21 小鹿の精霊ケリュネ - 1
深い山の中
「母ちゃん、苦しい? 薬神ダヌヴァンタリ様にお祈りします」
「ハァ、ハァ・・・・・・お祈りには、ハァ、ハァ・・・・・・香木アグルを焚く必要があるのよ」
「それなら、僕がアグルを探して来る」
頭に小さな肌色の鞘付きの角がやっと生え始めたばかりのケリュネが、森の神樹の根元に横たわる精霊である母鹿に語りかけた。
その精霊の母鹿は、艶のない毛並みをして、苦しそうな息遣いをしている。勿論、牝鹿のため頭に角はない。
「ハァ、ハァ、・・・・・・ケリュネ、母さんのことなら大丈夫よ・・・・・それに、もうこの森の周辺にはアグルはないのよ」
全身が水色に輝く母鹿は、虚ろな目をして、小鹿のケリュネに告げた。
「それなら、僕が人間の街でアグルを交換して来る」
ケリュネは木の根元に貯めておいたドングリやクサイチゴ、ラズベリー、ポプラ茸などを手でかき集める。
「ハァ、ハァ・・・・ケリュネ、危険だわ。
・・・・・ハァ、ハァ・・・・・私たちの透明で水色に輝く角は、人間の寿命を延ばす神薬であると信じられているのよ。
欲に目がくらんだ人間たちは、私たち精霊の鹿を必ず捕まえようとするの。・・・・・ハァ、ハァ、私たちの角を奪って、それをお金と交換するのよ。
ハァ・・ハァ、何度も話しているわよね。ハァ・・・・ハァ、人間には正体を見せてはダメなのよ」
「・・・・・でも、このままでは母ちゃんが・・・・・」
「これも、・・・天の定」
「・・・・・・・・・・僕は嫌だ!」
精霊の鹿の子、ケリュネはそう叫ぶと、フード付きのコートのポケットにドングリなどを詰め、そのコートを口に咥えた。
そして、水色の光に包まれた鹿の体を弾ませるように走らせ、街に向かっていた。
「ケリュネ!」
精霊の母鹿が体を起こそうとするが、そのまま木の根元に倒れた。
「・・・・・ハァ、・・・・・ハァ、ケリュネ・・・・・」
ケリュネは、森の端から街を見下ろした。
「あそこが人の街マハーン。あそこでアグルを買わないと」
ケリュネは青白い光に包まれると、人の体へと変化し6,7歳の子供の姿で四つん這いになっていた。黒髪から2本の小さな肌色の鞘付きの角が盛り上がっていた。
ケリュネは2本足で立ち上がりコートを着ると、フードで顔を隠した。
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大陸陰暦1020年5月24日 バハードゥラン王国の街マハーン
マハーンの街の遥か北には、ヒマギリ山脈の稜線が、西に向かい連綿として続いていた。その冠雪し白く青く輝くその頂は、美しくもあり、厳しくもあり、人を阻む孤高の聖域とさえ感じられるほどであった。
マハーンの街は、パステルカラーのターバンを頭に巻き、上半身から下半身までを覆う服を着た人々が行き交っていた。質素なつくりの平屋が所狭しと立ち並ぶ、賑やかな街ではあったが、道は荷車の轍が無数に伸びるかなりの悪路であった。
マツリは異国のマハーンに興味津々である。
「ウル、人が多くて活気があるわね」
『人を隠すには、もってこいの場所だな』
「ねえ、あの異形ともいえる石造は神様の姿なのかな」
マツリは、寺院の入口にある動物と人間が混ざったような姿をした石のレリーフを指さした。
逞しい肉体で首に蛇を巻いた男神や四顔四腕の男神、象の顔の神、翼のある巨大な鳥の神などの像、それに対峙するような構図で、大蛇や十頭の魔族などが刻まれていた。
『そうかもしれないな。日出処の国でも御先は、動物の姿をしていることが多いしな。鉾先鈴で召喚するムラクモなんて、まさに異形だろう』
「確かにそうね」
と答えると、マツリは腰に下げている鉾先鈴をポンポンと叩いた。鉾先鈴がチリン、チリリンと心地よい音を鳴らした。
「マツリ姉、聞こえてくる異国の言葉が分かるんだ。なぜだろう」
ジンはすれ違う人の波から聞こえてくる異国の言葉を、不自由なく理解していることに驚きを隠せなかった。
「ジン、それはウルの能力『楽々言語』の効果よ。ウルの傍にいれば、自然に異国の会話や文字の読み書きもできるわ」
「それでマツリ姉も、僕たちと話ができていたのか」
「うふふっ、その通りよ」
「ジンの能力って、ものすごいんだな」
『やっと分かったか、ジン。もっと俺を褒めよ。俺を讃えよ』
ウルは、マツリの懐の中からしたり顔をして話すが、思念会話なのでマツリにしか聞こえていない。
レイは、行き交う人々と、時折体をぶつけているジンに言い聞かせる。
「ジン、このバハードゥラン王国は、荘国の隣の国であっても文化は異なります。この人込みで、迷子になったら大変なことになります。今のマツリの説明では、ウル様から離れれば、言葉も通じなくなるというし」
レイはジンの手を握った。
「レイ姉、大丈夫だよ。僕はもうすぐ10歳なのだから」
「だから危険なのです。10歳になれば、魔族がジンの命をいつ狙って来るかも分かりません」
レイの握る手に力が入った。
「手が痛いよ。レイ姉、力を緩めて」
「見知らぬ異国の地、これくらいがちょうどよいのです」
マツリはレイの背に手を置いて微笑む。
「・・・・・・・レイ姉が心配するのは・・・・・分かるけれども、も、もっと体の力を抜いて。
・・・・・・ま、魔族との戦いは・・・・長期になる・・・・のだから」
「ふーっ、そうね。マツリの言う通りだわ。警戒は大事だけれども、過度な緊張は動きを鈍くするわね」
「レイ姉、マツリ姉は動きではなく、心が疲れることを心配しているのでは?
