出会い
特に事件が起きる予定はありません。少なくとも主人公はそう思っています。
一道直征は有給日の今日も愛用の自転車でサイクリングに出かけていた。
いわゆるクロスバイクという種類で六段変速、赤いフレームに前にはカゴと取り外して普段使いもできるタイプのライト、後ろには荷台がついているタイプだ。
この日は雲一つない絶好のサイクリング日和で、自宅から10km離れてはいるものの直征にとっては通い慣れた林道を軽快に走っていた時に事件は起こった。
「危ないっ!?」
林が奏でる風の音を愉しみながら緩やかな下り坂を走っていた駆の前に突然一匹の白い狐が飛び出してきた。
直征はこれまで一度として自分で制御できないスピードで自転車を走らせたことはない。今走っている下り坂もブレーキを使いながら慎重に下っていたが、狐が飛び出してきたタイミングがあまりにも悪すぎた。
それでも何とかハンドルを切ってすんでのところで狐を避けた直征を待っていたのはガードレールの本の隙間の先の崖と呼ぶにふさわしいほどの急斜面だった。
「うわわわわわわわ!!??」
ごつごつした岩肌が所々で露出した斜面をそれでも何とかハンドルを握りしめて下っていく直征だったが、さらに不運なことに無事に斜面の下まで降りることは叶わなかった。
とはいっても転倒して大怪我を負ったわけではない、直征は自転車と共に斜面の途中にあった小さな池にダイブしたのだ。
バッシャアアアァァン!! ゴボゴボボボ、 ブクブクブク
「た、たすけ、ガボボボボボボ・・・・・・」
(自分の不注意の結果とはいえ、狐の命を奪わずに済んだんだ。悪くはない最期かな・・・)
ほぼ毎週サイクリングを愉しんでいた直征はそれなりに体力があり着衣水泳でもそれなりに泳げる自信があったのだが、不思議なことにまるで池の底に吸い寄せられるように一度も浮上することなく沈んでいった。
「・・・・・・しもし、もしもし、聞こえますか?」
「ん、うんん・・・ここは、それに僕は・・・」
直征が目覚めたのは深い水底へと沈んでいったはずの小さな池の畔だった。
どれほど時間が経ったのか、ずぶ濡れのはずの服はすでに乾いており、直征は不快感を感じることなく体を起こした。
「そう、確か飛び出してきた狐を避けて斜面を下ってこの池に落ちて・・・」
「ちょうど一部始終を見ていた私が慌てて池から引っ張り上げたんです」
「それはそれは、男の僕を引き上げるなんて命がけでしたでしょうに、何とお礼を言ったらいいのか」
そう言って命の恩人を初めて直視した直征は己の目を疑った。
そこにいたのは巫女服を着たこの世の物とは思えないほどの美女だった。だが直征が驚いたのはその美しさではなく、頭についている大きな白い獣の耳と、背後に見える同じく白い九本のふさふさした尻尾だった。
内心は目の前の女性に特徴的すぎる耳と尻尾のことを尋ねたい衝動に駆られた直征だったが、すんでのところで言葉にするのを押しとどめた。
(最近流行ってるっていうコスプレかな?後ろの尻尾なんてフヨフヨ揺れてるけど最近のコスプレはすごいリアルなんだな。なんでこんなところに、いやいや、彼女にも何か事情があるかもしれないし、何より命の恩人に対してまだ礼もしていないのに聞くようなことではないな)
「いえいえ、私が駆け付けた時にはすでにあなたが池の端にしがみ付いていたところでしたから、大した苦労はしていませんよ」
「それでも命の恩人であることには変わりがありません。僕の名前は一道直征と申します。このお礼は必ず致しますので、どうかお名前と連絡先を教えてもらえませんか?」
「あらあらこれはご丁寧に。私の名前はココノエと申します。でもお礼なんて本当にいいんですよ?本当に大したことはしていませんので。(むしろこっちがお詫びをしないと)」
「何かおっしゃいましたか?」
「何でもないですよ、何も言ってないですよ。ああ!?そうだ!」
