春を殺して
ごめんなさい
小学五年生の夏、人を殺した。
僕は森崎が好きだった。だから彼女を傷つけるやつが許せなかった。
森崎は明るく元気な女の子だった。悪口が嫌いでクラスを引っ張る学級委員だった。落ち込んでるやつがいれば側に行って励ましてやり、はしゃいでるやつがいれば隣にいってさらに盛り上げた。教師からの評価もすこぶるいいし、彼女を嫌いな奴なんて一人もいなかっただろう。
でもある日を境に森崎は無邪気に笑わなくなった。教室は火が消えたように暗くなり、クラスの雰囲気も悪くなった。言葉にするのは難しいが、青空が急に曇り空になったようなものだ。たった一人が変わるだけでここまでクラスは変化してしまうのかと驚いた。
風の噂で森崎の両親が離婚したことを知った。だからか、と納得する一方で、その程度のことでそんなに落ち込むもんなのかと思った。
僕の両親も離婚していたし、それを悲しいとは思わなかったから。
仲のいい親子だったんだなと思う一方で、だったら離婚しないかとひとりごちた。
春休みが終わって、新しい学年になり、みんながキラキラと明るい笑顔を振り撒くなか、森崎は相変わらず沈んだ顔で毎日幽霊のように登下校を繰り返していた。
「ねぇ、あの服、昨日も着てなかった?」
クラス替えがあり、過去の森崎のことを知らないであろう女子がクスクスと揶揄するように陰口を叩いていた。表だってイジメの標的になることは無かったが、以前のように森崎がクラスの中心になることは無かった。
放課後、森崎がいなくなると同時に彼女の悪口が始まる。ゾッとした。
そんなギスギスした雰囲気が嫌で逃げ出すようにランドセルを掴み教室を飛び出した。いつも一緒に遊んで帰る友達がインフルエンザでお休みだったから長居は無用だった。
学校を出てしばらくいった先の交差点で信号待ちしていた森崎に、意図せず追い付いた。
僕らの間に会話なんてない。彼女が元気だった頃は向こうから話しかけてきたが、五年生になって彼女が口を開いているところをみるのは国語の朗読の時ぐらいなもんである。
歩行者信号は赤。青になった瞬間、早歩きしようと心に決める。森崎のことが気にならないと言えば嘘になるが、積極的に絡もうとは思わなかったからだ。
ふと、視界の外れに黒いものが横切った。
黒猫だった。
人間界の交通規則をしらない子猫は勢いを落とすことなく交差点を横切り、そしてひかれた。
ドクチャア、と鈍い音がし、隣で息を飲む音が聞こえた。
白いミニバンは車体に赤い血痕をつけたまま、なにもなかったような顔で走り去っていく。気付かないはずがない。後処理がめんどくさいから逃げたのだ。
信号が青に変わった。
とおりゃんせが流れ初めて、森崎はひかれた黒猫に駆け寄っていた。
何をしているんだろうと一瞬呆けてしまった。
誰の目に見ても猫は死んでいた。手の施しようがないことは遠くでもわかる。
森崎は潰れた体と臓器をできるだけ両手で掬い上げ、真っ赤な血液を白と黒のアスファルトを垂らし、おろおろと見てわかるぐらい戸惑っていた。そのあとのアクションが思い付かないのだろう。グロテスクな光景だった。血や内蔵が垂れている。脳とおぼしきものが見えた。ホラーやスプラッタ映画は苦手だが、暗い顔で猫の死体を持ち上げる森崎を綺麗だと思った。
向こう側に渡ろうとしていた僕は交差点の真ん中で戸惑う彼女とすれ違った。
「あっ……」
困ったような瞳と目が合う。
「病院……」
蚊の鳴くような声で森崎が言った。
「動物病院、どこだっけ」
たしか、交差点を少し行った先の県道に古い動物病院があったはずだが、場所を教える気はしなかった。自分の記憶が確かなものという自信が無かったから、というわけではない。
「もう死んでるよ」
「……」
認めたくない事実を飲み込むように彼女は静かに頷いた。
青信号が静かに点滅し始める。往来の激しい交差点で立ち尽くすわけにはいかないので、僕らは申し合わせたように一緒になって横断歩道を渡った。
森崎が「猫、埋めてあげないと」と言うので、家の近くの竹林を紹介した。
一緒に猫のための墓穴を掘る。血と土で両手を汚しながら彼女は額の汗もそのままに一生懸命穴を堀り続けた。
子猫を埋葬し、落ちていた枝で十字架を作り、お墓にさす。
手を合わせてから彼女と僕は公園の蛇口で手を洗った。爪の間に土が入っているのを見て、ため息が出そうになった。
「ありがとう」
森崎は短くお礼を言うと頭を下げた。彼女の飼っていた猫というわけでもないのに律儀なやつだな、なんて思った。
