海の化け物
「さてここらで一休みするか」
波の模様がゆらゆら揺れる浅瀬の海で小さなエビが一息つきました。白い砂地には所々に岩場があって海藻やイソギンチャクが小魚たちの隠れ家になっています。どこの岩場も小魚やカニたちで混雑していましたが1箇所だけ静かな岩場がありました。
「いいところがあるじゃないか。僕はあそこにしよう」
すると近くを通りかかったチョウチョウウオがエビの独り言に泳ぎを止めました。
「おいおい、君は新入りだね。あの岩場は近づかない方がいい」
「何でだい? 僕はずっと海を旅してきているがあんなに気持ち良さそうな岩場なかなかないぞ」
「あそこには魚を丸呑みにする乱暴な奴がいるんだ。だからここの生き物はあそこに近づかない。近づくのは何も知らないよそ者と4つ足の化け物だけさ」
「乱暴な奴に化け物か。そりゃあ物騒だなぁ」
エビは少し考えましたが、やはりここから見えるその岩場はとても魅力的でした」
「チョウチョウウオさん、親切にありがとう。でも僕は危険な場所をたくさん旅してきたんだ。だからきっと大丈夫さ」
そう言うとエビは岩場に向かってピョンピョーンと泳ぎました。
「怖いもの知らずの変わった奴だなぁ」
チョウチョウウオは呆れて見送りましたがエビは誰にどう思われようが気にしません。
岩場に着くとそこはエビが想像していた以上に良い場所でした。他の魚たちが寄つかないのでご馳走の藻がびっちりと生えています。お腹の空いていたエビは夢中で藻をついばんでは口へと運びました。そしてしばらく食べていると不意に誰かに見られているような気がしてきました。しかしそこにあるのは岩の隙間にできた暗い穴だけです。エビは目をこらして穴の中を覗きました。すると真っ暗なはずの穴の中でまん丸の何かが2つ、ぎらりと光るのが見えました。エビが逃げようとしたその瞬間に光はニュルッとエビの目の前までやってきました。
「ギャッ」
エビは思わず叫びました。大きな目にギザギザの歯がエビの目の前まで迫ります。それはエビが見たこともないほど大きなウツボでした。
「何かがちょこまか動いていると思って見に来たがこりゃあ小さな奴が来たもんだ」
ウツボがにやにや笑います。このウツボがチョウチョウウオの言っていた乱暴者だとエビはすぐに分かりました。しかし逃げようとしても体が恐怖で固まって動きません。ウツボがゆらゆら揺れながらエビに尋ねます。
「ここは誰もいなくていい場所だろう? どうだ? たらふく食って腹はふくれたか?」
品定めするようなウツボの目にエビは震え上がりました。それでも負けまいとエビは大きな声を出します。
「ぼ、僕が腹いっぱいになってから食べる気だったんだな! 卑怯だぞ!」
エビが言うとウツボは目を大きく見開いてから大笑いしました。
「ハッハッハッ! 満腹になったところで俺の歯よりも小さいお前を食っても腹の足しになるもんか。お前ならせいぜい楊枝にしかならないな」
エビは大きくギザギザとしたウツボの歯を見てドキドキとしました。食べられなくてもあんな歯に噛まれたらエビは粉々になってしまいます。
「じゃあ僕を追い出すつもりなんだろう?」
ウツボははぁーっとため息をついて岩にもたれかかります。
「穴の外にいるお前を追い出すにはここから出なくちゃいけない。そんなことするわけないだろ」
面倒くさそうにウツボが言うのでエビは何だか拍子抜けしてしまいました。
「食べるでも追い出すでもないなら君の目的は何なんだ?」
「俺はただおしゃべりに来ただけさ」
「でも君は乱暴者だって聞いたぞ」
「じゃあ聞くが穴から出ないのにどうやって乱暴するんだ? みんな俺の見た目が怖いからウワサを信じているのさ」
ウツボは穴に身体のほとんどを隠したままぼやきます。エビにはウツボが寂しそうにみえました。
「君は話し相手が欲しいんだね。それならここから出れば誤解も解けて友達だって出来るだろうに君はここから出たいと思わないのかい?」
「思わないね。俺は生まれてから一度もこの穴を出たことがない。ここは安全だし出なくても十分生きて行けるからな」
エビはウツボの言葉に驚いてしまいました。
「一度も出たことがないだって? 君はずっとひとりでこの穴にいるのかい? 」
