エピローグ
2020.11/28 更新分 1/1
邪神教団の教主を討伐し、この世界から多くの魔力が失われた運命の日から、およそ2年後――
17歳の少女に成長したフィリアは、木造りの寝台に横たわる魔女エマの姿を見つめながら、静かに微笑んでいた。
「なんだか今日は、とても日差しが穏やかですね。……こういう日には、王都を飛び出した日のことを思い出してしまいます」
窓からは、やわらかい陽光が差し込んでいる。
その中で、まぶたを閉ざした魔女エマはぴくりとも動かなかった。
「まあ、お師匠さんと巡りあえたのは、それから何ヶ月も放浪した後ですし、そもそも『針の森』はいっつも雪に閉ざされているような土地でしたから、お師匠さんにはピンとこないでしょうけれど……でも、わたしにとっては、あれがすべての始まりであったのです」
フィリアの声もまた、幼子に読み聞かせをする母親のように、穏やかでやわらかかった。
「わたしはそれまで、色々と間違ってきた人間でした。母様と一緒に離宮に引きこもって、嫌な現実からは目を背けるばっかりで……母様の扱いに不満があったのなら、わたしは戦うべきだったのですよね。でも、あの頃のわたしはとても弱くて、何も知らない小娘でしたから……自分の手で運命を切り開くことなんて、想像することもできなかったのです。ただ、母様を守ることができるのは自分だけなんだって、剣の修行に打ち込んだりはしていましたけれど……あれだって、現実逃避の一環だったのでしょうね。まったく、情けない限りです」
静かに語りながら、フィリアは毛布の上に投げ出された魔女エマの手にそっと自分の手を重ねた。
とても小さくて、枯れ枝のように皺の寄った手である。
あの運命の日に魔力を失ってしまった魔女エマは、一夜でおよそ100歳もの齢を重ねることになってしまったのだ。
真っ赤な蓬髪に半ば隠されたその顔にも、老人らしい皺が刻まれている。
ただ、そこに浮かべられているのは、とても穏やかな眠りの表情であった。
「そんなわたしが、ようやく正しい道を見出すことができたのは……すべて、お師匠さんのおかげです。お師匠さんと巡りあえたからこそ、わたしは真っ当に生きるようになれたのです。まあ、それでもお師匠さんには、ずっと破綻の極みだと罵倒されていましたけれどね」
「…………」
「それでもわたしは、自分が正しいのだと信じることができました。邪神教団の方々みたいに、魂を闇に堕とさずに済んだのは、すべてお師匠さんに出会えたから……お師匠さんを信じることができたから、わたしは自分を信じることができたのです」
「…………」
「お師匠さんのそばにあるだけで、わたしは幸福な気持ちでいることができました。この幸福な時間を守りたいと願うことが、わたしのすべてであったのです。もしもお師匠さんが邪悪なお人であったなら、わたしも迷いなく邪悪な人間に成り果てていたでしょうけれど……お師匠さんが清らかであられたから、わたしも清らかであれたのです。お師匠さんにしてみれば、おぬしのどこが清らかじゃと罵倒したいところでしょうけれどね」
「…………」
「わたしはこれからも、お師匠さんの弟子であるという幸福と誇りを胸に、生きていきます。どうか……見守っていてください、お師匠さん」
フィリアの目から、ひとしずくの涙がこぼれた。
その涙が、魔女エマの痩せた腕にぽたりと落ちる。
世界は、静謐に包まれていた。
まるで、その空間だけ時間が止まっているかのようだった。
そうしてフィリアは、いつまでも魔女エマの姿を見つめ続け――
そこでふいに、魔女エマのまぶたがぱちりと開かれた。
「……おぬしはさっきから、何をひとりでぶつぶつと語らっておるのじゃ?」
「うわあ、びっくりした! お、お師匠さん、いつの間に目を覚まされていたのです?」
「こんな耳もとでやかましくされたら、眠っておられるものか」
金色に輝く魔女エマの目が、じろりとフィリアをねめつける。
フィリアは魔女エマの手を握ったまま、「えへへ」と逆の手で目もとをぬぐった。
「まるで死人に語りかけるような、辛気臭い声を聞かせおって……このままくびり殺されるのではないかと、ひやひやしたわい」
「やだなー。わたしがそんなことするわけないじゃないですかー。わたしにとって、お師匠さんは生きる希望そのものなのですよー?」
「ふん。それならおぬしの希望も、あと数日限りやもしれんな」
