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君と僕のおとぎ話

作者: ぱせり


今から僕が君に話すことは、きっとおとぎ話のような話だと思う。そう思ってもらっても構わないし、僕は君にそう思われることで怒ったりなどはしない。第一、僕だってこんな話をされたら、おとぎ話だと思ってしまうだろうな。

べつに真剣に聞いて欲しいわけでもなくて、ただ、耳を傾けてくれるだけで、僕は満足なんだ。ただ僕は君にこの話をしたいと思っただけなんだ。本当にそれだけなんだ。だって君はあまりにも――いや、そんなことはどうでもいいんだ。

僕がその女の子に初めて会ったのは、確か小学四年生とか、そこらだったと思う。

その日はサンタクロースが僕らの学校に来て、プレゼントを渡してくれるって日だったんだ。

僕らの学校ではそれが恒例行事だったんだけどさ、僕はすこし、これが嫌だったんだ。

だってさ、みんな、サンタクロースがインチキだって言うんだ。

僕だって、そのサンタクロースが近くに住む外人のおじさんだってことくらい知ってるよ。付け髭の下に真っ黒なヒゲを生やしてるのが見えたんだ。でも、それがサンタクロースがいないってことにはならないと思うんだな。なのに、みんなで、サンタはいないなんて言うんだ。参っちゃうよ。

だって僕は、見たことあるんだぜ。なにって、あれだよ。本当のサンタクロースさ。

「今日の集会ではここのクラスが一年生を連れて行く番です。そこで皆さんにお願いがあります」

毎回、一年生は集会の時にほかの学年の人が手を引いて連れて行くんだけど、その日の集会はちょうど僕らがその番だったんだな。まったく、タイミングが悪かったと僕は思うな。

「今日はサンタさんが来るけれど、そのサンタさんが偽物だってことは、言わないでくださいね。一年生のみんなは楽しみにしてるんだから」

クラスの中心みたいなやつがさ――しゅうとって奴なんだけど――僕の方をニヤニヤ見ながら言ったんだ。

「せんせー、ここにもサンタクロースを信じてる人がいるんだからその言い方はだめなんじゃないですかぁー」

僕のことだ。

「あら、そうだったわね、ごめんなさい」

 先生までサンタクロースがいない、みたいに言うんだ。

クラスの奴らは僕の方をチラチラ見ながらクスクスと笑いやがった。みんな去年のクリスマスを思い出してやがるんだ。

 去年のクリスマスも例外もなくあいつがやってきた。そう、偽物のサンタクロースだ。奴のせいでほとんどのやつがサンタクロースはいないって勘違いしちまったんだ。

「サンタクロースなんて、しょせん子供だましだよな。俺、父ちゃんがプレゼント置くところ、見たもん」

 去年も同じクラスだったしゅうとが言ったんだ。

「サンタクロースはいるよ」

 僕は呟いた。しゅうとはニヤニヤしながらこっちを見たんだ。

「お前、サンタクロース信じてんの?」

「僕、サンタさんを見たんだ」

「そうだな、俺も見たことあるよ。ほら、そこに、いるよな、にせもののサンタさんが」

 僕は頭にきちまって、しゅうとのことを殴ったんだ。そうしたら、あいつも殴り返してきて、あれは痛かったな。ちょっとした騒ぎになったんだ。

 慌てて担任の先生がかけつけてきて、事情を聞いてきたんだけど、僕の味方にはなってくれなかった。

「しゅうとが、サンタクロースはいないって言うから喧嘩になったんです」

 先生は苦笑いするだけだった。

「ねぇねぇ、サンタクロースのこと信じてるの?」

 集会が終わった時に女の子が数人僕に聞いてきたんだ。

「信じてるよ」

 女の子はクスクスと笑ってどっかへ行っちまった。自分たちが信じてるか信じてないのかも言わないままだぜ。まいっちゃうよ。

 それから三年生が終わるまで、女の子がしてきたような質問をたびたびされたんだけど、僕は嘘をつかなかった。つまり、サンタクロースはいるって答えてたんだな。

 四年生になってからは聞かれなくなったんだけど、さっきのしゅうとのひとことで、みんな思い出したみたいだった。授業中や休み時間までこっちを見て笑ってるんだぜ。こっちが呆れちゃうよ。