「最初からひとりだったわけじゃない。昔は家族と暮らしていたんだ。でも1匹また1匹とここを出ていった。そしてこの穴を出ていった家族は二度と戻ってくることはなかった。何故戻らなかったか、わかるだろう? 安全な穴から出ていけば無事じゃ済まないのさ」
ウツボはそう言いましたがこんなに大きくて強そうなウツボが簡単にやられてしまうとは思えませんでした。
「それは本当のことなのかい? 君は穴から出て家族を探したわけでもなければ家族が襲われているところを見たわけでもないんだろう?」
「そうだがきっとそうさ」
エビはウツボの穴を覗きこみました。そこはどこまでも深く、暗くて寂しい場所のように思いました。
「世界の広さを見れば誰だってこんな穴に帰りたくなんてなくなると思うけれど」
エビの言葉にウツボはムッとして睨みます。
「こんな穴とはよく言ってくれるな。ここには時々、4つ足の化け物が出るんだ。そいつは言葉も通じないし餌で誘き寄せて、魚たちを追いかけ回すんだ。家族はみんなそいつに食われたにちがいない。だから俺はそんなヘマはしない。ここに隠れていれば安心だからな」
「ここは安全な場所かもしれないけれど君は化け物に怯えながら一生をここで終えるつもりなのかいかい? 海はこんなにも広いのに……」
エビは小さな体をそらしてどこまでも続く海中を見渡しました。ウツボはどうしてエビがこんなにも怖いもの知らずなのか不思議でした。
「お前はそう言うが食われるのが怖くない奴なんていないだろう。お前だってさっき俺と目が合って固まっていたじゃないか」
「ああ、そうさ。食われるのは怖い。でも僕は生まれたときから誰にも食われずここまで生き延びたんだ。それにさっきも君の楊枝にされずに済んだ。ピンチは旅にはつきものさ。でもそれを乗り越えればこんなに面白いことはない。僕はとてもラッキーなエビなんだよ」
ウツボははぁっとため息をつきます。
「面白いなんていう気持ちがわからないね。食われちまえばおしまいじゃないか。それにお前だって4つ足の化け物を見ればそんなことも言ってられないさ」
「僕は思ったんだがその4つ足の化け物はアシカかラッコを見間違えているんじゃないのかい? 彼らは大喰らいだし見た目だって化け物みたいに大きい。でも彼らはウツボを食べないよ」
「俺はアシカもラッコも見たことがないからわからないね」
ウツボはつまらなそうに言いました。
「みんなどんな生き物か知らないだけで本当の化け物なんてそうそう現れないよ。生まれた時から旅をしている僕だって本物の化け物に会ったのは一度きりだ」
「何だって? 本物の化け物に会ったことがあるのか!?」
ウツボは驚いて食い入るように聞きました。
「うん、あれは沈没船を探検した時のことだったよ。そこには海の中では見たこともない物が溢れていたんだ。でも金ピカの部屋に入った時、化け物に睨まれたんだ。そいつはニョロニョロとした長い体で大きな口を開けて鋭い牙を剥き出しに今にも襲いかかってきそうだったんだ」
エビはその時のことを思い出してぶるるっと震えました。ウツボも一緒になって震えます。
「お前、よく無事だったな」
「ああ、幸いなことにそれは生きていなかったんだ。物知りな亀のじいさんによるとそれは陸にいるヘビという化け物そっくりに作られた偽物で、陸の生き物はみんなその化け物が怖いから偽物を作って宝物を守っているらしいんだ」
「そうか、そいつは陸の化け物なんだな。そんな奴が海にいなくて良かったぜ」
「うん。本物は長い体で巻きついて鋭い歯で噛みつくんだ。出会ってしまったらまず助からないだろうって言ってた。僕が会ったのは偽物で良かったよ」
怖い体験をした話なのにエビがとても楽しそうに話すのでウツボはなんだか穴の外の世界に興味が湧いてきました。
「おい、エビ、お前は他に何を見てきたんだ? 聞かせてくれ」
エビは喜んでウツボの要望に応えました。エビが語る話はウツボにとってまるで信じられない話でした。
エメラルドの海、珊瑚の森、夜空が落ちて来たのかと錯覚するくらい大きなクジラ。そして何よりも海の世界を語るエビの目は水面に輝く太陽のようにキラキラと輝いていました。
「僕の夢はこの海の端から端まで旅をすることなんだよ。そのためなら少しくらい怖い目にあっても平気さ」
ウツボは自分よりもずっと小さなエビが何だかとても大きくかっこよく見えました。
ゴボゴボゴボ