「いえいえ! お師匠さんは魔女らしく、200年でも300年でも生き永らえるのです! わたしの最終目標は、お師匠さんに看取られながら魂を返すことなのですからねー!」
「大たわけ。師匠より先にくたばる弟子など、あってたまるかい」
すると、寝台の陰からのそりと頭をもたげるものがあった。
黒狼の、ジェラである。魔女エマと魂の結ばれたジェラも同じように齢を重ねていたが、老犬ならぬ老狼として、ずっと主人のかたわらにあったのだった。
もはやジェラには念話を使う力も残されていないので、ただ不思議そうに主人と弟子の姿を見比べる。
そんなジェラに、フィリアはにこりと笑いかけた。
「お騒がせしてしまって、申し訳ありません。お師匠さんの安らかな寝顔を拝見していたら、ちょっぴり感傷的な気分になってしまっただけなのですよー」
「ふん。それでしまいには涙までこぼす始末なのじゃからな。どんな情緒をしておるのじゃ、おぬしは」
「やめてくださいよー。なんだか恥ずかしいじゃないですかー」
すると、寝所に設えられていた扉が、外から叩かれた。
フィリアが「はいはい」と応じると、そこからアトゥラが顔を覗かせる。
「何、騒いでいますか? こちら、お師匠、目覚めてしまいました」
「あー、これは申し訳ありません! そちらもお昼寝のさなかであったのですねー」
「はい。昼寝日和ですので」
アトゥラは小さく息をつきながら、こちらの寝所に踏み込んできた。
2年が経ち、アトゥラは9歳になっている。髪や瞳の色は違えども、かつての魔女ラクーシャとよく似た風貌である。そうして彼女はこの2年で、魔女としての修練を終えていた。
また、彼女の肩には巨大な大鷲が鎮座している。
かつて故郷で別れを告げた、あの大鷲である。一人前の魔女となったアトゥラは、この大鷲を従者として迎え入れることがかなったのだった。
「目、覚めてしまったので、お師匠、日光浴です。みなさん、ご一緒、如何ですか?」
「おー、いいですね! 是非ご一緒させていただきましょう、お師匠さん!」
「何が日光浴じゃい。我は昼寝のさなかであったのじゃから……こら、離さんか!」
じたばたともがく魔女エマの身体を、フィリアは問答無用ですくいあげた。
決して自然な老化ではなかったためか、魔女エマは10歳児のごとき外見の頃から、ほとんど背丈も変わっていない。対して、フィリアは2年分成長していたので、魔女エマを抱きかかえるのも楽なものであった。
「こんなに天気のいい日に閉じこもっているなんて、もったいないですからねー! 太陽の光をめいっぱいに浴びて、精霊さんの運んでくるそよ風に包まれれば、いっそうお元気になること間違いなしです!」
「やかましいのう。その無遠慮なわめき声を聞いているだけで、寿命が縮みそうじゃわい」
アトゥラの先導で、フィリアと魔女エマは家の外に出た。黒狼のジェラも、のそのそとその後に続く。
扉の外は、森であった。
かつて魔女エマたちが暮らしていた『針の森』ではなく、南の領土に存在する精霊王の森である。
邪神教団の発動させた外道の魔術によって、この世界からはほとんどの魔力が失われてしまったが、この地には辛うじて魔女たちが生きていけるだけの魔力が残されていたのだ。
魔女たちの家は、精霊王たる大樹のかたわらにちょこんと建てられている。その家の前に広がる広場の片隅で、魔女ラクーシャと従者のロムロムはひっそりと身を休めていた。
「どうもどうも! さきほどはお昼寝のお邪魔をしてしまって、申し訳ありませんでしたー!」
フィリアはアトゥラを追い越して、両名のもとに駆けつけた。
ロムロムはべったりと地面に身を伏せており、魔女ラクーシャはそれにもたれた格好で座している。老いた顔を余人にさらすことを好まない魔女ラクーシャは、その日も山羊の頭骨をかぶっていた。
「問題、ありません。……フィリア、元気そうで、何よりです」
魔女ラクーシャは、低く落ち着いた声でそう言った。
いくぶんゆったりとした口調になったものの、声質そのものは以前とあまり変わっていない。そうして素顔を隠していると、老人なのか幼女なのか判別も難しいぐらいであった。
「今日は日差しも風も気持ちいいですねー! よければ、日光浴をご一緒させてください!」
「はい。誘った、こちらです。……西の魔女、元気ですか?」
「ふん。南の領土で暮らしておるのに、西もへったくれもなかろうが」
いつもの調子で憎まれ口を叩く魔女エマの身体を、フィリアはそっと魔女ラクーシャのかたわらに降ろした。
