出発
異世界自転車旅を決意した直征だったが、さてどこへ行ったものかと悩み始めた。
現在直征がいる場所は360度見渡す限り一面の荒野で、遠くに薄っすら山のような盛り上がりが見えるものの、後はせいぜい疎らに木が生えている程度しか景色に変化がない。
どうしたものかと考えていると、ふと目の前に横たわっている狼の亡骸が視界に入った。
「咄嗟のことだったとはいえあの狼には悪いことしちゃったな・・・」
その呟きを聞き取っていたスマホの向こう側にいるココノエが直征に注意した。
「一道さん、間違っても魔物に憐憫を掛けるようなことはしないでくださいね」
「魔物、ですか?この狼が?」
ココノエの説明によると、この世界にはマナというものがあって空気と一緒でどこにでも存在しており、あらゆる物質に宿るこの異世界を構成する要素の一つだということらしい。マナの力は魔法など(この世界には魔法があるらしい)人々の生活や文化に役立っている物も多いが、一方で一定量のマナを保有する獣が通常ではない進化を遂げると魔物と呼ばれ、あの狼のように狂暴になるということらしい。
「基本的に魔物というものはマナの力に飲まれて知性を失っていますから、遭遇した時点で友好的な解決は不可能だと思ってください。あと、極稀にマナの制御に成功した魔物は人間を上回る知性を獲得した個体もいますが、プライドがとても高くて人間を見下しているのでこちらも別の意味で話が通じない可能性が高いです」
「じゃあ、魔物を見つけたら逃げたほうがいいですね」
「それが賢い選択だと思います。ただ、たまにしつこく追ってくる個体もいるでしょうし、逃げられない状況もあるかもしれませんが、その時は・・・」
「その時は?」
「その自転車で轢いちゃってください。大丈夫です、大型のドラゴンくらいまでは一撃でやっちゃえるので」
「ド、ドラゴンがいるんですね・・・でも轢くって・・・」
「大丈夫です。大抵の生物はその狼のように吹き飛びますから。もちろん一道さんが怪我をする心配はありませんよ」
「それが、この世界を旅する上で必要な覚悟なんですね?」
「はい、敵対するようなら躊躇わないでください。違う土地へ行けばその土地のルールがある、ましてや違う世界となれば尚更です」
「はい、なんとなくわかる気がします。できるだけ逃げるようにしたいですが、もしもの時は躊躇わずにいきます。ココノエさんの言葉、肝に銘じます」
郷に入っては郷に従え、異世界ともなれば少々当てはまらない言葉かもしれないが、直征はココノエの言葉に素直に従うことにして出発の準備のためにココノエとの通話を終えた。
「もしもしココノエさんですか?」
「あら一道さん、先ほどのお電話から五分ほどしかたっていませんよ。どうかされましたか?」
「あの、改めて自転車の点検や持ち物のチェックをしていたのですが、いろいろとお尋ねしたいことが出てきまして。まず、リュックの中に入れた覚えのないやたら豪華な封筒の様なものが入っているのですが」
「ああ、それは紹介状ですよ」
「紹介状、ですか?」
「自転車に加護を与えたとはいえ、今の一道さんは文字通り天涯孤独の身ですから、何かしらの伝手でもないと物一つ買うのも大変でしょうから、私が一筆認めておきました。これでも神様ですから各地で祭られているんですよ。ある程度の大きさの町に入ったらその封筒のマークと同じものを掲げている教会で封筒を渡してください。何かしら便宜を図ってくれると思いますから」
「あの、僕自身はココノエさんが神様だってことを疑っていないんですが、その教会でこの封筒を渡したところで信じてもらえるんでしょうか?」
ココノエが不快にならないように気を使いつつも、この世界の神がどのような存在か知らない直征の素朴な疑問はココノエの心に新鮮に響いたのか、直征の耳に機嫌のよさそうな声が聞こえてきた。