 別にみんなの視線がいやになったからとか、そんなちっぽけな理由じゃないんだ。ただ、偽物のサンタクロースがサンタ面をしているところは見たくなかったな。あとは僕よりもちいさな子供たちが、偽物のサンタに、サンタさん、なんて目を輝かせているところを見るのも嫌だった。しゅうとが手を繋いだ一年生にこっそり「サンタなんかいないんだぜ」なんて言って、その子ががっかりする顔も見たくなかったな。

そんなインチキなことばっか考えていたら僕は学校を飛び出していた。しゅうとに、今日八十回目の「サンタはいると思うか?」なんて聞かれた後だったな。気づいたら、上履きのままでがむしゃらに走っていたんだ。

なにも持っていなかった。学校にランドセルやらなにやらをすべて置いて来ちまったんだ。

けれど帰る気になんかなれずに、――インチキサンタクロースやしゅうとなんかと顔を合わせたくなくて――見覚えのない道を歩いていたんだ。

 しばらく歩いていればそのうち知ってる道路に着くだろうと思って歩き続けたんだけど、何故だかずっと知らない道なんだな。これには参ったな。この町で知らない場所なんてないっていうのが僕の密かな自慢だったんだ。

 しばらくここら辺を探検することになりそうだ、なんて考えてさ、知らない道を必死に覚えてたんだ。それがあとになって意味のないことになるんだけどさ。

 左側に曲がると大きな壁があったんだ。なんのお飾りもなければ、大きすぎて、壁の向こう側なんて見えなかったんだ。きっと家か施設かなんだろうけど、どうしても気になったんだな。だってさ、普通の塀よりもはるかに大きくて、飾りっ気一つないんだぜ。そりゃ君だって気になるだろう?

とにかく僕は入口を見つけようと壁に沿って歩いてたんだ。いつまでも見つからなかった。

 そして二回角を曲がると、壁のしたになにかあるのが見えたんだ。僕はあんまり目が良くなくてね、五メートルくらい近づかなきゃそれがなんなのかわからなかった。

 少女だったんだ。風に吹かれて、長いウェーブのかかった髪が揺れていた。あまりにそいつが綺麗だったもんで、僕は近くで立ち止まっちまったんだ。

 少女は壁の地面に面したところにある穴から上半身を出していた。ちょうど草原やなんかに寝っ転がっているような体勢でね。あまりに自然にそうしているくらいだから、なにもかも気にならなくなっちまったんだ。今ならいろんな疑問が浮かんでくるよ。どうして穴から飛び出しているのかとか、真冬なのに寒くないのか、とかさ。

 向こうをむいてた顔が、こっちをむいたんだ。黒髪ウェーブに見惚れていた僕は、彼女のすっかり近くにまで寄っていたんだ。当然しっかりと目も合うわけでさ、知らんぷりをすることなんて出来なかったんだ。最も、彼女の大きな目を見て知らんぷりなんて選択肢は消えたんだけれど。

「こんにちは」

 透き通って、耳に入った瞬間に溶けてしまいそうな、小さな声だった。でも、耳ん中をするりと通って、しっかりと鼓膜を震わせるんだ。どんな大きな声よりも、それはしっかりとさ。 

今でも思い出そうと思えばしっかりと思い出せる。ただ、今でもどんな声かっていうのは上手く表現できないんだな。とにかく、溶けそうなのに、溶けないような声だったんだ。

「こんにちは」

 やっとこさで僕は返事をした。そして、なんでもないふうに彼女の隣に座ったんだ。さっきまで見惚れていた、黒髪の、隣に。

「あなたの名前は、なんていうの?」

「僕の名前は、ホールデン。ホールデン・コールフィールドさ」

 一度、言ってみたかった名前だ。もちろん僕は見てのとおり、れっきとした日本人だし、外国で生まれたわけでもないんだよ。そういえば君にも名前を言ってなかったね。そうだな――いや、もう少し話してからにしないか。