それから僕と森崎は毎日放課後猫のお墓参りをすることになった。初めて猫に手を合わせ終わったときにどちらからともなく提案したのだ。話の流れは覚えていない。
手向ける花を摘んだり、駄菓子屋でお菓子を買ったり、いつしかお墓参りというよりも目的は森崎と遊ぶことになっていた。
学校では死んだ魚のように暗い森崎も猫のお墓の前では以前のように明るく笑ってくれた。僕だけに笑顔を見せてくれているようでそれが堪らなく嬉しかった。
チャイムが鳴ってから日が沈む前まで僕らはずっと公園で隠れるようにしていっしょに遊んだ。
毎日の遅い時間まで一緒にいるので、ある時気になって尋ねたことがある。親は心配しないのかと。少女はためらいがちに両親が別れて今は母親に引き取られていること、母親の仕事は夜遅くまでなので、家に帰っても一人きりということを教えてくれた。僕らは二人とも片親で互いが互いを補うようにおしゃべりに花を咲かせた。
彼女と放課後を共にするのは月曜日から木曜日までだった。金曜日は用事があるらしく、彼女は授業が終わると脇目も振らずに帰宅していた。
ブランコに乗りながら用事がなんなのか聞くと小さな声で「パパに会うの」と教えてくれた。
ある金曜日、町中でたまたま母親とおぼしき女性と一緒に車に乗る森崎をみたことがある。フリフリのスカートを履いて、仄かに化粧をした少女はいつもよりも大人っぽく見えた。
その事を彼女に言うと、顔を青くてし「忘れて」と呟いた。照れているのかな、と思ったが、なにかに怯えているようにも見えた。
学校で僕と森崎との関係がばれて冷やかされた。
クラスでの世間体などどうでもよかったが、嘲笑の的になるのは面倒なので僕と森崎はしばらくお墓参りを自重することにした。
といっても一緒に遊ばなくなったわけではない。バラバラのタイミングで帰宅し、頃合いを見計らって、彼女の家で合流し、古い携帯ゲーム機でモンスターを集めたりと交流は続いた。
森崎の家は単身者用の狭いアパートだった。ここで彼女は母親と独り暮らししているらしい。
その日が何曜日だったかは覚えていないが、いつものように 育てたモンスターを戦わせて、華麗な勝利を飾った僕は上機嫌に彼女にトイレを貸してくれるようにお願いした。
ゲーム機をトイレにまで持ち込んで通信対戦に興じていたら、玄関ドアが乱暴に開く音がして、森崎の母親が帰宅した事を悟った。授業参観ぐらいでしか会ったことがないので、ほぼほぼ面識がない大人だ。気まずいな、なんてドキドキしていたら足音がいくつもあることに気がついた。
「きゃあ」
森崎の悲鳴が居間から聞こえた。僕はドアノブを握り、高鳴る心臓を鎮めようと目をつむった。
トイレのドアの先には何人もの大人がいて、森崎が泣きじゃくっている。
男の声は獣のようで、僕は怖くて怖くてたまらなかった。
なにがなんだかわからなかった。未知への恐怖と不安がこみ上げ吐きそうになった。
数十分経って、ようやく平静が訪れた。僕は声を殺して泣いていた。森崎がかわいそうだからじゃない、単純に怖かったんだ。
呼吸を整えようと深呼吸する。
ドアノブがガチャガチャ鳴らされた。
「おい誰かいるぞっ!」
野太い男の怒号が響き僕はまさしく血の気が引いた。
「おい、誰だ、出てこい!」
とガンガンとドアを叩かれる。薄い壁の向こうで森崎がしゃっくり混じりに鳴き声をあげているのがわかった。
「ちょっと、壊れるでしょ。どいて!」
女の声がして、かけていたはずの鍵がかちゃりと外れる。まるで魔法のようだとその時は背筋が凍ったが、鍵穴に鋭利なものをさしてひねっただけなんだろう。それぐらいの施錠力しかないのだ。
ドアが開いた先にいたのは三人の男と森崎の母親だった。
便座に震えながらへたりこむ僕と目があった彼らは一瞬にして青ざめていた。
「坊主、なにか見たか?」
男の一人が口を開いた。僕はその問いかけに必死でかぶりをふった。
「そうか」
と男は短くうなずくとポケットから二つ折の財布を取り出し、しわくちゃの五千円札を僕に突きつけた。
「これでおもちゃでも買え。ゲーム好きなんだろ?」
床に転がるゲーム機が軽快なBGMを奏でている。森崎との通信対戦が進むことはなかった。
「あ……」僕は床に転がるゲーム機とつき出された五千円を受け取り、掠れる声で「ありがとうございます」とお礼を言った。
なにがあったのかわからなかったが、ただただ未知への恐怖があった。
「いい子だ」
男がにたりと黄ばんだ歯を見せて笑い、僕の肩を掴んで、むりやり立たせた。
「今日のことは誰にも言うんじゃないぞ。あともう若葉ちゃんと遊ぶんじゃない」
「は、はい」
「受験勉強で忙しいんだ。おじさんたちは家庭教師でね」
