枯れた世界の嘆きが聞こえる
遂にクラスメイトの五割が不登校になった。
常にがらりとした教室の空気に慣れつつあったものの、クラス内でこなすべき仕事は徐々に増えている。
学内の『不登校改善委員会』に属する人間にとっては苦労の絶えない時代が訪れて久しい。
人々は引きこもりが急増した二一四八年の現代社会を『殻の時代』と呼ぶ。室内に篭もり外に出る事を拒む人間があまりにも増え過ぎた。
まるでカタツムリのように殻に籠る人々。彼らはもはや異端者でも異常者でもない。
今日最後の授業が何事もなく終わり放課後になった時、担任が俺を呼び出して告げる。
「どうしても学校に来ない生徒が居る。出向いてプリントを渡すついでに登校を促しなさい」
普段通り事務的に仕事が割り振られた。「分かりました」と返事をしてプリントを受け取り、俺は帰宅前の寄り道にその生徒の家を訪れる。
担任に伝えられた住所はこの場所だ。街の外れにあるマンションの一室。三階から一望できる景色は高層ビルディングの灰色ばかりだった。
インターホンを鳴らすと、意外にもすんなりと該当生徒が顔を出す。
「……その制服、学校の人間だよね。君は誰だい」
黒くふわりと空気を含んだ黒い髪、病的なまでに色の白い肌。その中にある光を失ったオニキス球のような眼。
黒色のボトムスと灰色のパーカーを身に纏った中性的な容姿は不安げに俺の前に現れる。
彼の名は霜月 京。響きの通り、月光を反射する霜のような儚げな容貌をしていた。
服越しにも分かるほどの細身だ。女子にもここまで可愛らしい生徒は居ない。
「わざわざボクに会いに来るって事は不登校改善委員なんだろう? 学校には行かないからね。絶対に」
「プリントを渡しに来ただけだ」
「……そう」
少年にプリントを手渡すと、彼はすぐに中身を確認し始める。
「これは……数学の課題?」
「解けるのなら俺に少し教えてくれないか」
「分かんないの? ボクより授業受けてるだろうに」
「ああ。解けそうにない」
「や、最初の問題なんてただの四則演算じゃないか」
「本当に分からないんだ」
思わず目を泳がせた俺を見て、彼は溜め息をついた。
「学校に来いって言わないなら教えても良いよ。上がって」
「ああ、すまないな。失礼する」
俺は虚言を吐いた。きっと彼の力を借りなくとも一人で課題を終わらせる事は可能だ。
しかし、彼を動かしたくば一先ずは人格を把握する必要があった。同じ部屋で同じ学習をすればきっと彼の何かが分かるだろう。
彼の住む場所に踏み込んだ。特に何の変哲もないが、片付き過ぎていて少しだけ無機質さを感じさせるマンションの一室だ。
「家族は?」
「出かけてるよ。両親共働きでさ」
「寂しかろうな」
「ううん。インターネットがあれば学校も友達も、家族だっていらなくなるよ」
「……そう、なのか」
やはり彼には何かが欠けている。きっと孤独のあまり心が摩耗しつつあるのだろうと思われた。
「それで、課題のどこが分からないの?」
彼は俺を疑いもせずに尋ねてくる。俺が適当に取り繕った話に彼は真剣な眼差しを向けて時折頷いた。
テーブルを借りてプリントを広げ、彼と二人並んで座る。
「この問題はね、根号を文字みたいに扱うんだよ。XとかYみたいに。つまり根号の中の数字が同じ物同士を計算するんだ」
彼が展開する教示の分かり易さには目を見張るものがあった。きっと数学が出来ない生徒にもすんなりと伝わるだろう。
「なるほど。中々の教師ぶりだな」
「……ははは、学校にも行けない教師なんて必要ないじゃないか」
彼は自虐的に笑って静かにペンを置くと、一つ欠伸をして伸びをした。
「ボクが居なくても世界は回るんだ。だけど、この時代はもう少しで終わる」
「そうだな。お前の学力を必要とする人間は現代社会に必ず存在するだろう」
「違うよ。そういう話じゃない。あと少しでジハードが起こるんだ」
「ジハード?」
「聖戦。ボクらに幸福をもたらす為の人種選別だ。今の社会の仕組みは変わって沢山の人が死ぬ事になる」
「……電子団体の教えに染まったな?」