「素敵な名前ね、コールフィールドさん」

 彼女の笑顔に思わず数秒止まってしまった。あまりに、その、美しかったんだよ。もちろん彼女は嘘だって気づいていた。それでも何も言わなかったんだぜ。そう言うところが彼女のいいところなんだな。

「ホールデンで構わないよ」

 僕はさも自分の名前のように立ち振舞ったんだ。ちっともかすってやしないのにさ。

「君はサンタクロースを信じるかい?」

 思わず聞いてしまったんだ。彼女はきっと僕と同い年かそれより上くらいだと思うんだけどそのときって大抵のやつが信じないだろう? 彼女が信じないなんて言ったら、僕はどうしたんだろうな。きっとおとなしく学校に帰ったりなんかしたんじゃないかな。でも、彼女はそう答えない自信があったんだ。なぜだかそのときはそういう自信に包まれていたんだ。

「うーん、そうねぇ。あのおじさんたまに私に意地悪してプレゼントをくれないときがあるから……あ、別に私が悪い子ってわけじゃないのよ? でも、悪い大人ってわけじゃないと思うわ。だから、私は信じられるわよ」

 彼女の言うことを理解するのに少し時間がかかった。僕は彼女にいるかいないかという意味で聞いたはずだったのに、彼女は、いる前提で話していたからなんだ。

 なにもかもなんでもよくなっちまってさ。それが彼女の優しい嘘だとしてもさ、そのときの僕にはそれが最適な答えだったと思うんだな。

 彼女はサンタクロースについていろんなことを話してくれた。

彼女、どうやらサンタさんと仲良しだったらしいんだ。だって、クリスマス以外にも会うんだぜ。そういうことだろう?

 彼女の話はとても面白かった。聞いていて飽きないんだな。僕は人の話はすぐに飽きちゃうような子だったんだけど、彼女の話は何十時間だって聞いていられると思うんだ。だって、それくらい、面白かったんだぜ。

「ねえ、どうして、ホールデンさんはホールデンさんなの?」

 そのとき、僕はとっても気に入ってた本があったんだ。そんときはよくわからない言葉ばっかりだったんだけどさ、その主人公がとってもお気に入りだったんだな。大人になるにつれて、いろんな知識も増えて、よりあいつのことが好きになったよ。きっと君もあいつのこと気に入ると思うよ。

「ライ麦畑でつかまえてって本知ってるかい? J・D・サリンジャーが書いたやつ」

 もちろん原文なんて読めやしなかったよ。今だって読めやしないさ。英語は嫌いだからね。でも、ライ麦の為に英語を勉強するのも悪くないな。

「知らないわ。でも、私、本を読むのは好きよ」

 彼女は目をキラキラさせたんだ。そんなふうに見られたらさ、こっちがドキドキしちゃうよ。でも、やめて欲しいとは思わなかったんだな。

「その主人公がさ、ホールデンって言うんだけど、なかなかいいやつなんだ。難しい言葉が多いんだけど、悪くないと思う」

 今では彼女にライ麦を勧めたことを後悔してるよ。だって、まさかあんないやらしい言葉があるなんて――君に勧めたのは後悔してないんだな。それは、つまり君が純粋じゃないとか、そう言うことをいいたいんじゃないんだ。つまりね、彼女の年齢が不適切だったんだよ。彼女が今の君と同じくらいの年ならもちろん勧めていたよ、神に誓ってね。

――とにかく僕はホールデンがどんなやつかを教えていたんだ。彼女はうっとりして聞いていた。きっとホールデンのやつが見たら、二十回くらいは惚れていたと思うな。ホールデンはそういう奴なんだ。そういうところも含めて僕は好きなんだけどさ。

気がついたら日が沈みかけている時間だった。時計なんて持ってなかったから、何時だったかなんて知らなかったんだけど、なにせ冬だったからね。四時とかそんなところだったんじゃないかな。盗み見がバレないようにちらちらと見ていた彼女の顔もだんだんと見えにくくなってきたんだ。