その時です。話に夢中になっていた2匹は不気味な泡の音とともに暗い影に覆われました。エビが上を見上げるとそこにはウツボよりももっともっと大きな黒い生き物がいました。長い4本足をゆっくり動かしギラギラ光る細長い目でじっとエビを見ています。それはアシカでもラッコでもありません。エビが見たこともない化け物でした。
「4つ足の化け物だ!」
ウツボはとっさに穴の中へと身を隠します。
「き、君は誰だ? 何という生き物なんだい?」
エビは叫んでしまいたい気持ちを落ち着けながら聞きました。冷静に向き合えばウツボのように仲良くなれるかもしれません。
ゴボゴボゴボ
しかし化け物は泡を吐くばかりで何も答えませんでした。
「そいつに言葉は通じないぞ。早くこっちに逃げてこい!」
穴の中からウツボがエビを呼びます。しかし化け物は長い足の1本をエビへと伸ばしました。エビもとっさに自分のハサミを振り上げますが驚いたことに化け物にはハサミが5本もあります。エビはあっというまに5本のハサミのなかに閉じ込められてしまいました。逃げようと必死にもがきますがとても逃げきれません。
ウツボは穴の中でガタガタと震えていました。捕まったエビの小さな足が隙間から動いているのが見えます。
(今行けば助けられるかもしれない)
いてもたってもいられずにウツボは長い身体めいいっぱいに力をこめて思い切り飛び出しました。
「ええい! この野郎! そいつを離せ!」
ウツボはエビを助けたい一心で大きな口を開け化け物に襲いかかりました。
「きゃー! ヘビ! ヘビがいる!!」
黒い化け物はゴボゴボと泡を吐きながら叫びました。エビには何を言っているのかはわかりません。でもウツボに恐怖を感じているのは間違いありませんでした。エビは驚いてゆるんだ化け物のハサミ の間から逃げ出しました。
するとそこにはニョロニョロと長い体をうねらせながら大きな口を開け、ギザギザの鋭い歯で化け物に食らいつこうとしているウツボがいました。
「キャー! 何で海にヘビがいるの!? ゴボゴボゴボゴボ」
化け物は4本足をバタつかせ、慌ててその場から逃げていきました。
「だ、だから言っただろう。4つ足の化け物がいるって」
ウツボが震え声で言いましたがエビは目を輝かせていました。
「君があの化け物だったのか!」
「俺が化け物だって? 化け物は今逃げていっただろう?」
ウツボは驚きました。
「ちがうよ! ヘビだよ! 君は僕が沈没船で見た化け物にそっくりなんだ!」
「俺が陸の化け物にそっくりだって? じゃあお前は俺が怖いのか?」
「怖くなんてあるものか。君は僕を守ってくれたんだから! 君はなんて優しくて勇気のある化け物なんだ!」
エビがピョンピョン飛び跳ねて嬉しそうに言うのでウツボは恥ずかしくなって穴の中へとニョロニョロ戻ろうとしました。しかしエビは小さな爪でウツボを引き止めます。
「君、そんな穴にひきこもっていないで僕と一緒に旅に出ないか? そして穴から出ていった家族を探すんだ」
「旅に?」
「ああ! 君がいてくれたら僕も心強い。だって君はあんなに大きな4つ足の化け物よりもっと強い化け物なんだから」
ウツボは4つ足の化け物に自分が襲いかかったことを思い出しました。まだ震えが残るほどに怖かったのに、何故か心はワクワクとしています。しかし穴の中にいれば今まで通り安全に暮らせます。ウツボはちらりと穴を見ました。不思議なことに穴から出たウツボにはその穴がとても窮屈なものに感じました。
「お前がそこまで言うのなら仕方がないな」
そうしてウツボは穴を出ました。ウツボとエビの長い旅の始まりです。
「ねぇ、パパ見て! 大きな穴が空いているよ」
小さなチョウチョウウオの赤ちゃんが岩場にあいている穴を見て言いました。長くて大きなその穴は空っぽでした。
「ああ、ここには昔、凶暴なウツボがいたんだがいつのまにかいなくなっていたんだ。ウツボより強い化け物にやられたってウワサだよ」
「ウツボより強い化け物!? どんな化け物なの?」
「さぁ? あの大きなウツボを穴から引っ張り出したんだからきっと大きくてものすごく強い化け物なんだろうな」
「すごいや! かっこいいな! そんな強い化け物に僕も会ってみたいな」
チョウチョウウオの赤ちゃんは目をキラキラと輝かせて言いました。
おしまい
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