電子団体。サイバー・グループ。一般的にインターネット上の過激思想家が結集して立ち上げる団体を指す。
引きこもり人口は既に日本国民の三割に達した。彼らのライフスタイルは非常に多様だ。
内職や創作活動によって仮想通貨を稼ぐ者、社会復帰の為のコミュニティに参加する者。
そして。
気が触れてしまう者。死を選ぶ者。インターネット上に団体を立ち上げ有志を募る者。邪な教えに染まる者。
きっと眼前の彼は曲がりくねった教えにとりつかれているのだろう。
「何とでも言いなよ。ボクは社会的多数者に虐げられる少数派を救済する。邪悪な十人を殺して親愛なる一人だけを生かすんだ」
彼の瞳に光が灯る。歪な希望に縋りつく人間の空虚な笑顔だった。
「『孤なる者には寄り添い、時に救うべし』。それがボクの行動原理さ」
「その思想……政府非常事態宣言を発令させた『孤なる先導者』のものだ。つくづく指折りの危険団体だな」
「キミは孤独かい?」
「ここで『孤独ではない』と答えれば俺はどうなる」
「死んでもらうよ。理想の世界を作るためだ。脅しでも嘘でもなく、ボクは本当に武器を持ってる」
「お前と同じく俺も孤独だ。敵ではない筈」
「そっか」
彼は右腕を伸ばして俺の手を取った。
「……何のつもりだ」
「『孤なる先導者』ではこうして孤独を満たし合うんだ。握手は友情の証だよ」
男に手を取られるのは奇妙な感覚だった。しかしこの少年は見ようによっては少女にも見える。
柔らかく、温かい。
まるで優しく包み込むような手はたまらなく心地良かった。
少年はにこりと笑んだ。先ほどの仏頂面が嘘のような、ひどく幼気な笑顔だ。
やがて彼ははっとしたように、照れを噛み殺すように口を結んだ。ひどくばつが悪そうに顔を背ける。
「課題、あとは自分で解けるだろ。ボクだって暇じゃないんだから」
「あ、ああ。世話になったな。今日は帰る」
「……また来るかい?」
「多分な。行くとも」
少年の部屋から出た後、真っ直ぐに自宅へと歩む。
都会の景色は退廃的なモノクロームで植物など一つとしてない。
幾つかのビルを通り過ぎ、少し自然の残りかけている人気のない場所へと辿り着く。
周囲を確認し、人の気配や視線が無い事を確認する。地上に俺の家は無く、誰にも知られる事のない地下シェルターに身を潜めている。
俺も元は平凡な高校生だった。しかし、今では下水道に偽装されたシェルター内で過ごす諜報員だ。
地面を少し掘ると取っ手の付いた鉄板が姿を現す。それを開けば俺の住処だ。
八畳ほどのワンエルディーケー。此処ならば他者の目を気にせずにくつろげる。
木の床に寝転んだ直後、鞄の中からタブレット端末の震える音がする。画面には『蛍火』という見慣れたエージェントの名前が表示されていた。
『エージェント・玉露。収穫は?』
「『孤なる先導者』の構成員一名と接触した」
『名前は?』
「霜月 京」
『ほー。捕縛したの?』
「否」
『おいおい、『孤なる先導者』の危険等級はRedなんだ。ちゃんと任務をこなさなきゃ』
エージェント・蛍火の説教が続く。
『普段の玉露だったら確実にやり遂げてただろうに。ちょっとばかり腕が鈍ったんじゃない?』
「黙れ。今回は偵察に留めたに過ぎない。次に捕らえれば良いのだろう」
『ま、そうだけどさ』
エージェント・蛍火は我々『電子団体対策課』の中でも指折りの任務遂行能力を持ち、人情に厚く義理堅い。
しかし、残念ながら彼と俺は頻繁に衝突する。気性が噛み合わないのだ。
『とにかく、データベースをしっかり読んで。これ以上の死人が出る前に『孤なる先導者』を潰さなきゃならないんだ。ぼくは疲れたから寝るね。ばいばい玉露』
「ああ」
通話を切り、風呂を手早く済ませて端末からデータベースにアクセスする。
目の前に表示されるのは重要語句の羅列だ。自分自身に関する情報、政府に雇われたエージェントの情報、この世に存在する要注意団体とその構成員の一部に関するデータ、あらゆる記述の奔流に目を走らせる。
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【諜報員:エージェント・玉露】