 上着もなくて、僕はすごく寒かったんだけど、彼女は平気で寝っ転がってるんだな。僕のお尻なんか凍ってるんじゃないかって心配だったのにさ。彼女は天使かなんかかと疑ったくらいだ。だって、僕より薄着なのに寒いという素振りすら見せないんだよ。これには参ったな。

「君、寒くないの? 僕は寒くないんだよ、全然ね。ただ、君は寒くないのかって、そう思っただけさ」

 僕は歯をガチガチ言わせながらそう言ったんだ。

「あら、寒かったかしら? 私いつもここでこうしてるからあまりわからないわ」

 いや、まさかびっくりしたよ。だってこんな寒い中ずっと外にいるっていんだぜ? 気が狂っちゃうよ。

 ずっと彼女と喋ったりなんかしたかったんだけど、寒さの限界だった。道を覚えてまた明日こようと思ったんだ。

「君は明日もここにいるの?」

「そうね、いつでもいるわ」

「じゃあまた明日も会いに来ていいかい? もちろん、君が良ければの話なんだけど」

 彼女は笑った。彼女、天使みたいな笑い方をしやがるんだ。

「そうね、また来れたらお話ししましょう。あ、そうだ。これ、あげる」

 彼女はポケットから何かを取り出して、冷たい僕の手のひらに乗せて、それをぎゅっと握らせた。内側から冷たさがジンと伝わってくる。でも、それよりも彼女の手のひらの方がはるかに冷たかったんだ。

「手を開けてもいい?」

「ええ」

 彼女に握られたこぶしをそっと開けると、そこにあったのはカギだった。

「これ、なに?」

「カギよ」

 彼女は当然というように言う。そんなことはいくらバカな僕でもわかっているさ。

「なんのカギ?」

「カギは、カギよ」

 いじわるしてるんじゃなくて、彼女は本当にそう言ってるんだ。だって少し困った顔して言うんだもの。僕も困った顔をすると、彼女は少し慌てたように言ったんだ。

「おまじないをかけたカギよ」

 そういうことじゃないんだけど、僕はそのおまじないってやつがなんなのか気になっちまってね。どこを開けるカギなのかなんて疑問がどっかへ行っちまったんだ。

「なんのおまじないをかけたの?」

「ホールデンさんが、またここに来られるおまじない」

 君はおまじないってやつを信じるかい? 実は、僕は今でもね、そのおまじないってやつをさ、やるときがあるんだ。でも、これは誰にも言わないでくれよ、頼むから。

 痛かったときに「いたいのいたいの、とんでゆけ」なんて言うと、心なしか少しだけ痛くなくなる気がするんだ。あと、人前に立ったりとかとんでもなく緊張するときは手のひらに人をみっつ書いて飲み込むんだ。いまでもだぜ。こんなこと、誰にも内緒なんだけどさ。

――とにかく、その鍵を僕はポケットに入れて帰ることにしたんだ。歯をガタガタ言わせながらね。

「ねぇ、帰り道はどっちかわかる? 知ってる道まで案内してもらえればいいんだけどさ、君、動ける?」

だってさ、彼女が出てる穴は彼女のお腹の周囲とピッタリおんなじなんだ。前にも後ろにも引っかかるんじゃないかってくらい。どうやって入ったのかまるで想像つかないんだな。

「きっと、曲がり角を四回左に曲がったらわかるわよ。一番最初に見かけた曲がり角を四回曲がるの」

 彼女がそこから動けるかどうかってことは教えてくれなかったんだ。

 でも僕は寒くて寒くて、明日あったかくして、そんな話を彼女とゆっくり話そう、なんか考えてたんだな。

「じゃあ僕は帰ることにするよ。明日も来るからね。風邪を引かないようにするんだよ、ここはすこし寒いからね。僕は寒くないんだけど、きっと君は寒いだろうから……また明日たくさん話をしてくれるかい?」

「ええ、もちろんよ。私はいつでもここにいるわ」

 彼女はにっこり笑うんだ。この間に僕はくしゃみを八回したね、歯をガチガチさせてさ。

 彼女とお別れをして、最初の曲がり角を曲がるときに彼女をもう一度見たんだ。寝そべって、首なんか傾けちゃってさ。なんともかわいいんだな。手を振ると、彼女も手を振ってくれた。そのまま手を振り続けていたかったんだけど、曲がり角を曲がったんだ。

