2-3
小河原に飛びついた獣は、いつか動物園で見たイタチに良く似ていた。
だが決して本物のイタチではなく、口が大きく裂けていて尾も異様に長い。
獣は素早く小河原の体を駆け上がると、彼の鼻の穴から体内に潜り込んだ。
子供の腕より大きな獣がどうやって中に入ったのか。
仕組みは千博にも全く分からなかったが、入り込まれた小河原はぴたりと大人しくなった。
(収まったのか――?)
しかし小河原はすぐに、先ほどよりも激しく動き出す。
ただその動きは自分を傷つけるものではなく、まるで葛藤しているようにも感じられた。
彼の体内では一体何が起こっているのだろうか。
小河原は叫び声を上げ始め、やがてそれに少年の絶叫が加わる。
一人の人間から二人分の声が上がっている光景は、実に気味が悪かった。
だが小河原の体から赤い霧のようなものが立ち上り始めると、小笠原の絶叫は止まり、叫びは少年のものだけになる。
少年の叫び声はしばらく続いたが、それも霧が出てくるにつれて弱まっていき、最後は出尽くした赤い霧と一緒に虚空へかき消えて行った。
同時に、小河原は糸の切れた操り人形のように倒れる。
「勝負はついたみたいだね」
部長が満足げに言った。
どうやら除霊は無事に成功したらしい。
部長が「戻っておいで」と言うと、小河原の口から先ほどの獣が飛び出し、彼女の指へ舞い戻った。
ちぎれたはずの人差し指は、いつの間にか元通りになっている。
しかし驚いている暇はない。
千博が小河原のもとに駆け寄ると、彼の状態は悲惨の一言であった。
剥がれた頭皮で頭部は赤い水玉模様となり、唇がちぎれて歯茎がむき出しになっている。
また瞼も爪によって切り裂かれ、眼球からは液状のものが流れ出ていた。
「……救急車を呼びます」
今度は千博が電話しようとするのを止める者はいなかった。
*
小河原が悪霊にとり憑かれてから、三日がたった。
幸い命に別状はなかったようだが、悪霊に憑かれると人は精神に多大なダメージを受けるらしい。
小河原が精神病院に移されることになったと、今朝鳴郎が教えてくれた。
話によると、彼は一日中奇声を上げながら室内を徘徊しているという。
家族の顔も分からないような状態らしく、話を聞いた千博は取り返しのつかないことをしてしまったと思った。
あの時小河原を少年の霊に合わせなければ、こんなことにはならなかったのだ。
鬼灯兄妹はそろって気にする必要はないと言ってくれたが、自分を責めずにいられるわけがない。
昼休み、弁当を食べる気にもなれなかった千博は、一人で図書室へと向かった。
教室は騒がしすぎたし、本でも読めば少しは気が紛れると思ったからだ。
初めて入った図書室は意外と充実しており、千博はずらりと並んだ本棚を見て回る。
図書室にはもちろん民俗学関係の書物も置いてあり、妖怪に関する本も何冊かそろえてあった。
千博はその中で一番分厚い一冊を手に取ると、閲覧用の机でそれを開いてみる。
本は図鑑形式で、挿絵と詳しい解説が各妖怪ごとに記してあった。
ページをめくり、最初からざっと目を通してみる。
世間でも有名な妖怪から聞いたこともない妖怪まで一通り載っていたが、千博はとあるページでハッと息をのんだ。
先日見た白い獣にそっくりの妖怪が、「尾裂狐」という項目に載っていたからである。
挿絵は江戸時代に描かれたものだと脚注が付いていたが、裂けた口も長い尾も、部長の指先から飛び出した獣そのものだった。
急いで解説を読んでみると、尾裂狐とは名前の通り狐の妖怪らしい。
狐といっても動物の狐とは少し違うようだが、捕まえて上手く飼いならせば物を盗ませたり、また人に憑かせることもできると書いてあった。
部長が放ったあの獣。
あれは尾裂狐という妖怪だったのだ。
おそらく部長は、自分が飼っている尾裂狐を小河原に憑りつかせ、すでに体内にいた悪霊追い出したのだろう。
飼い主の体に住むとはどこにも書いてなかったが、多分彼女のアレは尾裂狐で間違いなかった。
そこまで考えたところで、千博はすっかり妖怪の存在を受け入れてしまった自分に気付き、思わず苦笑する。