どことなくぎこちない受け答えをするココノエのことが気になりだした直征の気を逸らす常套手段として、ココノエは大声を上げた。ちなみに当の直征はココノエに対する不信感など欠片も持っていなかった。ただただ命の恩人の様子がおかしいので心配していただけである。
「ここから徒歩でお家へ帰るのも大変でしょう。そう思って直征さんが気を失っている間に自転車を引き上げておきましたよ!」
「それは大変だったんじゃありませんか?重ね重ねありがとうございます。それで、僕の自転車はどこに?」
「・・・え?」
「え?」
直征がそう疑問に思うのも無理はない。池の周りには直征とココノエの二人きり、二人が今いる林の中には自転車どころか人工物一つ見当たらなかった。
「え、ええ~っとですね・・・、あっ、あんなところにエイリアンと少年が乗った自転車が宙に浮いている!!」
「ええっ!?どこ!どこですか!?」
いるはずのないと頭ではわかっていても、人という生き物は他人の咄嗟の言葉についつい釣られてしまうものである。ココノエが指さした方を直征も必死で捜したが、見えたのは快晴の青空だけ、心のどこかで少しがっかりしつつもココノエの方に目を向けると、
「はいイチドウさん!あなたの自転車ですよ!!」
「え、ええ、はい、ありがとうございます・・・?」
ついさっきまでなかったはずの直征の自転車が目の前に立っていた。
「これ、いつの間に持って来たんですか?」
「や、やだなあ、ずっとここにあったじゃないですかぁ」
「なんか、僕の乗っていた自転車よりずっと綺麗になっているんですが・・・細かい傷なんかもなくなっているようですし・・・」
「い、池に落ちた時に洗い流されたのでそのせいでそう見えるだけですよ、きっと!」
「・・・そうですね、気のせいですよね」
違和感をぬぐい切れない直征だったが、命の恩人であるココノエをあまり追い詰めるようなことをするのは本意ではないなと思い直し、あえてこの違和感をスルーすることにした。命を助けられて相棒である自転車も戻ってきたのだ、これ以上を望むのは罰が当たる、細かいことは気にしない性格の直征はそう思った。
「それはそうと、後日お礼がしたいので連絡先を教えてもらえませんか?このままでは僕の気が済みません」
「お礼ですか?そんなこと気にしなくてもいいんですけど、イチドウさんの気がそれで済むと言うならそうですね、この辺りに私の屋敷がありますので、今度ここに来た時にお礼をしてください。ここまで来れればすぐにわかると思いますから」
「そうですか。それなら次の日曜日に必ずお伺いしますね」
頑なに連絡先を教えないココノエに対してこれ以上の問答は無礼だと直征は思いとどまった。
まだ日は高かったが、気を失っていたことも考えるとあまり無理は良くないと考えて直征は帰路に就くことにした。
「それではココノエさん、大変お世話になりました。お礼もせずに恐縮ですが、今日はこのまま家に帰ろうと思います」
「そうですね、無理だけは絶対によくありません。くれぐれもご自愛ください」
「はい、ありがとうございましたココノエさん、これで失礼します」
「ええ、一道直征さん、どうか良い旅を」
最後のココノエの言葉にまたも違和感を感じた直征だったが、キロの心配をしてくれているのだろうと思い直して相棒である自転車のペダルを踏みこんだ。
(しかしおかしなこともあるものだ。池に落ちた時は確かに浮上できないほど沈んだと思ったのに。それにあの小ささの池にしてはやけに深くまで潜ったような気もするし。そういえばココノエさんはあんなところで何をしていたのだろう?あの辺りは人家もないし特に自然に恵まれてもいなければそれこそ自転車か車ぐらいしか通ることはないのに)
珍しくサイクリング中に考え事をしていた直征は、それなりに登ったはずの林道が帰りの下りはあっという間に終わってしまったこと、そしてまたしても直征の自転車の前に素早く飛び込んできた何かに気づくことができなかった。
ガツン!!