 一つ目の角を曲がったところで、カギのことを思い出したんだ。ポケットに入れたんだけどさ、それを取り出して、意味なく眺めていたんだ。頭のところがさ、ちょっと変わった形をしているんだ。おとぎ話に出てくるような形をしていたな。僕の体温で、もうあったかくなってたんだけどさ、彼女の手の冷たさを思い出したんだよ。寒いのは嫌いなんだけど、彼女の手の冷たさは心地の良いものだったんだ。本当に、氷くらい冷たかったのにだよ。僕はまた、そのカギを大切にポケットに入れたんだ。卵を持つときよりもそれは丁寧に扱ったんじゃないかな。

 二つ目の角を曲がったところで、サンタクロースのことを思い出していたんだ。彼女の聞いたサンタクロースは実に愉快なんだな。少し、おっちょこちょいでいたずら好きらしいんだ。

彼女の話を聞いていて思ったのはだね、これからは、サンタクロースはいないって嘘をつこうかってことなんだな。サンタクロースがおっちょこちょいでいたずら好きだなんて、きっと世界中僕と彼女しか知らないんじゃないかな。彼女が誰かに話してなかったらの話だけど。

 そういうのも、案外悪くないと思ったんだ。みんなには、教えてやらない。教えてなんかやるもんか。

 実はね、僕はいまでもサンタってやつを信じてるんだよ。こんなこと言ったの彼女以来、君が初めてだよ。君になら笑われたって構わないって、そう思ったんだな。

 もちろん、僕が大きくなって、結婚なんかしたら、子供ができるだろう? その子供がさ、少し大きくなんかなってさ、サンタさんにお願いごとをするだろう? 手紙なんかでさ。僕はそのプレゼントをこっそりと買って、クリスマスの夜に子供のかわいい寝息が聞こえる枕元に、そのプレゼントをそっと置かなきゃないことくらいは今はもうわかっているんだ。

 それでもね、どこかにおっちょこちょいなサンタクロースがいるって今でも思ってるんだよ。だって、何でもかんでもいないって決めつけてしまう世界ってのは、あんまりにも悲しすぎるじゃないか。

 三つ目の角を曲がったところで、彼女の名前を聞いてないことに気づいたんだ。なんで早くに気にしなかったんだろうと思ったよ。それに僕の名前だってホールデンのままだった。立ち止まって聞きに引き返そうかと考えたんだけど、あまりに寒くてね。明日ゆっくりいろんなことを聞こうと思い直してやめたんだ。いまになって、それをすごく後悔しているよ。そのとき引き返してたら、なにか変わっていたかもしれないのにな。

 四つ目の角を曲がったところで、知っている道に出ていた。ここは小学生の中では少し有名な場所なんだ。おにごっことかをするときは、むやみにここに近づくとオニに追い込まれてしまう。だって、ここは――今来た道を振り向くと僕の後ろには高い高い壁があって、行き止まりの印が書いてあった。

 チャリン、となにかが足元に落ちる音がした。

 拾おうと思って周りを見渡したけど、石っころ一つありゃしないんだな。

 ポケットを探ってみたけど、貰ったカギがどこにも見つからないんだ。両方のポケットをひっくり返したよ。お尻のポケットもひっくり返したな。それでも見つからなくて、寒さのせいで鼻水を垂らしながら、目を凝らして地面を這い回って探したんだ。

 もう暗いからさ、近づかないと見えないんだけど、そのうち視界までぼやけてきたんだな。

目をこすってみたら涙が出てたんだ。泣いているのに気づいたらさ、なんだか涙が止まらなくなっちゃったんだな。そのまま地面に座り込んで鼻水と涙でぐちゃぐちゃになるくらい大泣きしたんだ。

 だって、さっきまで歩いていた道が行き止まりの壁の向こうでさ、せっかくもらったカギがなくなっちゃったら、まるで彼女といた時間が夢だったと言われてるみたいじゃないか。

