第12話
お尻が痛い。とてつもなく痛い。恐らく四つに割れている。
原因はひとつ、悪路の馬車。一種の凶器だ。こいつ尻痛いのか、なんて思われたくないから、抑えたりはしないけれど……。
おじいさんとの宴会の後、泊まっていけばいいのにという誘いを断り、私達は早々に出発した。
「じいさん、次どこだ?」というキールの質問に、おじいさんは簡潔に「海だ」と答えたのだ。
思い起こしても痛みは消えない。少しも気を逸らそうと、馬車というよりは荷台の上で、景色を眺める。視界いっぱいの緑。随分目に優しい。
乗っているのは、私にキールに、他に数人。
燦々と照りつける日光に貰い物をかざす。陽の光を反射する緑の石が、目に眩しい。初めて気がついたように「お」とキールが声を上げた。
「そんなペンダント、前から持ってたか?」
「ううん、これエルフのお姉さんからもらったの」
「飯のとき話してた?」
キールの質問に、軽く頷く。身動ぎをしてキールの方へ体を向けると、背中の矢筒がかたりと鳴った。
「それも?」
私の背中から飛び出た矢羽根を、キールが指さす。
「いやぁ、これは長のおじいさんからもらったの。代々伝わる特別なものだって」
私は武器に疎いから一見なんの変哲もない弓に見えるけれど、すごいものなのだろう。多分。
キールは「ふうん」と相槌を打つと、話を切るように目をつぶってしまった。
することのない、退屈な時間が流れる。頬を撫でる暖かな風が、心地よい。気持ちよさに身を委ね、目を瞑る。うたたねをしかけた時であった。
がたんと、地震のように馬車が揺れる。跳ねるように飛び起きると、周囲を見回す。
「おい!!お前ら!奪え!!」
掠れ枯れた声が響く。その声を号令に、汚い身なりの男衆が馬車を囲んだ。山賊だ。まさか出くわすなんて。
あっと驚きの声を上げぬ前に、隣から伸びてきた腕によって、物陰に押し込まれる。
「おい、いいって言うまで隠れてろ」
誰にも聞こえぬ低い囁き。声の主はわかるから抵抗しない。静かな荷台に片膝をつくと、強く大剣の柄を握る気配がした。
名を呼んで、引き止める。思わず、といった小さな声も拾ってくれる。敵を見据えていた視線が、ちらりとこちらに向けられた。優しい目だ。
「別に、俺も人を殺してぇわけじゃない」
そう呟いたあと、緊張だらけの息を浅く吸った。力が体に篭る瞬間を、見ているようだった。
「おい! 盗賊ども!」
キールの怒鳴り声が、雷のように轟いた。
一瞬の静寂。間髪いれず、どっと津波のように、蛮声が押し寄せる。荷台が余韻に揺れた。
名も知らぬ同乗者が、何人か荷台から飛び降りた。ある者は戦うために、あるものは逃げるために。
キールが戦っている場所が、嵐でも来たように荒れる。鈍器のような大剣が、次から次へと命を刈り取った。
馬の嘶きと共に、御者が落馬する。豚が落ちたように重重しい音を立てた後、盗賊の剣が体を貫いた。肉を裂く音。
一連の流れを、見てしまった。漏れそうになる悲鳴をすんでのところで抑える。悪意に染まった瞳が、ゆらりとこちらに向けられた。目と目が合う。
「あ、まだ荷台に人いたのかぁ……」
下劣な笑みが浮かべられる。人を虐げることを何とも思っていないような、醜悪で卑しい笑み。
盗賊に立ち向かっていった一人が、腕を失った。落ちて動かなくなった肉塊を、盗賊は汚い足裏で、踏み潰した。
どこかから、理不尽に喘ぐ声が聞こえる。助けを求める、叫びが聞こえる。
猫に近づく時のように、盗賊が私にゆっくり距離を詰める。顔に張り付いた髭に、伝うように汗が流れた。
恐怖で、キールの方へ顔を向ける。だめだ、私。また助けてもらおうと。全く成長がない自分が、嫌だ。貴方に、ついて行きたい。決意が固まる鼓動がした。
背に隠して置いた弓を、手繰り寄せる。手の震えは止まっていた。
下劣な笑みが近づいてくる。だめだ、まだ。もっと近づいて。確実に当てられる距離まで。
「はは、お嬢ちゃん。かわいいねぇ……」
欲望をぶつける視線に、体を縮めて怯えた少女の振りをする。そうだ、これは振りだ。あと、少し。
弦をぐいと引き絞る。力を込めた筋肉が、自然と震えた。でっぷりと太った腹目掛けて、矢を放つ。
呻き声は耳に入らなかった。倒れ込む体を一瞥すると、すぐに次を番える。私の手から放たれた矢が、生き物のようにしなった。
喉を貫いて、床に刺さった。虫の息ってこれだろう。分厚い唇からヒュウヒュウと漏れる息が、血の泡を作った。
泡沫が数回破裂したあと、盗賊の命は尽きた。虫よりも、動物よりもあっけない死であった。段々と濁る見開かた目と、私の視線はかち合った。
人を初めて殺したのに、自然と涙は出なかった。ただ残るのは、ぽっかりと胸にあいた穴だけだ。わたしの射た矢は、巡り巡って私に返ってきた。