(そういえば部長にあの時のお礼を言ってなかったな……)
千博はあの後病院に付き添ったりで、お礼どころか彼女にさよならすらできずじまいだった。
明日改めて礼を言わなければと思っていると、後ろから声をかけられる。
振り向くと、そこには人形を抱いた常夜が佇んでいた。
「こんな所にいたのね。探しちゃったわ」
「常夜先輩がどうして――?」
「この間のことよ。隣、いいかしら」
千博がうなずくと、常夜は空いていた右隣に腰かけた。
「鬼灯姉妹から聞いたんだけど、あなた、随分この間のことを気にしているそうね」
率直な常夜の問いに、千博は少し間をおきながら「はい」と返事をした。
もしあの時出しゃばった真似をしなければ、小河原は今も教壇に立っていられたはずなのだ。
「俺のせいで、小河原先生はおかしくなってしまいました。法律とかでは無罪かもしれませんが、俺に責任があるのは確かです」
「責任感が強いのね。もし小河原先生もそうなら、今回の結果も違ったかもしれないわ」
千博が疑問を口にする前に、常夜は新聞を机の上に広げた。
この図書室の物らしいが、日付は今年の二月である。
紙面には「中二生徒飛び降り自殺」と、大きな見出しが躍っていた。
「氷野君が図書室にいてくれて、結果的には助かったわ」
「あの、この記事が何か」
「氷野君は、この事件のこと覚えてる?」
「えっと、確か……」
最初はうすぼんやりとしか思い出せなかったが、新聞の太字を見るとすぐに記憶がよみがえってきた。
「これって確か、中二の男子生徒がいじめを苦に自殺した事件ですよね。学校が隠ぺいしたりで、大騒ぎになってたと思います」
「そう、今年の冬に起きたいじめ自殺事件よ。イジメのきっかけは、自殺した生徒のクラスで盗難あって、その生徒が犯人だと思われたことだったわ。結局違ったようだけど」
彼を最初に泥棒だと決めつけたのは、あろうことか担任教師だったと千博は記憶していた。
イジメが始まっても担任は見て見ぬふりを決め込み、生徒が自殺しても、イジメの証拠が出るまでイジメはなかったと主張していた覚えもある。
しかしこの事件と、この間の件について何の関係があるのだろうか。
千博は首をひねったが、新聞に載っている被害者の顔写真を見て声を上げた。
そこにはあの少年の霊と全く同じ顔があったからである。
あわてて事件の起きた中学の名前を調べてみると、そこには××県○○中学校と記されていた。
「常夜先輩、この事件の被害者ってひょっとして――!」
「察しの通り、あの幽霊の正体よ」
「じゃあもしかして、彼を見殺しにした担任というのは……」
「小河原ね」
千博は口を開いたまま、言葉が出なかった。
あの霊が小河原に会いに来た目的は、自分を自殺に追い込んだ彼に復讐することだったのか。
「でも、最初は大人しかったし、どうして――!?」
「無差別な悪霊じゃなかったのよ。復讐対象以外には、ごく普通の霊だったってこと。結構よくあるのよ」
常夜はクスリと笑いながら続ける。
「でも、これで少しは気が楽になったんじゃないかしら? 小河原は不運にも悪霊に憑りつかれた被害者じゃなくて、そうなるだけの理由があったってこと」
常夜が言わんとすることは分かった。
生徒を窃盗犯と決めつけ、結果的に自殺まで追い込んだのだ。
今回の発狂も、自分の無責任と思いやりのなさが招いた当然の結果なのかもしれない。
だが、千博はそれを否定せずにはいられなかった。
「でもだからって、あんな目に遭っていいとは思えません。小河原先生だって、あれから反省していたかもしれないし……」
「残念だけど、それはないわ。反省してたら、そもそもこの学校になんて飛ばされてこないもの」
「どういうことですか」
「この街の学校はね、依願退職を迫られても辞めなかった教師が来る、先生の墓場なのよ」
あんまりな常夜の言葉に、千博はあんぐり口を開けた。
つまりこの学校は問題教師が次々左遷されてくる、ゴミ捨て場ということなのか。
「そんな、教育委員会はこの街の学校に恨みでもあるんですか」