「ギャオン!?」
「うわっ!?何?何が起きたんだ!?」
衝突した瞬間は自転車ごと自分の体が吹き飛ぶと覚悟して咄嗟にハンドルを握りしめた直征。それほど相手の体は大きかった。サイズで言えば直征の体とほぼ同じくらいの獣だった。
だがそんな直征の予想を完全に裏切る形で衝突で吹き飛んだのは獣の方だけだった。直征の方はと言うと精々握りしめたハンドルに軽い手ごたえがあった程度で、獣を轢いてしまった罪悪感よりも衝突した二者の被害のあまりの違いに対する驚きのほうがはるかに大きかった。
もしかしたら掠った程度で大したダメージはないのかもしれないと考えた直征は、慌てて自転車を降りてぐったりしている四つ足の獣の容態を確かめようとした。
「おい、大丈夫か!?・・・え、もしかして、死んでる?」
直征の体重は大体60kg、自転車の重量と背負ってきたリュックなどの装備を合わせても精々70kgが関の山だろう。だが目の前の獣は四肢を投げ出し瞳孔を開いた状態で確かに即死している。
疑問はそれだけではなかった。最初は大型の野犬にでも衝突したのかと思っていた直征だったが、長すぎる灰色の毛に犬ではありえないサイズの牙と爪、特に爪は10cmを超えるもはや凶器といっていいレベルで生えており、牙の方も人間でいう犬歯に当たる部分は完全に口からはみ出すほどのサイズだった。
「これって狼?でも日本では絶滅したはずじゃ。ていうかこんな狂暴な狼、ネットの画像でも見たことない・・・。とにかくこのままにはしておけない、警察に連絡しないと」
ブルルルルルル ブルルルルル
そう考えた直征がポケットに入れておいたスマホを取り出して警察を呼ぼうとしたのを見計らったように手の中のスマホが振動した。画面に表示された名前は知り合いではあるものの、直征が連絡先を交換したことのない人物だった。
「電話?え、ココノエさん!?どうして!?」
慌てた直征が条件反射で通話ボタンをタップして電話に出ると、先ほどまで会話していたコスプレ美女の聞き間違えようのない声が聞こえてきた。
「もしもし?聞こえていますか、一道直征さん。もしもーし、あれ?これで聞こえてるはずなんだけど」
「もしもし、聞こえていますココノエさん。どうして僕の番号を知っているんですか?」
「その辺りの説明をする前に、論より証拠です。一道さん、周りを見渡してみてください」
「周りって」
考え事をしていたことと狼らしき獣を死なせたことでいっぱいいっぱいになっていた直征はココノエの言葉で初めて自分のいる場所を見た。
そこに広がっていたのはアスファルトで舗装された道路にコンクリートで建てられた建物が立ち並ぶ見慣れた街並みなどではなく、疎らに木が立っているだけの荒野だった。自分が通ってきたはずの林も消えていた。
日本という狭い土地では絶対にあり得ない壮大な光景に直征は言葉を失った。
「結論から言いますと、一道さんが今いらっしゃる場所は異世界と呼ばれる一道さんが済むところとは別の次元にある世界です」
「そ、そんなことを突然言われても信じる方がどうかしていますよ」
「はい、そう来ると思ってそこが異世界であるという何よりの証拠に遭遇するのを待ってお電話をさせてもらいました。そんな大きな狼、一道さんの世界では存在しないんじゃないですか?」
「それはそうですけど・・・異世界に来たと言われてもそんな兆候は何処にもなかったですし、実感がないですよ」
「それは当然かもしれませんね。だって直征さんがこちらの世界に来たのは池に落ちて気を失っている間のことだったんですから」
「あの時ですか!?」
ココノエの話を要約すると、あの池は特定の条件が揃うと様々な異世界に行くことができるワームホールの様なもので、ココノエはそれを利用して異世界観光を楽しんでいるらしい。今日も異世界観光を満喫して池まで戻ろうとした帰り道で自転車に乗る直征と遭遇したらしい。そしてココノエを避けて斜面を下った直征が落ちたのが問題の池だったというわけだ。
「え、ええ!?まさか、もしかしてあの時の狐は!?」
「はい、私なんです。申し遅れました、私の名前は稲荷ココノエ、こちらの世界では神と呼ばれるものの一人です」
「か、神様であらせられましたか。はあ、なるほど・・・」
驚いていることには違いないのだが、直征の中でココノエが神だと告白したことに心のどこかで腑に落ちた部分も確かに存在した。出会った時のあの浮世離れした美しさはコスプレの技術によるものだとばかり思いこんでいたが、実は神様と言われた方がよほど雰囲気が合っていると直感したのだ。
「本当は一道さんが目覚めた時にすぐに謝罪しないといけなかったんですけど、本人を目の前にするとなかなか勇気が出なくて・・・・・・本当にごめんなさい」
「うん、まあココノエさんが無事でよかったですよ。僕も自転車も無事だったわけですし」