ジェラは主人の足もとに身を伏せ、アトゥラはフィリアの隣に立ち並ぶ。
そんな人々の姿を順番に見回してから、フィリアは「うーん!」と大きくのびをした。
「本当に気持ちいいですねー! 全身に、力がみなぎるみたいですー!」
「はい。精霊たち、躍っています」
「おー、精霊さんたちもお喜びですかー。それは何よりでありますねー!」
フィリアはアトゥラとともに修行を積んだのだが、2年が経過した現在も、けっきょく魔術は習得できていなかった。
その代わりに、腰には長剣を下げている。かつて魔女キョウラから授かった、まがいものの聖剣である。この地の精霊たちを脅かさないように、その柄には封印の術式が施されていた。
魔女エマのかたわらにあぐらをかいたフィリアは、笑顔で広場を見回していく。
その目がふっと、精霊王たる大樹の根もとに向けられた。そこで風に揺られているのは、淡い水色をしたニケアの花である。
フィリアはいっそう無邪気な笑顔となって、ニケアの花に手を振った。
ニケアの花はそれに応えるかのように、水色の花弁を風に揺らした。
「フィリア、他の魔女たち、戻ったようです」
と、アトゥラがそのように発言するのと同時に、光の門が虚空に出現した。
玉虫色に輝く光の門から、わらわらと見知った者たちが姿を現す。そちらを振り返り、フィリアは「おー!」とはしゃいだ声をあげた。
「みなさん、お疲れ様でありましたー! 今日の成果は、如何でしたか?」
「ふん。外道の魔術も使えねー雑魚どもばかりで、肩透かしだ。あんな雑魚しかいねーなら、わざわざ俺様が出張るまでもなかったぜ」
そのように答えたのは、魔女ドルガである。
すると、かたわらの魔女キョウラがくすくすと忍び笑いをもらした。
「だから、わたしとヘルだけで十分だと言ったでしょう……? 連れていけと騒いでいたのはそちらなのだから、文句ばかり言わないでほしいものだわぁ……」
「うるせーんだよ、外道の魔女野郎。手前らみたいなくそったれどもに、世界の命運を任せきりにできるもんかよ」
会話だけを聞いていれば以前通りの両名であったが、もちろん彼女たちも変わり果てた姿になっていた。
特に魔女ドルガなどは、およそ80年ほどの齢を重ねているはずであるのだ。魔女エマと魔女ラクーシャに比べれば若年なれども、完全に老女の域であった。
背丈はやはり変わらぬままで、ただ老女の面貌となっている。右目は黒い眼帯で隠し、皺深い顔に凶悪な笑みをたたえたその姿は、石の都の住人が思い描く魔女そのもののたたずまいであった。
いっぽう魔女キョウラは、そこまでの齢を重ねているわけではない。彼女が魔術を体得したのは10年ていどの昔であったので、せいぜい20年ていどの齢が加算されたのみであるのだ。
しかしそうすると、彼女は17歳の年に魔術を体得したので、40歳に届こうかという外見になるはずであったが――そうとは思えぬほど、若々しい姿を保持していた。その肌はぬめるようになめらかで、皺の1本も浮かんではいない。ただ、以前よりもわずかに背がのびて、蠱惑的な色気がいっそう増幅されたぐらいのものであった。
そんな彼女たちに付き従うカーラとヘルは、やはり変化の術式で魔力を消費する愚を避けて、雷王鳥と白蛇の本性をさらしている。ジェラやロムロムと同様に、その外見から年齢を推し量ることは難しかった。
「何にせよ、ご無事に戻られて何よりですー! やっぱり外道の魔女さんの推測通り、騒ぎを起こしていたのは邪神教団の残党であったのですかー?」
「ええ、そうよぉ……教主を失ったというのに、あいつらの執念には何の陰りもないようねぇ……本当に、菜園に湧く害虫でも駆除しているような気分だわぁ……」
無邪気さと残酷さの同居する顔で艶然と微笑みながら、魔女キョウラはそのように答えた。
この2年間、魔女たちはこの精霊王の森を最後の拠点として、邪神教団の撲滅に励んでいるのだった。
世界からはほとんどの魔力が失われてしまったので、もはや妖魅が自然に発生することは滅多にない。しかしそれでも、邪神教団はあらゆる策謀を駆使して、石の都を滅ぼさんとしていたのである。
「あいつらは、自分たちの都合のいいように編纂した偽りの歴史書を編んで、後世に遺そうと目論んでいるようねぇ……今日の連中も、暗いあなぐらでせっせと写しに励んでいたわぁ……」
「ほほー。正しい歴史書と魔道書を遺されようとしている外道の魔女さんとは、対極の行いでありますねー」