 いよいよカギは見つからなくて、僕は当てもなくフラフラ歩いていたんだ。次の日も探しに行ったんだけど、やっぱりなかったなぁ。

 フラフラ歩いていると、近くに公園があったんだ。ここの公園は「おばけ公園」って言われていて、誰も近づかないんだ。

本当は違う名前があるんだろうけど、みんなそう言うから、本当の名前なんて知りやしないんだ。なんたって、随分前におばけが出たみたいでさ、それからみんな近づきたがらないんだ。まぁ、ここの公園にはベンチとなにが入ってるかわからない物置くらいしかないからさ、近づく必要なんかないんだけどさ。

おばけなんて、別に怖くないんだけど、僕はここの公園がきらいでね。いや、本当におばけなんて怖くないんだけどさ、なんとなくきらってたんだけど、そのときはそんなのどうでもよかったんだ。

 寒くて体がガチガチに震えて仕方なかったんだけど、それすらどうでもよかった。だって、この寒さがなかったら、いよいよ彼女と話していた時間を証明するものがなくなってしまうじゃないか。

 しばらくベンチに座って、震えていたんだけど、そこでホールデンのことを思い出したんだ。あいつは学校を退学してから寮を飛び出すんだけど、家に帰る前に公園で寝てしまおうとするんだな。そして、そのまま肺炎なんかで死のうとするんだ。結局ホールデンは公園に泊まったりはしなかったんだけど、僕はそれをやろうと思ってね。

 彼女と、もう出会うすべがないなら死んでしまったって構わないと思ってしまったんだ。ただ、葬式なんかでしゅうとがサンタクロースの話をするのは、許せなかったな。あいつはそういう奴なんだ。それがいいことだと思ってるんだから、とんだイかれた野郎だな。

まだそんなに遅い時間でもなくて、きっと夕ご飯を食べてる時間くらいだったんじゃないかな。ひどくお腹がすいていたんだけど、なにも食べる気にはなれなかった。

 ベンチに寝っころがって、彼女のことを考えたんだ。彼女のことを知ってしまった以上、これから先、二度と彼女に会えないなんて人生は僕にとっては無価値でしかないと感じたんだ。

 だって、きっとこの世界には彼女以外にサンタクロースを信じてくれる人なんていないだろう? みんな小さな子供のときは目をキラキラさせて信じているはずなんだ。

 でも、大きくなると、なんの証拠もないのにいないなんて言い張るんだな。去年まではサンタさんなんて、目を輝かせていた子供が次の年にはサンタクロースを信じる友達をばかにしたりするんだ。そういうのを見ると、僕はひどく気が滅入ってしまうんだ。

 そんな世界を見る羽目になるなら、僕は肺炎で死んでしまって、墓地なんかに押し込められて、いらない花をお腹の上に乗せられるほうがずっとましだと思ったんだ。

 しばらくすると、いよいよ震えも止まらなくなって、クシャミもでてきた。

 きゅうに、母さんのあったかいご飯が恋しくなったんだよ。きっと小学校から連絡がいっててさ、怒られることが間違いなかったんだけど、それでも用意してあるあったかいご飯が食べたくて仕方なくなったんだ。

 泣きながら家に帰ったよ。母さんはガチガチに冷えた僕を抱きしめてくれた。そのあとでたくさん怒られたんだけどね。

 彼女のことはみんなに話しても信じてくれなかった。それはそうさ。だってあそこの行き止まりの壁の向こうにはなにもないわけだし、彼女に会った証拠のカギだって見つからないままだったわけだもの。

 そのうち彼女のことも話さなくなって、いよいよ僕もあのときのことは夢だったんじゃないかって思うようになったんだ。

 中学に入ってからはサンタクロースからプレゼントを貰わなくなってその代わりに父さんがお小遣いをくれるようになった。高校に入ると、彼女ができたし、あのときあんなに夢中に読んでたライ麦も、読み返して恥ずかしくなって、読まなくなってしまったんだ。ホールデンのやつは変わらず好きだったんだけどさ。

