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monologues

新聞とブラックの缶コーヒー a short article

作者: 子父澤 緊
掲載日:2026/10/28

これはある女子高生の独白である。

父は、わたしが二歳のときに死んだ。

だから、わたしは父の顔を知らない。

母のスマホには写真が何枚か残っている。

若い男が赤ん坊を抱いている写真。

海辺で、風に髪を乱されながら笑っている写真。

少年のような笑窪(えくぼ)。

母は父のことを聞くと、いつも同じように答えた。

「フツーよ?」

わたしには、それがちょっとだけ不満だった。

だって、わたしには父の思い出がひとつもないのだ。


高校三年の五月、わたしはそれまで続けていたコンビニのバイトを辞めて、

駅のコンコースにある売店で働き始めた。

朝六時半から八時まで。

学校に行く前の一時間半だけの勤務。

大学受験に備えるためだ。

「もうバイト、辞めてもいいのよ?奨学金だってあるし、何とかなるからさ」

母はそう言ってくれたけれど、進学を選んだ以上、少しでも家計の負担を減らしたかった。



駅の売店は、朝になると戦場だった。

みんな急いでいて、わたしの顔なんか見ていない。

その中に、一人だけ、毎朝声を掛けてくれるお客さんがいた。

50歳くらいのおじさんだった。

濃紺のスーツに、地味なネクタイ。革靴(かわぐつ)はよく磨(みが)かれていたけれど、鞄(かばん)の角は擦(す)り切れていた。

毎朝6時42分に来て、新聞を一部と、ブラックの缶コーヒーを一本買っていく。

「おはようございます」

「おはよう」

交わすのは短い挨拶。

それだけ。


六月のある朝、わたしは間違えてカフェオレを袋に入れてしまった。

「あっ、すみません!」

慌てて取り替えようとすると、おじさんは笑った。

「いいよ、いいよ」

「ブラックでしたよね。ごめんなさい…」

でも、後ろに客が並んでいたから、それ以上話すことはなかった。

おじさんは新聞とコーヒーを受け取ると、改札へ歩いて行った。

その日から、わたしは彼を少し意識するようになった。


七月に入ると、おじさんはときどき、話しかけてくれるようになった。

といっても、たいした話じゃないけど。

「暑くなりそうだねえ」

「学校、傘を持っていったほうがいいよ」

とか。


八月のある朝、

わたしは模試(もし)の結果を見て、ひどく落ち込んでいた。

第一志望の判定は、Eだった。

おじさんはわたしの顔を見て言った。

「何かあった?」

「い、いえ。別に」

なのに、気づいたら口に出していた。

「頑張(がんば)っても、ダメなことってあるんですね」

おじさんは新聞とコーヒーを受け取りながらうなずいた。

「ああ。頑張れば必ず報われる、なんていうのは、報われた奴の言葉だからね」

わたしは顔を上げた。

「でも、頑張ったことが無駄になるとは限らないよ」

「…大人って、そういうこと言いますよね」

おじさんは苦笑した。

わたしもつられて笑ってしまった。

それから彼は、いつものように改札へ向かった。

その背中を見ながら、わたしは思った。

こんな人が、わたしの父親だったらよかったのになあ。

そう思った瞬間、なんだか自分が嫌になった。

どうあれ、E判定は、E判定のままだ。


九月。

その日、おじさんはいつもより遅く来た。

6時52分。

わたしは少し驚いた。

「今日は遅いですね」

おじさんは息を整えながら笑った。

「ちょっと、寝坊(ねぼう)しちゃってさあ」

新聞とブラックコーヒーを渡すと、おじさんは代金を払った。

「毎朝、お仕事大変ですね」

「そうだけど、妻と娘のために頑張らなきゃ、ね?」

わたしは少し驚いた。

考えてみれば、当たり前のことなのに。

「娘さん、おいくつですか?」

「高校生くらいかな。大きくなっただろうね」

わたしは、その言葉に引っかかった。

聞いてはいけないことを聞いたのかもしれない。

「すみません」

「いや、いいんだ。きみも入試、頑張って」

おじさんは新聞を胸に抱え、改札へ走っていった。


覚えててくれたんだ。


挿絵(By みてみん)