2147年11月22日に雇用されたlevel4諜報員。普段は東京都立根白高等学校の生徒として生活し、N-06区画の個人用地下シェルターに居住。Red等級危険団体『パピルスウィング』との交戦時に左腕を欠損。サイバネティック手術により電子制御式パイルバンカーを搭載した義手を取得。現在は破壊工作及び戦闘を主な任務として活動中。
【諜報員:エージェント・蛍火】
2147年11月22日に雇用されたlevel4諜報員。普段は千葉県立三船高等学校の生徒として生活し、O-17区画の個人用地下シェルターに居住。Red等級危険団体『suicide』との交戦時に一時仮死状態に陥り、復帰以降は物理法則やユークリッド幾何学に反した制御不能な超常現象を多発させている。現在は電子機器を用いない諜報活動のみが許可されており、その他の如何なる業務も割り振る事を禁止されている。
【諜報員:エージェント・あすなろ】
2148年1月3日に雇用されたlevel5諜報員。普段は東京都立久原中学校の生徒として生活し、P-1区画の集団用地下シェルターに居住。多くの危険団体の根絶に貢献し複数の栄誉勲章が贈られた。当時Green等級危険団体として扱われていた『眠り姫の不思議な国』にシェルターを襲撃された際に昏睡状態に陥り、容態は安定しているものの現在も意識不明。以降『眠り姫の不思議な国』はYellow等級危険団体として認定されている。
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『孤なる先導者』の撲滅作戦に関与しているエージェントの情報のみを閲覧したものの、戦力が圧倒的に不足している。
蛍火は著しく不安定な異常性を示しており、あすなろという識別子を与えられた大型新人は情報収集中に他の組織に襲撃され昏睡。霜月 京の捕縛を行えるのは俺だけだ。
霜月のデータと関連するものと思しき情報をデータベースから検索する。
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【危険団体:孤なる先導者】
危険等級Redの電子宗教団体。『孤なる者には寄り添い、時に救うべし』を行動原理とするサイバー・カルト。家族や学徒など集団で過ごす人々全てに対し敵意を持ち、しばしば甚大な被害を与える。これまでに確認されたデータでは簡素な造りの銃、刃物、爆弾等を製造する技術を有している。『殻の時代』が生んだ嘆かわしく過激な思想を持つ団体であると同時に、優先的に対処しなければならない危険な存在である。
【『孤なる先導者』構成員:エージェント・アヴァロン】
Red等級危険因子。住所等の基本的な情報は未だ掴めていないものの、諜報活動によってもたらされた情報から『都内電子宗教団体無差別発砲事件』に深く関与した可能性が示唆されている。彼の顔写真はごく限られた諜報員にのみ公開され、遭遇した場合は即時捕縛の義務が生じる。
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エージェント・アヴァロン。
間違いない。画像データとして添付されている顔写真は明らかに霜月 京のものと一致する。
俺は少しだけ歯噛みをした。
霜月 京に登校を促し健全な生徒として更生させる事と、エージェント・アヴァロンの捕縛を決行する事。その二つは両立し得ない。
考えるまでもなくどうするべきかは分かりきっている。学府よりも権力のある政府の意向に従う他無いだろう。
もしも彼の捕縛に成功したとする。エージェント・アヴァロンは自白剤を投与され『孤なる先導者』に関する情報の提供を強制される。
その後、おそらく政府によって秘密裏に殺害されるのだろう。この世界に危険な因子は必要ない。政府に尽くす人間のみが必要だ。
これ以上の思考を半ば無理矢理に遮断した。俺は端末の電源を落とし、寝具に寝転がり布団を被った。
いずれ、俺は直接的ではないにせよ人を殺す事になるだろう。
睡魔に屈する寸前まで、俺は霜月の事を考え続けていた。