 大学に入って、いよいよ僕は町から出ることにしたんだ。小学生のうちで町の全ての場所を知ってしまった僕には、ひどく狭く感じたんだな。

 本当はまだ冬休みにも入ってないんだけど、きゅうに帰りたくなって、昨日この町に帰ってきたんだ。

 ふとカレンダーを見たらさ、久しぶりに彼女のことを思い出したんだよ。そういえば確かこの時期だったな、なんてさ。

 今日はなにも予定がなかったから、散歩がてら、もう一度あの行き止まりの壁に行こうと思ったんだ。

家を出たのはもう四時をまわっていたな。少し日が沈んでいたのがわかった。まだここを出てから二年しか経ってないのに、ひどく懐かしく感じたんだな。肺炎で死のうなんて、ばかな真似をしたおばけ公園も相変わらずだった。

 行き止まりに着くと、そこだけは少し暗く見えたんだな。行き止まりの印ははげかけて、どんな印なのかまるでわからないくらいだった。

 あのとき振り向いた光景とまるで一緒だったよ。わかっていたけど、なんだか悲しくなってね。涙が出る前に帰ってしまおうと思ったんだ。

 振り向くと、チャリン、となにかが足元に落ちる音がした。何年も前に聞いたことのある音だった。

 何度も探していた、あれから何度も考えていた。そこにあったのは彼女から貰った、カギだったんだ。

 拾おうとしたら、うまく掴めなかった。視界が歪んでいたんだ。でも今度は自分が泣いているんだって知っていた。滲んだ視界で前を向くと、夕焼けに照らされた彼女がいた気がしたんだ。僕と同じくらいに成長した、彼女がだよ。

 息が止まるかと思ったよ。慌てて、目をこすって滲んだ視界を壊した。

 でもそこに経っていたのは彼女ではなかった。彼女に限りなく似た、君だったんだよ。

 君がどうしてここに来たのかは僕にはわからない。さっきあれだけ聞いても教えてくれなかったからね。

 でもさ、彼女に似た君がいて、いままで見つからなかったカギが見つかって、行き止まりの印のところにカギ穴があるってことは、単なる偶然じゃないと思うんだ。

 こんな長い話を聞いてくれてありがとう。いい加減お尻が凍っちゃうころだったろう。

本当は君が彼女なんじゃないかなんて思ってみたりもするんだ。君の記憶にないだけで、もしかしたら小さいころの君はあそこの穴にいたのかもしれないなんて、そんなことを考えたりもしたんだよ。でも、そんなことは今の僕にとってはどうでもいいように感じるんだ。あのときの彼女も素敵だった。でも、いま僕の隣でこんなに長い間話を聞いてくれた君も十分に素敵だからさ。

 さっきから僕はもう無くしちまわないように、話している間もカギをぎゅっと握っていたんだけど、無くさなくてよかったよ。これは君にあげよう。いや、君に貰って欲しいんだ。返すって言葉のほうが正しいのかな。僕にはよくわからないや。

君がいまからこのカギ穴をあけて、きっとあの壁の穴のところに繋がる道を行くのも、このカギをどこかの川へ投げ捨ててしまうのも、僕にとってはどちらでもいいことなんだ。

 確かに僕は彼女に会いたくて仕方なかった。でも、カギが見つかったことで、僕と彼女の時間は夢じゃなかってわかったわけだし、君に会って、君が僕の話を最後まで聞いてくれたことで、僕はもう充分なんだな。

 僕の体温でカギがだいぶあったまっちゃったな。彼女から貰ったカギは氷くらい冷たかったんだけどさ。

くれぐれも言うけど、僕が今話した事は、おとぎ話だと思ってくれてかまわない。サンタクロースと一緒さ。でも君が今の話を聞いて、少しでもサンタクロースを信じてくれるって気になったんなら、一緒に信じてくれないかな。もし君の記憶にさらさら僕のことなんて残ってないとしてもだよ、今まで僕が話した事は、僕と君のおとぎ話だってさ。

参考:ライ麦畑でつかまえて

J.D.サリンジャー (著) 野崎 孝 (翻訳)


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