「お父さんって、どんな人だったの?」

わたしは母に尋(たず)ねた。

母は夕食の支度(したく)をしながら少し考えて、コンロの火を止めると、古いアルバムを引っ張り出してきた。

アルバムの中には、若い父の写真があった。

白いシャツ。紺色(こんいろ)のネクタイ。少し癖(くせ)のある髪。

赤ん坊のわたしを抱いて笑う父の顔には、あの笑窪(えくぼ)があった。

「ね?フツー、でしょ?」

わたしは、写真の裏を見た。

母の字で、日付が書いてあった。

父が亡くなる、三日前。

その下に、小さく一言。

『初めて、パパと呼んだ日』

父は、わたしの声を聞いたことがあるのだ。

「ほんと。ふつう、だね」

それだけで、胸がいっぱいになった。



翌朝、わたしはおじさんに謝った。

「この前は、変なこと聞いちゃって、すみませんでした」

おじさんは、新聞を受け取りながら小さく手を振った。

「いや、いい、いい」

「…わたし、小さいころ父を亡くしたので、気になっちゃって」

おじさんの手が止まった。

「そうか。きっとお父さんも、大きくなった君とお茶でも飲みながら、色んな話をしたかっただろうな」

その場面を想像したら、思わず笑みがこぼれてしまった。

「ブラックコーヒー?」

おじさんもわたしがケースから取り出した缶コーヒーを見ながら微笑んだ。

「うん。学校で何があったとか、友達がどうしたとかさ」

…その顔には、見覚えのある笑窪(えくぼ)が。

「そういうの、憧(あこが)れます」

コーヒーを差し出したわたしの手を、おじさんは包み込むように握った。

その手は冷たくて、でも心地よかった。

いきなりだったので、ちょっとびっくりしたけど。


家に帰ったわたしは、母にせがんだ。

「お父さんの話、もっと聞かせてよ。何でもいい。お父さんが好きだったものとか、苦手なものとかさ」

母は、食器を洗いながら話してくれた。

父は、苦いコーヒーが好き。

新聞を読むときは、必ず最初にスポーツ欄(らん)を開く。

休みの日には、わたしを抱っこして近所の公園を歩いて、

わたしが泣くと、すぐ母に助けを求めた。

 

母の言うとおり、全部普通だった。 

でも、わたしには、その話がとても大切に思えた。



わたしは入試前の二週間、バイトを休ませてもらった。


試験の出来は悪くなかったと思う。


そして、すべての試験日程を終えた、初めての出勤日。

これからの土日はフルタイムで働ける。

けど、おじさんは、いつもの時間に現れなかった。

わたしは新聞とブラックコーヒーを用意したまま、改札の上にある案内表示器の時間が変わっていくのを眺めていた。


その日、おじさんは最後まで姿を見せなかった。


次の日も。

その次の日も。


まるでわたしを励(はげ)ます役目を終えたみたいに。

それとも、なにかあった?


大学の合格発表の日、わたしはバイトを休んだ。

第一志望に、合格していた。

母は電話口で泣いていた。

わたしは笑いながら、何度も「ありがとう」と言った。


その帰りに、駅の売店に立ち寄った。

店長に合格を報告して、何気なく目を留めた新聞の見出しを見て、息が止まった。

そこには、あのおじさんの顔が載っていた。


『会社役員の男を逮捕 通勤電車で痴漢(ちかん)か 同一路線で被害相次ぐ

警視庁は、通勤電車内で女性の体を触ったとして、会社役員の男(52)を都迷惑防止条例違反の疑いで逮捕した。

同一路線では約一年前から痴漢被害(ちかんひがい)が相次いでおり、警視庁は男に余罪がある可能性もあるとみて捜査している。また、同じ沿線では女性が被害に遭う暴行事件も相次いでおり、警視庁は男との関連についても慎重(しんちょう)に調べを進めている。』


…ええっ?

待って待って待って。

ヤバ!笑えないってこれ。

こっわ!


わたしは無意識に、あの日、おじさんに握られた右手をダウンの裾(すそ)で拭(ぬぐ)っていた。


…つか、あっぶな!!




終わり




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