「恨みというより、そうするしかないのよ。教師の間ではこの街の学校に赴任すると、不幸になったり最悪死ぬって噂されてて、誰も行きたがらないの。まぁ本当のことだからしょうがないんだけどね」
「だから後がない問題教師を、無理やり飛ばしてくると?」
「そう。たとえ県や自治体が違っても特例で移動させるわ。辞めなくていいから、この学校に赴任しろと言ってね。嫌な噂はあるけど所詮は噂だし、みんな喜んでここに来るの」
真実を知った千博は、頭を抱えた。
街が化け物だらけであるのに加え、学校まで問題教師の巣窟とは。
千博はこの街に来ることになった自分の運命を呪っていると、担任の三上のことを思い出す。
「……じゃあ俺の担任の三上先生も、何かやらかしてここにきたんですか?」
「安心して。何も学校にいる教師の全員に問題があるわけじゃないの。この街に対処できる教師もこの学校に配属されるのよ。三上先生は元神主で、それなりの心得があるからここに配属されたってワケ」
「なるほど。少しは安心しました」
「話は戻るけど、つまり小河原は退職を拒んだからこの学校に飛ばされたのよ。反省している人間が、辞職もしないでのうのうと教師を続けると思う?」
千博は無言で首を横に振った。
証拠が出るまでイジメはなかったと責任を否定していた小河原は、きっとその後も責任を取るまいと追求から逃れ続けていたのだろう。
「あともう一つ言っておくけど、仮に氷野君が霊に小河原を会わせなくても、霊と小河原はそのうち出会っていたと思うわ。だって同じ校舎内だもの。当たり前よね」
「……そうかもしれません」
「邪気のせいで少年の霊はどんどん凶悪化していったと思うし、むしろ早いうちに済ませられて良かったんじゃないかしら」
言っていることは少々乱暴だったが、千博は常夜が自分を慰めようとしてくれているのだと分かった。
ひょっとしたら今言ったことを伝えるために、彼女はこちらを探し回っていたのかもしれない。
「ありがとうございます。常夜先輩」
千博が言うと、常夜は若干鼻白んだようであった。
抱かれた人形の目が若干見開いたように見えたのは、こちらの気のせいだろうか。
常夜は音もなく立ち上がると、自然な動作で椅子を元に戻す。
「分かってくれたんなら、私はもう行くわ」
「あの、常夜先輩」
「まだ何かある?」
「……先輩はどうして怪奇探究部に入ったんですか?」
実を言うと千博は、常夜と話している最中からずっとそれが気になっていた。
鳴郎とキクコは己の肉体という武器があり、部長の尾崎には尾裂狐という飼い妖怪がいるが、常夜にあるのは魂が入っているという人形だけである。
それだけではとても身を守れないだろうし、そもそも常夜が妖怪退治を好む性格には全く見えなかった。
千博としては二言三言で答えてくれればそれでよかったが、常夜は二三度大きく瞬きをした後、また椅子に座りなおす。
「居場所が、欲しかったのよ」
思ってもみなかった重い一言に、千博は顔をしかめた。
「私ってこの通り、いつも妹と一緒にいるでしょう? だから普通の人は一緒にいてくれないのよ。気味悪がって」
軽い気持ちで、悪いことを聞いてしまったと思った。
しかし下を向く千博の横で、常夜は話を続ける。
「でもね、そんな私もあの部活にいるヒト達から見れば、そんなにおかしな存在でもないのよ」
「……みんな結構曲者ですからね」
「そうなの。だからこそ私みたいに普通から外れてしまった人間にとっては、あのクラブは居心地がいいってワケ」
千博は引っ越してくる以前のことを思い出した。
子供離れした体格と頭脳から、遠巻きにされ、時には嫉妬された。
いじめられこそしなかったが、周囲と馴染んできたとは言い難い。
「氷野君も種類は違うけど、私と同じクチかしら?」
「えっ?」
「年の割に随分落ち着いているし、頭も良さそうだし。転校する前に友だちはいた?」
「……いません」
「もしあなたさえ良いなら、怪奇探究部に入ってみたら? 部員たちは貴方がどんなに人とちがった人間だろうが、関係なく接してくれるわよ?」
常夜は早口だが聞き取りやすい声でそう言うと、今度こそ席を立って図書室から出て行った。