「ふふ、一道さんの世界ではそうかもしれませんが、この世界では神と人の距離は一道さんが想像するよりもはるかに近いものなんですよ。その自転車ほどではないですが、たまに人間に加護を与えたり逆に天罰を下したりしているので神の存在を疑っている人はまずいません。心配は無用ですよ」
「そうなんですね、でしたら困ったときはこの封筒をありがたく使わせてもらいます。重ね重ねありがとうございます」
「ええ、遠慮なく使ってください。それではこれで」
「いえ、ここからが本題なのですが」
「・・・・・・・・・どうぞ、おっしゃってください」
「リュックの中なんですが、増えた物は封筒だけなんですが、今朝家を出る前に入れておいたはずのチョコレート、栄養補助食品、スポーツドリンクがなくなっているんです。当然僕はまだ食べていませんし誰かにあげてもいません。というより家を出てから会話をした人はココノエさんだけなんですが、お心当たりはおありですか?僕の予想だと有るはずなんですが?」
「すみません、封筒をリュックに入れる時に見つけて、とても美味しそうに見えてついつい我慢できずに食べました。そしてとても美味しかったです。ご馳走様でした」
突然異世界に飛ばされた挙句、頼みの綱である食料が食べられてしまったと知ったら、普通の人間ならここは驚いたり怒ったりするところなのだが、狐を助けようとして自分が事故に遭って死ぬような思いをしても、しょうがないと思えるような性格の直征にとって大したことではなかったようだ。
「はあ、まあすでにいろいろお世話になっているのでそれ自体はいいのですが、困ったことにこれから人里に出るまでの食料が尽きているんですよね。この先いつ人里に出られるかわからないので不安ですね」
「ウッ!?」
淡々と事実を述べた直征の言葉は普通に詰られるよりも深くココノエの心に刺さった。
「・・・わかりました。本当は立て続けに神の奇跡を同じ人に対して起こすのは良くないんですけど、今回は私の不始末でもありますし、特例ということにしましょう。一道さん、一つ提案があります」
「この場を凌ぐ方法があるんですか?」
「はい、これから先私が食べてしまった直征さんの食料を私の力で復元して一道さんのリュックに転送して支給します」
「そんなことができるんですか!?」
「可能不可能で言えば私にとっては片手間でできるほど簡単です。ただし、この世界に無い物を下界にいる人に無償でお渡しするのは神様として褒められた行為ではありません。そこで一道さんに一つお仕事をお願いしてその報酬として食料を支給したいのです」
「なるほど、理にかなっていると思います。僕にできることなら何でもおっしゃってください」
「それほど難しいことではないと思いますよ。一道さんには今お持ちのスマホで日記をつけてもらいたいのです」
「日記、ですか?」
「はい、どちらかといえばブログと言った方が伝わりやすいでしょうか。一道さんのその日一日の行動や印象に残ったことを記して欲しいんです。後でスマホの画面を開いてもらえれば専用のアプリがあるのが分かると思いますのでそこに書いてください。日記をつけた翌日にリュックの中に食料を転送しておきますので、よろしくお願いしますね。あ、今日の分は初回の特別支給ということで前払いにしておきますね」
「ありがとうございます。それとこちらこそよろしくお願いします。そんな簡単なことでいいのなら却って申し訳ないくらいです。それでは出発したいと思いますので今度こそ本当に失礼します」
「はい、一道直征さん、良い異世界旅を」
ココノエとの通話を終えた直征はそのままスマホを操作してホーム画面を確認してインストールした覚えのないアプリを発見した。アプリを開いてみると、白い狐があしらわれた可愛らしいデザインの中に書き込み用のフォームと送信ボタンがあるだけの簡単な造りの内容だった。あまりそちらの方面に詳しくない直征でもできそうな感じだった。念のためそのほかの機能が使えるか試してみたが、ネットも電話もつながらなかった。おそらくはココノエにだけ通じるようになっているのだろうと思われた。