それに、僕たちは姉弟だろう」
レイは目を丸くしてジンを見た。そして、微笑み深く頷いた。
これに笑顔を返したジンが、また人とぶつかった。
「・・・ん、あ、ない。冒組合証がない」
ジンが体を摩りながら、慌てだした。
マツリが心配そうにジンに話しかける。
「え、ジン、落ち着いて探しなさい。冒組合証は身分証明書を兼ねているのだから」
「どこにもない」
レイは人込みの中を縫って駆け、青のターバンを頭に巻いた男の子の手首を握った。
「जाने दो」
その男の子は手を振り切ろうと激しく抵抗し、異国の言葉を浴びせた。
「・・・・マツリ、こっちへ来て」
マツリがジンの手を引き、レイの脇に立つ。
「離せ! 離せ!」
「返しなさい!」
暴れる男の子の手から、レイはジンの冒組合証を取り上げた。
レイが手を離すと、その男の子は雑踏の中へ逃げ込んで行った。
「あんなに小さな子なのに、やはり油断はできないわね」
レイはそう言って、ジンに冒組合証を手渡した。
「レイ姉、ありがとう。この街は、善い人ばかりではなさそうだね」
「ええ、そうね。でもね、ジン、それはこの街に限ったことではないのよ」
「うん、気をつける」
『!』
『マツリ、青のターバンを頭に巻いた子の逃げた方角に妖しの類の気だ!
いやこれは我と同じ妖精。それも子供か。
しかし、妙だな、かなりの興奮と緊張が伝わって来るぞ』
『あの人混みの中からだわ。あ、あの外套を着た子ね』
『そのようだな。こちらに危害を与えることはなさそうだな。放っておいてよいだろう』
『うん。ウル、念のため、位置は把握しておいてね』
ケリュネはフードを被り薬屋の店先に立って、窓から中をちらちらと覗いていた。
やがて、木の扉を開けると、扉についた小さな鐘がカランカランと音を立てた。
「いらっしゃいませ。おや、坊や、どうしたんだい」
「・・・・母さんが・・・・高熱を」
細身のいかにも神経質そうな感じのする中年男性の店主は、愛想よく近づいて来た。
「解熱剤がほしいのかい。それなら・・・・うーん、この・・・・」
「アグルがほしい」
店主は、しげしげとケリュネと眺めた。
「坊や、アグルは、高級な香木なんだよ。お金はあるのかい?」
ケリュネはコートのポケットに手を突っ込み、ごにょごにょと手を動かす。
「このドングリとクサイチゴ、ラズベリー・・・・」
店主は眼を閉じてから、一つ息を吐く。
「坊や、お金は無いのだね」
「・・・・美味しいポプラ茸も、え、・・・・これで交換できないの?」
「アグルを買いたいなら、お金と交換なんだ」
「あと5年、いえ、3年待って、お金を見つけて払います」
「・・・・それは無理な話だ。私はここで商売をしている。商売は互いに利益がないとだめなんだよ。坊やの気持ちは分かるが、それはできない」
「・・・・・・・・それなら、人間が欲しがる精霊の鹿の角と交換ならいいですか」
「精霊の鹿の角? あの寿命を伸ばす神薬、透明で水色に輝く角のことを言っているのかい。
勿論、それなら交換はできるが、アグルよりそっちの方が遥かに高価な品で、王族でもない限り買えないよ」
「・・・・精霊の鹿の角を持ってきます」
「それを手に入れる方が難しいと思うよ」
「・・・・少しだけ待っていて。おじさん、アグルは他の人には、絶対に売らないでね」
そう言い残すと、ケリュネはカランと鐘の音を残して、店を飛び出した。
ケリュネは人混みを避けて、裏の路地にやって来た。周りを見渡してから、そっとフードを外した。
フードから出てきた頭には、生えて始めたばかりで先端が丸く、産毛に覆われた薄皮に包まれた短い角が2本あった。
<次回 第22話「小鹿の精霊ケリュネ - 2」>




