進めている。』
…ええっ?
待って待って待って。
ヤバ!笑えないってこれ。
こっわ!
わたしは無意識に、あの日、おじさんに握られた右手をダウンの裾で拭っていた。
…つか、あっぶな!!
終わり