用の済んだスマホをジーンズのポケットではなくリュックのサイドポケットにしまって改めてリュックの中身を確認すると、先ほどまでなかったはずのチョコレート、栄養補助食品、スポーツドリンクがいつの間にかに入っていた。
その他の荷物も確認したが、なくなっている物は一つもなかった。
「よし、これでとりあえず急場は凌げるな」
ココノエの言葉でわかっていたこととはいえ、自分の目で確かめることは大事なことだ。そう自分に言い聞かせた直征はこの旅の相棒であるクロスバイクの点検を始めた。
とはいってもさほど自転車そのものに詳しくない上に道具も持っていない直征ができるのは、精々素人に毛が生えた程度のチェックだけである。
それでもハンドルの可動域、左右のブレーキ、ライトの点灯、タイヤの空気圧など思いつく限りのチェックを行い、走行可能と結論付けた。
「さてと、準備完了だ。でもどこを目指したものかな」
一応の不安はなくなったとはいえそれでも目下最大の問題は水である。ところが直征がいる場所からは疎らな木が見えるくらいで、少なくとも視界の中には生き物の類は見当たらない。
「探すなら川なんだけど、やっぱりあの山の方かな」
山の天候は変わりやすい、当然変わった後には雨が降る、その雨が山のどこかに川を作っているかもしれないと直征は推測をつけた。
準備ととりあえずの行動方針を決めた直征が向かったのは、咄嗟のこととはいえ自らの手で死なせてしまった狼の元だった。
「埋めてやることもできなくてごめんな。今の僕にはそのための道具も余裕もないんだ。せめてお前のことを覚えていてやることしかできない。」
そう言ってどれほどの時をそうしていたのか、まだぬくもりの残る狼の頭を撫でる直征の目から涙が零れ落ちた。
しばらくした後、立ち上がった直征は最後に狼に向かって合掌した後、クロスバイクに跨ってもう一度左右ブレーキの動作と前後左右に障害物がないか確認した後、最初の一歩を異世界の大地ではなく、長い付き合いの相棒のペダル目がけて踏み出した。
「まったく、確かにいざというときは躊躇うなとしか言いませんでしたけど、だからと言って魔物相手に情けを掛けるなんて。まあ私が言えた義理ではありませんが。とはいえこのままでは一道さんの心に棘を残すことになるでしょうし、一道さんの最初の旅の思い出が苦いだけの物になっては客人として招いた私の沽券に関わります。さて、一道さんが引き返してくる気配もないですし始めましょうか。あまり下界の者に見せていいものではないですし、手早く済ませましょう。
そこの獣よ、普通なら死神の眷属に魂の回収を任せるところですが、一道さんの優しさに免じて今回は特別に私自らの手で輪廻転生の儀を執り行ってあげましょう。光栄に思いなさい。
・・・・・・あなたの意志は分かりました。ですが私が手助けできるのはあくまで入り口に立たせることだけ。望む道に至れるかはあなたの心次第です。さあお行きなさい、あなたが思い描く光景に辿り着くために」
旅の第一歩ならぬ一踏み目を始めた直征だったが、早くもココノエの加護の宿ったクロスバイクの性能に驚いていた。
今直征が走っている場所は道路どころか獣道すらないただの荒れ地だ。もし直征が乗っているのがシティサイクルなら早々にこの旅を諦めていたことだろう。当然クロスバイクでも大変な労力が必要になる。
ところが加護のお陰なのか、この道とすら呼べない地面を直征は舗装された道を走っているかのように軽快に走行していた。
正確にはタイヤが段差や石ころなどの上を通っているのは間違いないしその感触もあるのだが、全くと言っていいほど車体から直征の体に振動が伝わっていないのだ。同時に通常なら段差を上り下りする度に体が揺らされて体力を消耗するのだが、これに関しても物理法則を無視するかのようにわずかに動いているかも程度の感覚しかない。これに慣れ過ぎたら元の世界に帰った時に苦労しそうだなと余計なことを考えつつも、改めてココノエの加護に感謝する直征だった。