四人の大人の向こうで仰向けで目に涙を貯めた半裸の森崎と目があった。助けを求めているように見てたが、気づかなかったふりをした。
「さ、今日はもう帰りなさい。暗いから気を付けるんだよ」
男が念押しするように言って、僕を玄関まで押しやった。
「は、はい!」
と僕は返事をし、慌てて靴を履いて、外に転がるように飛び出した。
静まり返った住宅街。夜の匂いが肺腑に染みる。
息をするのも苦しかった。
「普通に帰すのかよ!」
「そうするしかないだろ!」
ドアがしまった瞬間、言い争う声が聞こえ、怖くなって僕は夢中で駆け出した。
ゲーム機の液晶は『ワカバがコマンドを選択中です』から動くことはなかった。
家に帰り、その日に起きたことを親にも言えず、震えながら惰眠を貪った。
翌日、気分が悪いと親にいっても仮病は数秒で看破され、半ば強制的に学校に行かされた。皆勤賞を狙っているのは僕じゃなく、母親だった。
森崎に会うのは気まずいな、なんて思いながら、学校に行くも、彼女は珍しく学校を休んでいた。
翌日もその翌日も、少女が顔を覗かせることはなかった。
三日目、ついに登校した森崎は少しやつれたように見えたものの、元気そうだった。少しほっとする。
ずっとあのときの事を謝ろうと心に決めて、タイミングを見計らったものの、教室には人の目があるのでうまくいかず、ようやく話しかけられたのは五時間目の理科の授業で実験室に移動する時だった。
「ごめん」
ぞろぞろと教科書を持って移動するクラスメートたちにできるだけ馴染むように僕は声を潜めて彼女に話しかけた。
「別にいいよ」
森崎は短く言って僕の方をちらりと見た。
「だからもう話しかけないで……」
森崎がそう言って言葉を続けたとき彼女の大きな瞳からポロポロと涙が流れ始めていた。こぼれ落ちた大粒の涙が廊下の木目に落ちる。ついに彼女は立ち止まってその場にしゃがみこんでしまった。
「ごめん、森崎、ごめん」
壊れたように謝罪の言葉を投げかける。
「痴話喧嘩だ」とクラスメートが下卑た笑みを浮かべた。
頭に血が上った。イラついた。そして単純に八つ当たりがしたかった。振り返り様、僕らを嘲笑ったそいつの右頬におもいっきり拳を叩き込んでいた。悲鳴が上がる。
理科の授業が中止になって、僕は生徒指導室に連れていかれ、なにがあったのかヒアリングを受けた。
最初は悪口にムカついたから、と言い訳していたが、教頭先生の追求はついに『森崎が泣いていた』ことに触れた。
話しかけないで、と言われた。
僕は単純に森崎に笑っていてほしいだけなのに。
気付けば洗いざらい先生に話していた。
森崎の家であった出来事。男の獣のような吐息に同級生の悲鳴。
……洗いざらいといったのは嘘だ。
男にお金を握らされたことだけは話さなかった。いまだに使えずにタンスの奥に仕舞いこんだしわくちゃ五千円札。いっそのこと燃やしてしまおうかと何度も思った。
僕の話を聞き終えた教頭先生は顔中に汗を垂らしながら、いろんな人に叫ぶようにいろんな命令を出していた。
いつもは優しい保険の先生が眉間に皺寄せてどこかに電話をかけていた。
それから僕は親が呼ばれて、家に帰された。校門前にパトカーが止まっていたのだけは鮮明に覚えている。
顛末は呆気ない。その後森崎の家に警察が入り、なんやかんやで森崎の母親は逮捕された。小さな町の犯罪者はすぐに噂になる。
警察はできるだけ物事を秘匿しようとしていたが、人の口に戸をたてることができないようにあっという間に噂話が広がった。
森崎は仙台に住むという父親の実家に引き取られることになった。残された数日をクラスで過ごす彼女は居心地が悪そうだった。隣のクラスのやつがわざわざドアから森崎を指差して「変態にアレされちゃった人だ」と笑った。
僕はお願いされた通り、廊下で彼女を泣かしてから、一度も話しかけることはしなかったが、
森崎の転校前日に彼女が僕の前に立って、「明日読んで」と一枚の封筒を差し出した。
少女は特に何も残すことなく、はじめから居なかったみたいに新天地に行ってしまった。
封筒には手紙が入っていた。
丁寧に便箋一枚分彼女の文字が綴られていた。
『あなたなんて大嫌いです。昔は好きでしたが、いまは大嫌いです。なんで余計なことをしたんですか。だまってくれていれば平和だったのに。ママに会えなくなりました。全部あなたのせいです。私が我慢していればみんな幸せだったのに。なんで余計なことしたんですか』
仙台に行く前に彼女は交差点でトラックに引かれて亡くなった。
僕はただ森崎に笑っていてほしかっただけなのに。