「それがですね一道さん、とても言いづらいんですが、あなたもあなたの自転車も無事というわけではないんです」
「え?だってあとはこのまま引き返してもう一度池に落ちればいいんですよね?あまり一日に二度も池に落ちる経験なんてしたくはないですけどね」
「その池なんですけどね、もう一道さんの世界には繋がっていないんです」
「え?・・・え?」
「つまりですね、今のところ一道さんが元の世界に帰る手段はないんです。わたしが謝罪しているのはそのことなんです。何度も謝罪されるのも嫌なものだとは思いますが、本当にごめんなさい」
「そ、そんな、じゃあ僕はこの先どうすれば・・・この世界で生きていく自信なんてないですよ」
「ふっふっふ、その言葉を待っていました!!確かに今の私には一道さんを元の世界に帰すことはできません。しかし!一道さんがこちらの世界で生活するためのお手伝いなら話は別です!!」
これまでの低姿勢が嘘のように、ココノエは自信に満ち溢れた声で直征に語り掛けた。
「そこで登場する私からの贈り物が、今一道さんが乗っている自転車なんです!」
「え・・・でもこれは僕が三年前に近所のショッピングモールで買ったものですよ」
「それについては私も見ていて乗りたくなっ・・・ゴホッゲホッ・・・失礼しました、ちょっと混線してるみたいですね。それについては池に落ちた時の衝撃でちょっと調子が悪くなっていたみたいなので、私の手で少しだけ改造させてもらいました」
「改造、ですか?確かに細かな傷がなくなっているのは気になっていましたけど、そのほかに変わったところなんて見当たりませんよ?」
「確かに外見はそうかもしれませんが、一言で言うとその自転車には私の加護が込められています」
「加護、ですか?」
「ああ、たぶん一道さんの想像している物とは大分違うと思いますよ。私も一道さんのいた世界を観光してそれなりに知識を仕入れていますので、そうですね、一道さんの知識に当て嵌めると神具とかマジックアイテムとか言えば理解してもらえるでしょうか?大体そんな感じです」
「それってもう自転車とは呼べないものでは・・・」
「いえいえ、さすがに空を飛んだり海に潜ったりなんて自転車の機能を逸脱するような芸当はできません。あくまで自転車として快適に運転できるように、ついでにこの世界で走行中に邪魔が入っても大抵のことは無視できるようにちょっと改造しただけです」
直征はココノエから改造と言われてようやく先ほどの接触事故の不可解な点が氷解した。大型の狼に正面衝突したのに軽い手ごたえ程度で怪我一つ負わなかったのはこのお陰かと。
「ココノエさん、僕の自転車のことまで気遣ってもらってありがとうございます。でも今は正直なところ戸惑いの方が大きいです。これからどうすればいいのか・・・」
「そうですね、一道さんの気持ちも無理はないと思います。それでしたら一度私の家にご招待しますのでそこで落ち着いて先のことを考えてみるのはどうでしょう?例の池は私の家の近くですし、いつになるかはわかりませんが、一道さんが元の世界に帰るまでいてくださっても構いません」
そこまで言ったココノエは直征の反応を確かめるように一呼吸置いた後、
「ただ、神の時間の感覚は人間には理解しがたいものがあるでしょうから、退屈な生活になってしまうかもしれません。そこで提案なのですが、一道さんの御趣味はどうやらその自転車のようですから、再び一道さんの世界への扉が開くまでの間この世界を自転車で見て回る、というのはいかがでしょう?
先程も言いましたけど、その自転車には私の加護が込められていますから大抵の危険は退けられます。この世界を知らない一道さんでも安心して旅ができると思います。どうでしょう、ここはひとつ心機一転して自転車でこの世界を巡る旅をしてみませんか?」
ココノエの言葉に直征は目の前の世界が急に開けた気がした。
大学生のころまでは休みの度に遠出してサイクリングの旅を楽しんでいた。さすがに何か月も野宿しての長期旅行まで行う勇気はなかったが、それでも自転車に乗ること自体がたまらなく好きだった。しかし社会人になるとなかなか時間が取れず、精々近所の名所を巡る程度しかできなくなっていた。そのことが不満とまでは言わないが、心の中にどこか鬱屈したものを抱えていたのも事実だ。
だが、直征が今見ている景色はこれまでの人生で見てきた物とは全く違う。
排気ガスで汚れてしまった日本では決して拝めない真っ青な空、特に生き物が見当たるわけでもないのに命の息吹を実感させる大地、何より人や車にぶつからないか常に気にしながら走らなければならなかった日本では一生感じることのなかったであろう、本当の自由が直征の目の前の光景にはあった。
一道直征は無限に広がる未知の世界に心を震わせながら、スマホに向かって呟くように、しかしココノエの耳に確かに届くように答えを告げた。
「異世界で自転車旅、やります。ぜひ行かせてください」