青い空と茶色のコントラストの中を赤いフレームのクロスバイクが進む。次第に快適すぎる走行に慣れてきた直征は雲一つない圧倒的な青一色の世界に心を奪われていた。視界を遮るものが何一つない、ただそれだけのことがこんなにも人に感動をもたらすのだと今更ながらに感じた。
土しか見えない地上を見てみても生き物の気配はなく、まるで抽象画の中に飛び込んだような錯覚すら起こさせる光景だった。あるものと言えばまばらに生える枯れかけの草とたまに視界の隅に紛れ込む痩せた木くらいなものだ。
時々自分がまだ気を失っていて夢の中で思い描いた幻想の中にいるのでは?と思いそうになるが、どこからともなく吹いてくる生暖かい風が自分がちゃんと現実の中にいるのだと教えてくれているようで、そのたびにペダルを漕ぐ足に力が入った。
刻々と位置を変える太陽は遮るものが何もない直征の視界を、少しずつだが確実に変化させて退屈を感じさせなかった。これまでは人工の照明の中で昼も夜も関係なく見てきた生活からは考えもつかないほど、太陽だけが支配する光の世界は様々な姿を直征に見せてくれた。
夢幻に思えた直征の異世界の初日だったが、いつしか太陽はその輝きを次第に変えてゆき、青と茶の景色を赤一色に染め始めた。
ここに至って直征もさすがに今夜の寝る場所がないことに気づいて慌て始めた。何もない景色ということは人が済める環境ではないということでもある。異世界旅行を覚悟した直征だったが、自分の足元の問題に思い至る余裕まではなかったようだ。
一瞬ココノエの顔が脳裏に浮かんだが、すでに十分すぎるほど助けてもらっている身であまり頼りきりになるのも何か違う気がした。
とはいえ地面の上に寝転がるなどすればアリなどの虫がたかってくる恐れがあるのでそれだけは避けたかった。
何かないかと一度停止して辺りを見渡すと、遠くの方に岩らしき物体があるのを見つけた。もはや日が地平線に触れようとしている中、直征は他に選択肢はないと焦りを自覚しながら岩を目指して再び走り始めた。
遠近感が掴めなかったせいだろうか、実際に近づいてみると岩は直径10m以上の平たい大岩だと判明した。ここを今夜の寝床に決めた直征は、大岩の周囲の枯れ草を集め始めた。遠くの枯れ草はクロスバイクを引いて籠や荷台に乗せて運んだ。なんとか人一人寝転がれるだけの量を集めた頃には既に日が落ちていたが、文字通り生死を掛けた作業中の直征には言葉にできないほど美しい夕日が沈む瞬間に見蕩れる余裕など微塵もなかった。
そこからはクロスバイクのライトの明かりを頼りに大岩の上に敷き詰め、その上にリュックの中のレジャーシートを掛けて今日の寝床を完成させた。
「はあ、はあ、危なかった。元の世界だと人食いアリなんて恐ろしい奴もいるらしいから、寝床の確保は必須事項だってことをすっかり忘れていた。この世界にどんな生き物がいるのか全くと言っていいほど知らないけど、これでも気休め程度だけど何もしないよりはましだろう」
そう思わず独り言を言った直征はレジャーシートの上に座って栄養補助食品とスポーツドリンクの質素な夕食を取った後、すぐそばに停めてあるクロスバイクのライトを消してスマホを取り出して今日の日記をつけ始めた。
元の世界の自宅からの出発に始まり、いつものサイクリング、道に飛び出して来た狐を轢きかけて自分が死にかけたこと、ココノエに救われ異世界に連れてこられたこと、安全運転を心がけてきた直征が初めて生き物を轢いてしまったこと、ココノエの誘いに乗って異世界旅行を決めたこと、壮大な景色の中で自転車を走らせて生まれて初めて本当の自由を感じたこと、日没寸前でに慌てて寝床を作ったこと、そして今、これまでの人生で写真でも見たことのないほど最も美しい夜の星空を直征が独り占めしていること。
そんなとりとめのない言葉をブログに書き連ねてスマホをリュックにしまった直征は、瞼を閉じたか閉じないかの一瞬の間に異世界旅行の初日を終えた。