「本当にねぇ……数百年後には、わたしの遺志を継いだ外道の魔術師と、あいつらの遺志を継いだ邪教徒が、石の都の真ん中で抗争を始めることになるのかもしれないわぁ……」
「数百年後には、この大地にもけっこうな魔力が蘇っているのでしょうしねー。まあ、その時代の苦労に関しては、その時代に生きる方々に担っていただきましょう!」
「あらぁ……ずいぶん頼もしい言葉を吐けるようになったのねぇ……わたしよりもずいぶん背も高くなってしまったし、生意気だわぁ……」
「いえいえ、色気のほどでは勝負にもなりませんですけれどもね!」
そのように言ってから、フィリアは明るく微笑んだ。
無邪気だが、2年分の成長を感じさせる笑顔である。
「何にせよ、わたしはわたしにできる仕事に力を尽くす所存でありますよー! 今後もご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします!」
「けっきょく魔術を習得できなかったあなたに、わたしたちが指導をするすべなんてないけれどねぇ……」
「手前が言うなよ、外道の魔女野郎。外道の魔術も不浄の鋼も、俺様たちから見りゃあ同じぐらいのくそったれなんだからな!」
そんな悪態をついてから、魔女ドルガは「キヒヒ」と笑った。
そうして、木漏れ日の中でくつろぐ魔女エマたちへと視線を巡らせる。
「で? 俺様たちを働かせながら、手前らは日向ぼっこかよ? まったく、いい身分じゃねーか」
「ふん。それを不服と思うなら、おぬしもとっとと隠遁したらどうじゃ? 1日見ぬ間に、いっそう老いさらばえたようじゃぞ」
「しわくちゃの老人野郎に言われたくねーってんだよ! こんな小便くせー未熟者どもに世界の安寧を託して、おちおちいびきをかいてられるかってんだ!」
カーラは同意を示すように、3色の翼を羽ばたかせた。
魔女エマと魔女ラクーシャが隠遁した現在、フィリアとアトゥラと魔女ドルガと魔女キョウラの4名が、邪神教団との抗争に励んでいるのである。この世界に残された魔力もあと10年とはもたないという見込みであったので、けっきょく新たな弟子を育成することはなかったのだ。
もう間もなく、魔術の世界は完全なる終焉を遂げる。
次に魔力が蘇るのは、数百年の先である。
フィリアたちがその時代に立ちあうことは、どのような奇跡があってもかなわぬ話であろう。
(でも……)
しかしそれでも、フィリアは幸福であった。
魔術師になるという夢は絶たれたが、これほどかけがえのない人々とともに生きることが許されたのだ。それで、フィリアが幸福でないわけがなかった。
「それじゃあ、家に戻ってお茶にしましょうか! 以前に摘んだ茶葉が、そろそろ飲み頃だと思うのですよねー」
フィリアがそのように提案すると、何か悪態をつきかけていた魔女ドルガは「ふん」と肩をすくめた。
「こっちは朝からひと暴れして、腹ぺこなんだよ。まさか、本当に茶だけで済まそうって魂胆じゃねーだろうなあ?」
「ご心配なく! 干した果実を練り込んだ甘ーいお菓子も、どっさり準備しておりますので!」
「キヒヒ。それを先に言いやがれってんだ」
「あなたって、食に対して貪欲よねぇ……魔女としては、如何なものなのかしらぁ……」
「うるせーってんだよ! だったら手前は、岩ゴケをつまみにして沼の水でも飲んでやがれ!」
「まあまあ、お気を静めて! それでは、家に戻りましょー!」
フィリアはロムロムにもたれていた魔女エマの小さな身体を、再びそっとすくいあげた。
顔にかかる木漏れ日に目を細めながら、魔女エマはじろりとフィリアの笑顔をねめつける。
「せわしないのう。なんのために外まで連れ出されたのか、さっぱりわからんわい」
「いいではないですか。お師匠さんとたっぷりふれあうことができて、わたしは幸福の至りでありますよー」
「気色の悪いことを抜かすな、大うつけめ」
魔女エマは苦笑を浮かべ、フィリアは白い歯をこぼした。
5人の魔女と、5頭の従者。そして不肖の弟子を含んだ11名は、ぞろぞろと連れ立って木造りの家に入っていく。
そんな彼女たちの姿を見守りながら、精霊王の根もとに咲いた一輪のニケアの花は、くすくすと笑うように水色の花弁を揺らし続けていた。
当作はこれにて完結です。
最後までお読みくださり、まことにありがとうございました。
また別の作品でお目にかかれたら幸いでございます。




